近江異形の城 柳ケ瀬 打谷砦 水の手砦
対談者
災害と城郭 常識と良識 とは何でしょうか?
長谷川
津波の危険性のある集落では想定される津波の
高さや災害の想定に合せて防災対策がされます。
対談者
住民は堤防つまり防波堤の壁を見ておられます。
攻め寄せる恐ろしい水害と言う敵を防ぐ防波堤を!
長谷川
それと同じで城塁見学ならば城の土塁や堀切を見る
事です。堤防の高さとは「常識」と言えます。常識
に従って民家に留まり亡くなられた尊い生命の御冥
福を改めて謹んでお祈り致します。大津波を予想し
て多数の子供達を高台に避難させた学校の先生は
「良識」を備えた賢人であり真に社会の手本とすべ
き良識の人。ここに「常識」と「良識」の深い意味
合いの違いがあります。
対談者
賤ケ岳城の跡を訪れて多くの観光客は「堀切」を見学
されませんね?私達城址見学する人々は「常識」として
城の表つまり敵が攻めてくる方向に堀切がある事を確認
致してます。最初から全く堀切を見る気の無い人おられる。
長谷川
観光客様は「堀切」など一切見学されません。頂上
からの景観や旅情を楽しまれて古戦場から帰られる。
そもそも歴史好き、名所探訪、史跡見学で堀切を見
るか見ないかで戦史や歴史解釈は随分と変わるもの。
名勝賤ケ岳は観光地であると言う先入観のある人と
天下の秀芳の古城を見学しようと堀切に向かう人と
の価値観や世界観は大きくかけ離れている事になり
ます。古戦場には観光施設も歴史遺跡が残っている。
歴史遺跡を見る根本である、堀切を見学しなければ
賤ケ岳城の歴史的な見学とは、言えないと思います。
対談者
それでは城の正面を確認せず帰った事になりますよ?
砦や古城の正面に必ず保切が存在します是を見る事!
家庭訪問したら玄関必ず入ります駅なら改札を通る。
長谷川
観光客様にとり堀切は全く意味のない別世界別分野!
貴方の常識と観光客様の常識は完全ズレていますね?
世の中とは想定外の災害や想定される悪疫に対する
事前対策を打たないものなのです。想定とは都合の
良い一部の人の尺度や都合や取り、決めでしょう?
災害や悪疫が発生した場合には真心と誠意ある政治
家と人気取りに終始している。歴史の現実の堀切を
冷静に見る心構えは基礎的な初歩的で必要だと思う。
世の中に堀切を
見学する人が多賀町佐目でも余呉町で本当に出現し
たらそれは常識ある人と言うより良識ある人と言え
世の中とは、多数の小学生を守った小学校の先生が
社会から賞賛される図式には現実にはなっていない
のです。本当は多数の人命をの守った少数の人間が
表彰され良識ある善人で人の手本とされるべきもの。
人間とは愚かなものです。神でもないのに勝手に愚
かな想定と言う基準を作り、それが常識だと住民も
思い込み信じ込む恐ろしさが現実社会の存在します。
倫理教育や道徳教育の軽視が日本の発展を阻害する。
対談者
滋賀県の犬上郡佐目に10年以上前に長谷川先生が
フラリと来られて長谷川先生が到着されイキナリ
城址があります。調査しましょうと言われて私は
この集落に何十年も住んでいる地元住民ですから
そんな馬鹿なはずが無いと、思いました。しかし
先生は私達とともに登山されて、イキナリ城址を
計測を始められた。
堀切があります。中世城郭。と言われて私は衝撃
でした。それはシャーロック、ホームズとか探偵
推理小説に登場する私立探偵、金田一耕介先生の
様な不可思議さを感じました。私は衝撃に仰天!
対談者②
長谷川先生はその道の研究家です。研究家の本質
とは歴史、地理、城郭分布、地名考、民俗伝承を
トータライズして総合的に現実に研究されている
からこそ、学門や学究されている学徒だからこそ
着実に、理論的に、的確に、城址を発見調査する
出来る城郭研究の基礎能力が備わった基本的な人。
一般者
横溝正史の小説では地元警察や集落が血道を上げ
必死に威信をかけ、無理矢捜査しようする人々の
姿と別の住民から探偵調査を依頼されフラリ集落
に姿を表わす金田一耕介の飄々たる探偵がサラリ
と事件を解決して飄々と東京に帰っていく対象的
な姿描かれています。かたや「公的機関」かたや
「民間」事件が究明され解決すれば飄々と帰途に
つく金田一耕介の浮世離れした才能に小説を読む
一般大衆はしばし我を忘れて事件を推理し考える。
質問者
打谷砦とは何処に存在するのですか?
今回もフラリと長浜市余呉町柳ケ瀬に現れて城郭の
基礎と言える城郭証明たる堀切を発見出来ますか?
長谷川
城址が存在する歴史的条件研究視点に裏打ちを得て
現地調査に飄々と向かう訳です。純粋な学門目的で、
現場行先は滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬小字打谷です。
長谷川
大坂城には真田出丸がある小谷城にも出丸がある。
越前一乗城山にも小見放城や小城や月見櫓などの
出丸がある玄蕃尾城に出丸があって当然の事です。
質問者
えらく、北近江の城址には精通されてますね?
長谷川
私は余呉町の産ですから、存知あげております。
対談者
犬上郡佐目の城址でも柳ケ瀬の打谷でも突然
来て一発で古城を発見される事に寒気がする。
質問者
水の手砦とは?
長谷川
『余呉庄合戦覚書下』
に柳ケ瀬 中尾城、本丸一町程。下谷に水の手アリ。
と記されています。この水の手に相当すると思います。
質問者
中尾城とは?
長谷川
柴田勝家の内中尾山城の事です。「玄蕃尾城とも言う」
質問者
過去の昭和30年代の近江柳ケ瀬の写真がありますか?
長谷川
①柳ケ瀬という中世近世現代も普遍的交通の要所。
②越前朝倉氏は近江浅井氏を救援の為柳ケ瀬布陣。
③文献『信長公記』で刀根坂や椿井宿が登場する。
④右下の打谷は北国街道直接監視に利便な地勢だ。
⑤余呉川や荒谷川が合流し兵員の駐屯出撃に便利。
⑥玄蕃尾城の目や手の役割を果たす重要な出丸城。
⑦中世椿坂に関所が彦根藩は柳ケ瀬の関に構えた。
⑧常識として打谷に城塞を構える事は武人の常識。
左の山が内中尾山そして電柱の左下▼が打谷です。
質問者
水の手砦の形状を教えて下さい。
長谷川
この砦が水の手砦と確実に断言する事は避けます。
先ず建物基壇と思われる遺構が残っております。
築山なのか土塁なのか解らない土の塊が二か所
残っており山寺や木場「林業の施設」の様にも
感じます。山道の他に空堀も深々と残ってます。
帯曲輪は非常に明確に残っていて驚きます。背後
の大きな山尾根は布陣遺構と思われる広大な山で
玄蕃尾城へと山道で繫がっております。この場所
は東に余呉川が流れておりその斜面は急峻で一般
の人の登攀は無理です。絶壁と言ってよい秘境で
また南に向いた谷筋は熊の巣窟で人間が行くべき
所でありません。この空堀は木ノ本田上山城南の
大堀切と類似しており越前朝倉時代の柳ケ瀬山の
陣の可能性もあります。
質問者
縄張図を作成されましたか?
長谷川
地形を計測して作成しました。この砦自体でも南北
100m近くありその全容をお見せする事は避けます。
質問者
この近辺は織田信長、佐久間信盛、朝倉氏も柴田
勝家などなども布陣した戦国交通の要衝ですよね?
玄蕃尾城の出丸の様な出城が必ず堀切を南に構えて
北国勢が陣したと思われる打谷砦を教えて下さい!
長谷川
打谷砦と先の水の手砦は山道軍道で連結されており
両者の砦の長さは500mにも達します。尾根上には
累々と北国街道余呉川に向かい土塁が要所に設定
されている玄蕃尾城の前線基地と言える内容です。
500mもの陣営を土地の土豪柳ケ瀬氏では、とても
作る事は不可能でしよう。打谷砦は大名権力の布陣
による砦跡と考えられます。また砦の土塁は玄蕃尾
城の様な所謂「織豊系陣城」の様式の矩形土塁曲輪
による曲輪構成が見られず中世の陣城の様式と思わ
ます。中央に指揮官のも、のと思われる曲輪があり
その北背後にも長さ50m以上の曲輪の跡が存在して
巧妙な虎口の跡も確認する事が出来ます。なよりも
この遺跡が城郭遺構として明確な遺構指標と言える
堀切、竪堀、土塁が厳重に設けられている城郭です。
▼打谷砦 主郭部 鳥瞰図Ⓒ長谷川博美 著作権
質問者
うわ~すごい!余呉町って城郭遺跡の黄金郷「エルドラド」
城郭秘境なんですね!歴史観光資源に恵まれた歴史の町だ!
一般者
ああやっぱり堀切で敵の侵入を防ぐ工夫が佐目の城にも余呉
の城にも共通して工夫され存在。堀切を見学する事は現地歴史
見学のイロハのイにして最初の初心の基本の根本なのですね?
長谷川
御世辞はもう結構です!この打谷砦には岩崎山砦や大岩山砦
にはない城郭必須条件『堀切』が存在する事です。ともかく
南から侵入する敵を想定して軍事的防備堀切を設定してる事!
長谷川
打谷砦の武者隠し左窪地と左土塁痕跡▼現地写真。
打谷砦の土塁と堀切の様子!田畑氏堀の底、宮本さん土塁の中「城内」
質問者
長谷川先生!この砦に是非連れて行って下さい!
長谷川
非常に危険な場所なのでお連れする事は出来ません!
見学するには安全や支援者や理解者が不可欠です安易
に登山して怪我や獣に襲われる事を、避ける事です!
それに堀切もチヤント学問的に見学しないでただ山
行のごとく通過していたら私の希望する学習目的は
果せません。私は山ガイドや観光行楽ガイドと異な
る学徒や研究家である事よく御理解願いたいのです。
長谷川
残念ながら世の中はウソや詐欺が流行する時代になり
ました。真実現実を見る確認する人も世の中に少ない。
もう一度城郭遺跡と言うものをゼロから学ぶ真心ある
人を私は探しています。純粋に城址を見学する素朴人。
対談者
歴史に用いられた紙や印刷や文字や言説や風説とは真
薄ぺらな浮世のたわごと歴史の中に生きた当時の人々
の現実の生の足跡、現実の歴史の証人古城を見たい!
長谷川
さてさて歴史は丸暗記するものと思わずに推理し、
また、証明するもの、だとしたらどうでしょか?
大黒山▲
玄蕃尾城凸
打谷城砦凸
北
国 新谷山▲
街
道
柳ケ瀬集落■
小谷集落■
長谷川
天正11年秀吉は石田三成を通じて称名寺に
柳ケ瀬の柴田勝家の陣容を偵察させてます。
『称名寺文書』
さてさて宮本さん達が何故柳ケ瀬の打谷砦
を一発で発見できたのか?石田三成の斥候
は一体?新谷山や大黒山の何処に潜伏して
敵情視察をしていたのか?以下の新谷山の
謎の土塁の向う下には打谷、玄蕃尾城など
が眼下に見渡せる、のです。打谷VS新谷
の睨みあい。秀吉の柳ケ瀬滞在、を記した
文書の多さへの疑問?まだまだ歴史の真実
は余呉の山林の中に隠れている事でしよう。
長谷川
さて秀吉の家臣大谷吉継は九州出身説が以前は主流
でした。しかし、上の地図略図に記した小谷は元来
大谷と読み、天正11年賤ケ岳の前哨戦で当時長浜城
の領主城主柴田伊賀守勝豊を調略をもって秀吉方の
使者として降し活躍した大谷吉継です。吉継が余呉
大谷出身ならば北国の柴田勝豊と会話が通用します。
また後に秀吉が長年の大谷吉継の功労を称して越前
敦賀城の城主として優遇したのも彼大谷吉継が元来
九州ではなく土地勘ある江越国境の人間だからです。
大谷吉継が北国街道江越の人間だかこそ秀吉は今庄
なども敦賀に合せて大谷吉継に与えた事になるはず。
『近江與地誌略』には余呉町大谷説が記されている。