古戦場の土手「土塁」を見る!
◆小牧、長久手の戦いとは?
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくての
たたかい)は、天正12年(1584年)3月から
11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣
賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の
間で行われた戦い。つまり秀吉VS家康だ。
★小牧、長久手合戦屏風絵に描かれた土塁の世界
長谷川
この屏風絵に曲りくねる土塁と武人が描写されている。
この長久手の場合は土塁左側に湿地や沼地が描写され
いる事に着目したい。
長久手(ながくて): 愛知県長久手市・ 長久手の
「くて」とは、尾張から美濃にかけての方言で、湿地
や沼地を表す。「久手」「湫」で表記した。
要するにこの長久手合戦図屏風の湾曲した土塁は農業
遺構であろう。しかし歴史上、長い土手を介した合戦
とは「縄手の戦い」「土手の戦い」など数限りがない。
◆日本人の見立ての文化
日本の古来の合戦の常として河川を堀と見立てる文化
や壬申の乱の瀬田川攻防戦などが防衛に有利な瀬田川
を水堀に見立てた文化と言える。近江では佐和山山麓
を流れていた芹川を徳川時代に井伊氏の彦根城で河川
流路変更工事を施して現代の芹川を大外堀としている。
◆土手のある所で土手を防塁と見立てて合戦が発生する
当然の事ながら土手は人工的に作られ普請工事の跡だ。
◆さて天正12年1584年の前年に羽柴秀吉と柴田勝家が
長期対陣戦を展開した余呉庄の戦い「賤ケ岳の戦い」
には小牧長久手の様な長土手が実際に構築つれたか?
この様な土塁が余呉庄の戦いでも構築されたのか?
余呉町新谷山の土塁は異様な規模で私達を驚かせる!
天正11年1583年、石田三成が浅井郡称名寺
に依頼して柳ケ瀬方面の視察を継続しているが実
は柳ケ瀬の陣を眼下に視認するには余呉町新谷山
や大黒山方面が展望視認が有利である。
▼湾曲した土手は明らかに人口的な構築物である。
▼▲この土塁の全長は南北約36.6m「20間」の長さがある。
伏兵に適した地形でもある。
▼米原城歩会による近江八幡市岩崎山城の空堀底のS字湾曲土橋見学
余呉町今市の塹壕と土塁
▼余呉町文室山南の土塁 「Aポイント」
▼図面にすると単純な土塁で無い様々な布陣の要素がある。
▲文室山南図
遺構を含む地面の凹凸の布陣遺構が確認され意外に
にも遺構規模は大規模で全長約150m以上にも及ぶ、
勿論賤ケ岳合戦の記録類には羽柴秀吉が直接文室山
にも来て敵情視察を実施している。賤ケ岳合戦でも
賤ケ岳、権現坂、文室山、集福寺超へは実際の戦場。
余呉町文室山南の土塁 「Aポイント」
▼Aポイトに立つ田畑喜久弘氏「明らかに土塁である」
▼文室山南のBポイント伏兵地形 全く敵から兵員が見えない地形。
長谷川
上記写真の田畑様の背後には下記の様な木戸の跡が
突然現れるんです。古戦場って錯綜し混乱し兵乱の
世界そのものなのです。木戸には土塁や虎口の跡が
見えます。田畑氏は、なんとこの写真の左下で撮影
されており、この地形は一種の隠し陣営と言えます。
つまり当時の合戦や兵法は敵に陣を誇示したりまた
時に自軍の陣を山林に隠して合戦の好機を待機する
伏兵陣があります。こんな無名砦なのに堀切がある。
岩崎山砦や大岩山砦は有名なのに一切堀切が無い!
この合戦の駆け引きの深さ秀吉の巡らした罠に柴田
方の猛将佐久間玄蕃盛政は見事に「つられて」しま
う秀吉は中国地方の小早川氏に柴田勝家を江北つま
り「北近江でつり候」と申し述べてい。敵をおびき
だす狡猾な戦略を持っている。柴田勝家から見たに
大岩山、岩崎山は我々をおびき出す秀吉の囮城だと
充分に解ってる。桶狭間合戦で織田信長は鷲津。丸根
の2砦と言う罠の捨石2個を用意して今川義元を田楽
狭間に打ち取る。毛利元就は厳島の戦いで厳島に宮尾
城と言う囮の城をワザと故意に築城しそこに大軍の
陶晴賢を引き付けて一撃必殺の突撃を加えて電撃的
に打ち取る策戦を考える。古戦場には様々な合戦の
為の罠や仕掛け偽装やフエイクが潜在してると言える。
長谷川
誤解のないように一言言わせて頂きます。当写真の
全てが、賤ケ岳合戦当時の物とは断言いたしません。
しかし人類とは長い歴史の中で絶えず壁を作り境を
設定しました。村境。町境。郡境。国境。万里長城
などなど人類の歴史の中にはベルリンの壁など様々
な壁が作られた事を冷静に学び考える事が必要です。
対談者
古戦場見学と称してして、遺跡を見ず茶店で団子や
茶を飲む事が果たして現実を見る古戦場見学なの?
長谷川
観光と史跡見学は別の分野の世界です。人間とは
作られた観光施設、観光土産を楽しむ娯楽行楽派
と実際の遺跡を見学したいと思われる人に別れて
います。現実遺跡を見たい人と、歴史やロマンや
観光を楽しみたい人と様々趣味や価値観の違いが
存在致します。〇〇城に到着しましと歴史の現場
に到着したのに感激する人。土塁を見ても何も感
じず。〇〇城から1キロ離れた看板や石碑に感激
されるという人間社会の冷静な観察人間観察も時
に重要です。自分が自分の、価値観自体を客観的
に観察する事も。
対談者
400年以上も、昔の関ヶ原合戦においても人間の
世俗の心の中を比較観察考察する事が出来ますか?
長谷川
京極高次の大津籠城戦を京都の大衆は手弁当を作り
山越えで観戦しております。もしも400年前に戦国
の大津城の縄張りを比叡山方面から見物して平面図
に残そうとする研究目的で写生するの人は、当時の
社会に1人も存在しなかった事になります。人間の
多くが古戦場を根本的に物見遊山、行楽観光として
楽しんでいます。時に人間の心理とは恐ろしいもの。
それは現代においても古戦場を実際に踏査する人は
世の中に全く無いでしよう!みなさんが思っている
歴史と対談者様が考えておられる歴史観は異なる。
現代の相撲観戦においても相撲の取り口を全部観戦
したい人とテレビの相撲ダイジエストを見て自分は
相撲通であると勘違いされる方は多数おられる事と
思います。歴史においても歴史ダイジエスト、地方
行政歴史観、観光歴史観、考古学的見解、一体全体
?本当の正確な歴史とは何でしょうか?人間が言葉
や文字を使う動物である以上歴史とは常に誤記され
脚色され変形されます。人間社会の持つ文字や言葉
の果たす役割は時に社会や国を混乱に招く事もある。