ドキユメント!賤ケ岳合戦の実像を検証する。
孫子兵法に
「勝を見ること衆人の知る所に過ぎざるは、
善の善なる者に非ざるなり。」
勝利をよみとるのに、一般の人にもわかる
善の善なる者に非ざるなり。」
勝利をよみとるのに、一般の人にもわかる
程度では、最高に優れた者ではない。
戦争して、打ち勝って天下の人々が立派だと
戦争して、打ち勝って天下の人々が立派だと
ほめるのは、最高に優れた者ではない。
対談者
天正10年、本能寺の変後秀吉が中国大返しをし
明智光秀をたちまち山崎合戦で破った事は疑問
です。また翌年11年秀吉は、美濃大返しを実施
して賎ヶ岳に柴田勝家を破った事も不可解です。
物事や合戦があまりにも巧妙に創作されている
様な気がします。また柴田勝家は壮大な内中尾
山城遺跡名称「玄蕃尾城」を築いてます。この城
跡を見た人は一様に柴田は本当に敗れたのかい?
と現地の壮大な城址を見て腰を抜かす人も多い!
長谷川
どの様な過程プロセスを経て合戦に勝利したか?
当然の事ながら当時勝利した武将はその詳細な
過程プロセスは極秘にするべき、重要な軍事機密
事項です。戦に参加した諸将や兵卒もその合戦の
全体像は俯瞰認識出来てない。何故勝ったのか?
その原因や戦いの過程や裏事情は、謎に包まれた
極秘事項とも言えます。何故その場所や山に布陣
を総大将から指定指示されたか?将兵も何故?我々
は、この山に配置配属されたか充分に理解して居な
かったと思われます。
対談者
衆目からよく見える、誇示する城や、陣と
また全く見えない所の築く陣の役割とは?
長谷川
敵に城を示して敵を威圧する目的の城と
敵を自分の計画した合戦の場所へと誘い
込み、その合戦に勝利する為の伏兵要員
を隠しておく、隠し砦や隠し陣や伏兵陣は
存在する。戦場を見るには陰陽を知る事。
目立っ場所と隠れた急所が必ずあります。
対談者
賎ヶ岳合戦3月段階における秀吉の策戦とは
如何なる合戦シュミレーションなのですか?
長谷川
合戦の決戦場を長浜市余呉町片岡天神山城
に設定し柴田方が攻め取りやすい砦を作り
この砦へ柴田勝家軍をおびきだし余呉盆地
の東西の山から羽柴秀吉の軍団と丹羽長秀
の軍団の双方で包み包囲して勝利する戦略
です。非常に簡潔単純な表現で言いますと
柴田1
羽柴1丹羽1
つまり2対1で天神山城で勝利する兵力差で
秀吉が柴田勝家に勝利する簡単な戦略です。
対談者
賎ヶ岳合戦4月段階の意図した秀吉の策戦は
如何なる合戦のシュミレーションですか?
勿論陣立や守備位置の変や更シフトチエンジ
がされたと゛陣替えがされた」思うのですが?
▼眼下水田中の片岡天神山城
長谷川
羽柴秀吉は3月の単純すぎた決戦場所を
片岡天神山砦「これは勝家を引き付ける
囮(おとりの城)に替えて賎ヶ岳表の岩崎
大岩山の2砦のおとり砦を作らせてます。
対談者
何故この2砦を勝手に「おとり砦」とする
長谷川先生の見解には、納得できません!
▼池原山砦の堀切と土橋の跡
長谷川
砦や陣には必ず初期防衛策として堀
を掘削する事が基本中の基本なので
す。古戦場の要所に掘られた堀切は
合戦で最重要城郭軍事施設!秀吉は
岩崎大岩山の2砦に堀切を作らせない。
おそらく秀吉は、この2砦は我々の
陣営の先陣と後陣を結ぶ連絡繋ぎの城
の役割として堀などは掘らず自陣から
先陣へも後陣へも移動し易い利便で
遊撃隊の簡素な構造にすべしと通達
命令した事でしょう。そして貴公等
の生命を護ってくれるのはこの余呉
の海の巨大な、水堀こそが、天然の
海山の要害だとおそらく説いた事と。
対談者
なるほど古戦場見学で堀切を見ない軽視
する文字歴史派の人と堀切を確認する歴史
城郭派の人では随分歴史解釈が異なります。
逆に、玉砕落城した大岩山砦の500人の
将兵達は柴田勝家軍の先方指揮官佐久間
盛政に早朝砦を囲まれて将兵は我ら命運
も早やこれまで、我ら、藤吉郎の捨て石
の砦にされたと悟り口惜しかった事かと!
対談者
さて賎ヶ岳合戦4月段階における秀吉の策戦
として佐久間玄蕃盛政を見事に余呉湖畔へと
秀吉は見事に誘導に成功させましたこれは?
長谷川
秀吉の3月の合戦構想は
柴田1
羽柴1丹羽1
つまり2対1で天神山で勝利する兵力差で勝つ
秀吉が柴田勝家に勝利する、簡単な戦略です。
対談者
私達一部有志の人は3月段階で天神山砦を救援
する為の隠し砦を某所に発見している。しかし
陣の遺跡の見方を知らない人々とは大きく認識
がずれて来ます。本当の歴史と合戦記を歴史と
思う人と遺跡を冷静に見学する観点を持ち合わ
せた人との歴史解釈は大きく食い違ってきます。
長谷川
それは仕方のない社会のズレと言うものでしょう。
長谷川
しかし秀吉の4月の合戦構想とは
柴田軍1
を柴田と佐久間の0、5と0、5つまり半分に
北国軍分離です。先陣と後陣に二分させる事。
秀吉軍は賤ケ岳城のにおいてシンクロ連動し
秀吉1長秀1
つまり2対0、5で賤ケ岳に勝利する策戦です。
おまけに事前に秀吉は山崎で金森氏徳山氏に
そして前田利家に味方になる調略をしてます
ですから実質、賤ケ岳表では秀吉1長秀1=2
佐久間軍0.3になってしまう。
2対0.3ならば確実に秀吉方が勝利する方程式
です。勝つべく策戦を事前に秀吉は用意する。
作戦とは戦いのストリーを筋書を事前に作る。
対談者
しかし丹羽長秀軍を1と過大評価するのは如何
なものか?長秀は小船で海津塩津方面から少数
で賤ケ岳に駆け込み乗車した要領だけの武将?
▼飯之浦での賤ケ岳合戦の様相 左の秀吉の鉄砲衆 汀の騎馬戦が生々しい。
長谷川
丹羽長秀や羽柴秀吉が、そんな軽い戦略や兵法の
武将でしようか?彼ら両名は事前に賤ケ岳で合流
する為に秀吉は北国脇往還に早馬や兵糧を事前に
用意させ丹羽長秀は賤ケ岳危うしの場合は琵琶湖
の快速艇つまり早船を用意しておいた事でしょう。
丹羽五郎左衛門は米五郎左とも言われた準備の人。
長谷川
問題は丹羽軍団の賤ケ岳合戦の役割ですよ!
『太閤記』には丹羽長秀は当時塩津、海津に
7千人配り置き、敦賀表には3千人配置してた
この敦賀表とは『疋田長谷川氏』文書には丹羽
五郎左衛門配下の者が疋田サラノ山城に兵員
を配置していたとありますから、現実には玄蕃
尾城の柴田勝家は、自分の玄蕃尾城の全員を
余呉東野山砦攻略や佐久間玄蕃救援軍には出せ
ない玄蕃尾城を完全に空にしたら疋田サラノ山
城等三千の敦賀派遣兵に北国軍のライフライン
たる玄蕃尾城の空城を丹羽勢に易々と取られて
しまう。北国軍にとり後ろを取られる致命傷
になる柴田は玄蕃尾城に守備隊を置いて余呉庄へ
と出陣しなければならなかった。大切な局地戦や
決戦で、ここ一番の総力戦が展開できない状況!
▼玄蕃尾城推定復元イラスト▼長谷川博美作品
なるほど!豪勇、柴田権六勝家が賤ケ岳合戦では
精彩に欠ける戦況だった理由がやつと解りました。
長谷川
従って柴田勝家、前田利家、佐久盛政らが北国
街道を猛進し秀吉方を撃破する合戦構図は無理。
長谷川
もうひとつ、丹羽長秀の狡猾さや秀吉が小早川氏
に柴田勝家を江北において「釣る」と書簡で公言
している事です。秀吉や長秀はシステマチックな
賤ケ岳合戦の構想を持っていた事。柴田に勝てる
目算は秀吉が兵数において柴田方より完全に優勢
ですから如何に戦局を延引させずに如何に勝利する
かが方法が問題です。要は合戦のプロセスやプロ
グラミング「段取り」や秀吉と長秀の歩調を合わせ
たシンクロ策戦戦略にこそ合戦の深みや、妙味、が
潜在していると言えます。
対談者
まさか?丹羽長秀は越前疋田にまで手を伸ばして
いた。すると自分達の領地の塩津や海津にも兵員
を事前に配備していた事になる?あの賤ケ岳七本
鑓の膝元、長浜市木ノ本町飯之浦にも丹羽長秀の
兵員が合戦に備えてスタンバイされてた可能性も?
長谷川
軍勢の「かたまり」を備「そなえ」とも表現します。
戦場で合戦に適切な陣形を事前に「備えておく事」
長谷川
とにかく飯之浦の現場に行ってみましよう!
確かに堀切が下の図の位地にあります。図のAです。
これは進駐してきた柴田軍の臨時構築陣営と思われます。
確かに堀切の写真が図の位地にあります。図のA写真です。
長谷川
更に進んで地図のB地点を見学しましょう。
長谷川
B地点には陣跡らしき遺構がかすかに残っております。
長谷川
更に藤ケ崎方面に進むと内貴山の表示がされています。
対談者
大変です。内貴山から藤ケ崎にかけて山尾根には多数の
凹凸が残っております。その数が余りにも多くて自然の
地形とは明らかに異なります。Cの黒点の場所。
長谷川
ここで、賤ケ岳の実際の戦跡を大胆に推理します。
賤ケ岳合戦に備えて丹羽長秀は巧みに内貴山から
藤ケ崎にかけて丹羽軍を事前に潜伏伏兵させてい
たと仮定すると柴田方の賤ケ岳方面監視隊の柴田
三左衛門勝政は美濃から引き返した秀吉軍と丹羽
長秀が藤ケ崎方面に隠しておいた伏兵に挟撃され
て2対1の理論で賎ヶ岳表切通し方面において敗退
し権現坂の佐久間軍も、前田利家の戦場離脱により
勝政を救助できなくなった。つまり秀吉の進駐と
長秀合流、前田の裏崩れで、さしもの佐久間玄蕃
軍も前線の柴田勝政軍も崩壊してしまった。秀吉
、長秀どころか背後の前田の裏切りより三方から
作られた策戦トリプル打撃により柴田軍と佐久間
軍は合戦の死地に包囲され瓦解した事になる是を
武家により賤ケ岳の戦いとは言わず「賤ケ岳崩れ」
とも呼んでいる。賤ケ岳合戦後、丹羽長秀は越前を
秀吉から拝領、前田利家は加賀百万石の礎を築く事
になる。貴内山から望む賤ケ岳城跡は真近に視認が
可能である。これ秀吉方に非常に重要な事なのです。
長谷川
賤ケ岳の戦いのトリック何と恐ろしき秀吉長秀の戦略でしょうか?
おそらく柴田勝家は是を読んでいた。だから大岩山岩崎山を落した
ら迅速に帰陣する事前注意をしておいた。しかし佐久間盛政の性格
は敵陣中に滞在してなおも賤ケ岳城を陥落させようと欲を出した!
秀吉は佐久間盛政の性格パーソネルを充分にプロファイルし読んだ!
迅速に秀吉と長秀が賤ケ岳に詰この合戦は佐久間盛政のアウトです!
長谷川
式内社調査報告』によると、
『近江伊香郡誌』には、
「八幡神社、大字飯之浦、式内波彌神社是也、
古記に波多八代宿禰波美臣之祖也在飯浦村にあり、
文治年中源義経奥州に赴く時、其臣内貴土佐當地に来り
居を構え當社を奉祀すと云う。」とあり
この地、飯之浦にも土豪「内貴氏」が存在した事も
おぼろげながら伝承されている。
長谷川
今回の投稿のまとめ
丹羽長秀が何も大軍を舟で賤ケ岳に移送せずとも
事前に藤ケ崎、貴内山、飯之浦に伏兵を待機して
おけば賤ケ岳合戦は自然と勝利する仕掛けに事前
からなっていた。つまりはし御膳立てされていた。
図のCの無数の凹凸遺構は兵員が、潜伏していた。
また柴田陣営から見て飯之浦や藤ケ崎の伏兵や
兵員が煮炊き炊事するや篝火の様子は柴田方の
陣営から全く死角になって見えない利点がある
その様な意味で秀吉方としては自軍の伏兵や隠
し陣を偵察される事を極端に危惧し東野山砦と
堂木山砦の間に掘削した総構を作り勝家の南進
を阻止するとともに自軍の伏兵が潜伏する様子
は柴田方には察知されたくなく秀吉は草刈人夫
例え1人たりとも通してはならぬと情報統制を
実施しているのだ。古来より山陰に伏兵を隠す
事は兵法の常道として、よく行われている事だ。
▼柴田陣英から一切飯之浦や藤ケ崎は全く四角。
「勝を見ること衆人の知る所に過ぎざるは、
善の善なる者に非ざるなり。」
勝利をよみとるのに、一般の人にもわかる
善の善なる者に非ざるなり。」
勝利をよみとるのに、一般の人にもわかる
程度では、最高に優れた者ではない。
戦争して、打ち勝って天下の人々が立派だと
戦争して、打ち勝って天下の人々が立派だと
ほめるのは、最高に優れた者ではない。
★野球評論家が高く評価する、名守備の人?
野球においてもファインプレーを連続して見せる
守備選手は役者やエンテターテイナー的人材とし
て社会の世間の花形として大衆に見栄えする者だ
しかし事前に打者の打球を総合的に予測して打球
の落下地点で完全確実に捕球する選手はスター的
プレヤーつまり花形とは高く評価されずとも野球
指導者や監督として大成するものである。野村氏
が捕手兼監督のプレーイング、マネージャーの時
外野手の守備位置を細かく指示していた記憶が残
る。目立たない地味な実践野球それは孫子兵法に
も通じる地道で着実な駆け引きとも言えるだろう。