城郭 長谷川博美 基本記録

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多賀みておき隊 田畑喜久弘隊長の御挨拶

2020-06-21 09:42:19 | 城址見学会予定 
多賀みておき隊 田畑喜久弘隊長の御挨拶

 全国の古城遺跡フアンの皆様滋賀県内の
皆様彦根犬上郡の皆様、お元気でお暮しの
事でしょうか?今度脇ケ畑城郭探検隊改め
多賀みておき隊を結成して、移り行く多賀
の古跡を「見ておきたい」歴史の証人とは
日頃平凡な生活を送る素朴な我々一般市民
でもあります。皆様ぜひお気軽に移り行く
歴史の横顔をウオーキングと言う形で気楽
に見学致しましよう。
▼ 左側 田畑隊長

▼砦の土塁ので休憩する田畑隊長。


長谷川博美
 どこの地域を訪問しても城郭遺跡が消滅する事は時代の
趨勢、推移ともに、造成や林道工事により、歴史の現場が
喪失/消失してしまう事は人類史の定めと言えます。今回は
全国的みても類稀な二重堀や長畝を伴う寺院城郭敏満寺の
遺構をウオーキングの途次に外から見学致しす。寺院城郭
には結界や寺某全域を囲む、寺院を防衛を目的として外郭
が形成される場合があり、お断りしておきますが写真遺構
は工事現場の遠景写真であり常識的に立ち入り禁止です。
私は一般道路よりこの遺跡を写真撮影してます。是非とも
皆様は立ち入り禁止区に立ち入らない事を御願い致します。
無断無許可で瀬工事敷地内に入る様な事が無いように常識
ある行動を御願い致します。今回はあくまでも一般道路から
の見学になります。皆様は仲良く郷土の歴史の現実を心に
刻んでおきましょう。遺跡は、いつも遠くから眺めるもの
歴史の現実とは、冷静に客観的に穏かに観察する事です。


催事名称
多賀みておき隊/歴史民俗城郭遺跡ウオーキング
主催団体
多賀みておき隊
参加費
無料
主催者
田畑喜久弘 /元滋賀民俗学会会員/元脇ヶ畑城郭探検隊長
/元関西城郭研究会会員/元多賀町議/現余呉城郭研究会理事
連絡先携帯☎  090-6205-0237

講師
長谷川博美/元滋賀県中世城郭分布調査現地調査員/元滋賀民俗学会理事/歴史城郭研究家
開催日
2020年6月27日土曜 2020年6月28日日曜の2回 雨天決行 各自雨具用意
集合場所
近江鉄道多賀駅前  滋賀県犬上郡多賀町 (無料駐車場あり)
集合時間
午前10時~適宜終日、約5㌔mの歴史民俗学的散歩を実施
各自準備
ウオーキングに適した靴や服装/マスク/水筒/帽子/水筒/弁当など
保険
不備
内容
敏満寺城跡/敏満寺結界土塁/敏満寺基壇跡/多賀大社/日向社/多賀大社門前町/各適宜見学散策/適宜変更追加もあり、

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夏越祓(なごしのはらい)の民俗学的意味

2020-06-21 05:33:41 | 民俗学
夏越祓(なごしのはらい)の民俗学的意味

茅の輪を通過する事により疾病悪疫の
退散を祈願する日本の民俗習慣がある
疾病悪疫を茅カヤの鋭い刃先で退治を
せんとした民俗習慣であろう。梅雨の
季節は食中毒や、夏には夏バテを人間
は起してしまう。免疫力の減退を避け
て過酷な夏を乗り切ろうとした京洛の
人々の心情や全国的な茅の輪くぐりの
民俗習慣は再認識したい。これ令和の
コロナウイルスの伝染にも通底する事
であろう。さて夏はかゆい蚊が繁殖す
るが害虫「蚊」を防ぐ「網」を蚊帳と
書き「カヤ」と発音する事も興味深い。

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歴史大観 江越の発想 義景 信長 大谷吉継 伊藤博文 柴田勝家 彦根藩 柳ケ瀬 天下の釼

2020-06-21 04:12:37 | 社会観察
歴史大観 江越の発想 信長 伊藤博文 柴田勝家 彦根藩 柳ケ瀬天下の釼

◆織田信長
 信長は『信長公記』によると天正3年越前一向一揆鎮圧
の帰路に長浜市余呉町椿坂に宿泊している「椿」つばえ
と太田牛一は表記している。椿坂集落は元来中世に関所
が設けられた江越の要衝にあり隣村に柳ケ瀬が存在する。

◆伊藤博文
 長州藩/吉田松陰の門下生で明治の日本国の宰相へと
なり明治には関ヶ原から長浜へと鉄道を結節させて日本
海の要港敦賀へと繫ぐ柳ケ瀬トンネルを建設さて伊藤は
この柳ケ瀬トンネルを『万世永頼之遂道』と、つまりは
永遠不滅の日本国の北陸と近畿を結ぶ国家的施設と呼称
している事にある。英国留学の履歴を持っ伊藤が英国の
トンネル技師2名を招いてロシアとの玄関口を越前敦賀
に求めてた事が解る。

◆柳ケ瀬トンネル/世界文化遺産候補へ
 是だけ明治の一大交通史を飾り天下の釼柳ケ瀬を克服
する柳ケ瀬トンネルの意義は非常に大きく重いと言える。

◆北陸自動車道柳ケ瀬トンネルの意義
現代交通網の主幹とも言える北陸道を日本国が建設した
事の意義が大きい。また明治の宰相伊藤博文のトンネル
と現代の北陸道が隣り合わせで現存している交通の要衝
性/普遍性にも留意すべきである。

◆柴田勝家の新北国街道開削と巨大玄蕃尾城の意義
天正11年近畿中国の羽柴秀吉と織田信長軍団の宿老
北陸方面師団長とも言える柴田勝家が、この柳ケ瀬
トンネルの上に、巨大玄蕃尾城を築城した意味は大
きい。かの城の巨大な大門と大きな本丸を見る人は
一応に玄蕃尾城の巨大さに卒倒し圧倒され驚愕する。

彦根藩の柳ケ瀬の関設置
徳川300年の基は交通網の整備とである。徳川の雄藩「彦根藩」
は椿坂に存在した関所を柳ケ瀬に移動させて天下の釼柳ケ瀬を
監視する事に努めた。余呉城郭研究会の柳ケ瀬の関建物の見学。

石田三成と長浜称名寺
 天正11年羽柴秀吉の家臣石田三成が柴田勝家の柳ケ瀬山
の本陣「玄蕃尾」「内中尾山城」の偵察報告を彼の主君で
ある羽柴秀吉に報告している。石田佐吉三成は秀吉死後に
日本国最大の一大大合戦「関ヶ原合戦」を引き起こす人物。

大谷吉継の謎
柳ケ瀬集落の南に長浜市余呉町の小谷は元来「大谷」と表記
していた。秀吉の家臣となり、越前敦賀城を拝領した人傑で
秀吉は大谷吉継を大切にしていた。大谷吉継は関ヶ原の戦い
で最初は徳川に従軍する予定であったが朋友石田治部少輔に
説得されて関ヶ原で戦死して、その生涯を終える。

◆朝倉義景と刀根坂の戦い
天正元年越前の大守朝倉義景は近江小谷城救援を中止して
本国越前敦賀郡へと越前へと退却する。撤退策戦に付け入
り策戦を信長は決行してこの福井滋賀県境で朝倉の本隊
を構成する主要な武家を壊滅させてるあの織田信長とは
柳ケ瀬に敦賀に確実に足跡を残しているのだ。

◆滋賀極北を再評価する気運
我々は福井―滋賀/福滋をつい過疎地寒村として評価する
傾向を持っているが全国区の人々から見れば特に戦国史
から見ればこの北国街道玄蕃尾城や柳ケ瀬は戦国街道と
も言える超一級の歴史街道であり、重要な歴史観光資源
である事を忘れてはならないだろう。そう言う意味では
ロハス長浜の前川常務や同社、岡村館長は、大きな将来
の長浜市の広域発展をも見据えたパイロット計画推進策
歴史観光文化の発展を日本全国に発信すべく日夜研鑚し
ている人々と言えるかもしれない。貴方の町の誰か様も
実は江越つまり滋賀福井に所縁のある人傑がいる事かと。

猛然と巨大玄蕃尾城の堀底を驀進する有志余呉城郭研究会一同!

コメント (2)
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