伊達輝宗、伊達正宗、父子、その展望視座の広さ
伊達輝宗、
奥羽の戦国大名伊達輝宗は辺境の地にありながら
京都の足利義輝との交誼により輝の字を拝領して
いる。また輝宗は信長公記によると奥羽の名馬を
安土の織田信長に交誼を画策して奥羽にあっても
彼の視座は日本国を意識した範疇を視座を持って
いた事が解るまた息子に梵天丸「インドの神」に
因む名前を付けている。弟には天竺の竺を取って
竺丸と名乗らさせている。伊達輝宗の発想、とは
我々が戦国大名に抱く視座はイメージと大きく離
れと広範なものでスケールの大きな器の大きさを
感じさせる。
天文24年(1555年)3月19日、父の伊達晴宗が
叙爵の日、伊達総次郎は室町幕府13代将軍・
足利義輝の偏諱を賜り伊達輝宗と名付けられ、
11歳で元服する。
天正3年(1575年)7月には中央の実力者である
織田信長に鷹を贈ったのを始めとして、遠藤基信
に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物を
やりとりして友好関係を構築した。
伊達正宗
輝宗の後継者正宗は更に父をスケールアップさせ
て徳川幕府の名誉副将軍に家康から任じられたり
している。現代においてもスタイリストを伊達と
も言う伊達正宗の軍装や家臣団の軍装も華美異形
であったとされている。なによりも伊達正宗の世
界的視座とは慶長遣欧使節団を結成させヨーロッ
パへ渡航させ途方もない西洋への憧憬があった事
が際立っている。
支倉常長
はせくら つねなが
支倉 常長(はせくら つねなが、1571年〈元亀2年〉
‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、安土桃山
時代から江戸時代初期にかけての日本の武将。幼名
は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィ
リッポ・フランシスコ。 慶長遣欧使節団を率いてヨ
ーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のロ
ーマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒とな
った。 元亀2年(1571年)、桓武天皇を祖先とする
山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在
の山形県米沢市立石、米沢市立関小学校の周辺)に
生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳
から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県柴田郡川崎町
支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。
その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗
の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。