源氏ケ峯城ビイスタ 対談
◆長谷川
倶利伽羅峠に行かれました?
寿永2年5月1日/1183年に木曽
義仲が火牛の計を持つい平家
軍を打ち破った古戦場として
有名な場所です。清義仲自身
が火牛の計を知っていた事も
注目したいです。これは紀元
前三世紀斎の武将単田が用い
火牛の計の応用だと言えます。
◆旅行者様
倶利伽羅峠の近くの源氏ケ峯
の砦という城郭遺跡も探訪を
致しました。楽しめました。
◆質問者
戦国期の源氏ケ峯の砦でにも
長谷川先生が提唱されている
城郭ビイスタ存在しましたか?
◆反論者
城郭ビイスタ論は絶対認めん!
この動画絶対に見るべからず。
◆分析者
何故長谷川説に反論される?
◆旅行者様
それ仕方のない事なのです。
今日本国の城行の概念とは
99%が旅行探訪ハイキング
が主流の時代であり城址の
形状を見る文化土壌が日本
国には存在しない訳ですよ
従って長谷川先生が希望を
される城郭遺跡を見学する
人々は全く集合されません
従って長谷川先生は時代の
流れ今の時代の空気を完全
に読み間違えておられる人
時代錯誤の売れない研究家
と言えます。もう基本的に
社会学が出来てない現代や
時代に非対応型の先生です。
◆旅行者様
従い長谷川先生が城郭見学
会に行っても先生の解説に
は全く傾聴されず意味ない!
先生の見学会を城郭探訪会
と誤認される人は後を絶た
ない長谷川先生自身が時代
対応出来ていない欠点です
だから長谷川先生がどうか
城郭遺跡見学者の方のみの
御来場是非お願いしますと
土下座されても今の社会が
許さない!認めませんよ!
◆長谷川
天正11年賤ケ岳合戦において
越中の佐々成政は柴田勝家側
に呼応して越中国を上杉方か
ら侵犯されない策を採用する。
柴田勝家の陣城玄番尾城にも
城郭ビイスタが存在致します。
◆長谷川
天正11年1583年賤ケ岳合戦時の
豊臣兄弟つまり羽柴兄弟の陣城
として田上山陣城のビイスタを
見逃しているようでは研究家と
しての力量や面目が立ちません。
◆長谷川
また天正11年賤ケ岳合戦時の
木之本の羽柴秀吉本陣地蔵院
が城郭ビイスタ地形だと看破
出来ないようでも真の研究家
にとっての面目が有りません。
◆反論者
でも城郭ビイスタ論などこの
この世に存在しない、長谷川
氏の発想自体が不可解論です
◆有識者
否定論から出発してばかりで
は真の日本国の城郭研究道を
見誤る。本物の研究家なら先
ず佐々成政側の源氏ケ峯砦に
城郭ビイスタが存在するのか
前向きに検証する事 自体
が日本の城郭研究、日東第一
の城郭理論を活かせる大道で
あるという大きな志を持つ事
無難な小賢より日本国の大勢
を牽引していく大悟を得る事
こそが東洋の城や日東の城郭
研究の地平線開拓の黎明と言
え日本男児として生まれたる
者なら学問の暁鐘打ち鳴らせ!
◆長谷川
大仰に構えた物言いは困ります
私は赤貧。明日の米をえる事に
も窮する狭量なる小器の人物。
◆質問者
源氏ケ峯砦にビイスタはあるか?
米原市八講師城各曲輪ビイスタ
が存在する事自体が現代社会で
は無反応と言う事といえますが
◆長谷川
源氏ケ峯の城は佐々成政方の
陣城ですから城郭ビイスタは
当然読み取る事が出来ます。
A群とB群のビイスタなども
読取れます特にA群の城両端
には堀切を設ける景観が読み
とれます。
◆反論者
だからソレ自然地形でしょう。
◆対談者
自然地形は等高線表示です
人口掘削地形は設計縄張を
された人工地形と言う事!
自然地形だと言い逃れする
逃げ口上は定型化されてる。
◆長谷川
別角度から見れば
あ ビイスタ起点
い ビイスタ起点
も読み取れますが
現在日本国の城郭
研究にはその視点
やvisionが不在です。
◆長谷川
ABCの複合ビイスタ
123の複合ビイスタ
これらを総合検討すると
源氏ケ峯砦は
◆旅行者
長谷川先生の城郭ビイスタ論
は昭和平成に登場しなかった
卓越理論なれど令和の現代の
100%の人々は城の形を絶対
に見てないのです。絶対に
見て無い人々に解説は無理!
◆対談者
でも讃岐高松城本丸とは
ビイスタ工法
◆長谷川
埼玉比企菅谷館もビイスタ
◆対談者
江戸城本丸もビイスタです。
この城郭ビイスタ論見逃し
ていたら日本史として恥辱
◆対談者
源氏ケ峯砦のビイスタが
理解できれば当然ながら
能登七尾城ビイスタ解る
◆長谷川
金沢城二之丸御殿ビイスタも
◆長谷川
金沢城本丸ビイスタも解る
◆長谷川
安土城伝前田利家邸ビイスタ
も解れば新しき学問と言う事