城郭 長谷川博美 基本記録

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埼玉比企郡高見城の幾何学縄張考察

2024-11-01 14:20:40 | 関東の城 ビイスタ工法

埼玉比企郡高見城の幾何学縄張考察

◆長谷川

城郭を研究する者にとり

比企郡の中世城郭は格別

高度な測量技術が用いら

れ憧れの土地と言えます。

さて今回は高見城四津山

城とも言われる山城形式

城郭城郭ビイスタを考察

致します。宜しく御理解

をお願い御理解を申し上

げます。

 

◆質問者

長谷川先生は山城にビイスタ

工法測量が使われていると思

っておられましたか?

 

◆長谷川

私は縄張図を作成する過程で

放射状に城が測量されている

事は成人になる以前から気付

いていましたが、指導や教授

して頂ける先生には恵まれず

社会から孤立した研究家へと

落ちてしてしまいました現在

も全く無名の人気ゼロ学者と

言う事で世捨て人の様な人間

 

◆質問者

埼玉比企郡高見城にビイスタ

はあるのでしょうか北条氏の

縄張りとは異なる比企郡様式

の城だとかんじるのですが?

 

◆長谷川

美しい山容の城址をより威厳

を持って作られた可能性ある

と思います。シンプル無駄の

ない簡潔な縄張の城の様です

しかし二の郭の食違虎口など

は秀逸な技巧縄張と言えます。

◆長谷川

この様にどこから見ても山城

が立派に見えるように工夫を

されていると思われます。

◆質問者

現代人はpersonal computerや

スマホを駆使してはいますが

中世城郭を設計縄張していた

当時の人々ほど城郭を真剣に

は観察していない登山ハイク

の様な感覚の人が多いですね?

◆長谷川

中世の人々の測量技術は現代

人が考えている以上に高度な

ものであり城郭縄張術は失わ

れた文化だと考えております。

以下ウイッキペデイアより引用

高見城(たかみじょう)は、埼玉県比企郡小川町

高見(武蔵国比企郡)にあった中世日本の城

山城)。四津山城ともいわれる。

概要

[編集]

東武東上本線小川町駅の約3.5km北方、比企丘陵最北部

の丘陵部・四津山(標高197m、比高100m)に築かれた

山城である。山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・

東西54mに広がる。北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。

本丸は山稜最高部であり、現在は四津山神社が建っている。

北側が搦手口、南側が大手口とみられる。

築城時期は不明。ただし『青木家家譜』に、治承4年

1180年青山城主・青山氏久配下の石井九郎右衛門

政綱が居住したとある(『小川町史』)。これが城の

はじめとみられる。戦国時代に入ると、長享元年(

1487年)没の増田四郎重富がここに居住したと

新編武蔵風土記稿』にあり[1]、増田氏が城主で

あったらしい。その後、山内上杉氏方の属城・鉢形城

支城となっていたとみられ、長享2年(1488年)の

扇谷上杉氏・山内上杉氏が戦った高見ヶ原合戦(第一次)

で、この城は東側の今市台地に陣取った山内上杉方の

背後を守る役割を果たしたと考えられる(『日本城郭大系』)。

また明応3年(1494年)の第二次高見ヶ原合戦でも、

この城は使用されたとみられる。ただし高見城での戦いの記録は無い

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