城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考番外編 越前近江国境 固関 関塞の現実

2019-07-16 07:26:13 | 剣熊考
剣熊考番外編 越前近江国境 固関 関塞の現実
対話者
 私も長谷川先生の遺跡解説や歴史知識は深いと思います。私はある峠に行きましたが。
ある先生はここが〇〇峠ですと解説され文字に書かれた事を皆さんに説明されるだけで
私は満足しませんでした。ころろがもう何十年も前の事ですが、先生と某峠に行ったら
別の峠道が約100m向うにあると現地を解説され私は長谷川先生に驚嘆した事があります。
長谷川
 おそらく越前と近江の境にある。深坂峠の深坂古道のもう一つ別の古道を言われている
とのかと、思いますが?敦賀市と長浜市の境目にある峠の遺跡の事ですね?
対話者
 私は遠足に峠には行きたくないんですよ。城址に行っても砦に行っても現実の遺構を解説
して頂ける先生を探しています。お話なら言葉でいくらでも人は出来ます私は現実を見たい。
長谷川
 歴史紀行と遺構見学は分野の異なる世界なので紀行愛好家様の心を尊重して頂きたいです。
対談者
 道が塞がれている。固関されている現実を文字ずらだけではなく現実現場を見たいのです。
長谷川
 多分、それは滋賀県中世城郭分布調査西浅井で私が計測した深坂峠の関塞図かと思います。
 
長谷川
 拡大すると、この様な平面形状です。越前と近江の峠にバリケード状の検問所を設置してます。
 現代で言う非常線のような仕切りです。なお現代の福井県疋田には国道8号線と161号線の合流
 点に疋田検問所の文字がみ取れます。福井滋賀の交通の時代を超えた要衝の普遍性を感じます。

長谷川
 越前朝倉の重鎮、朝倉金吾教景が亡くなると天文元年には越前引壇城を塩津、今西、南浜、の軍勢を
集めて熊谷平次郎が三千騎で疋田の城を攻めた事は越前福井の敦賀側ではよく知られています。また
疋田は親小谷派とみえて小谷と同じ地名の小丸や日吉神社「山王社」や桜の馬場の地名が残っています。
城址愛好家
 そんな馬鹿な事はない。江北の浅井に、ことわりもなく熊谷が越前に攻め入る事など考えられない!
対話者
塩津谷に対して認識不足です。塩津谷には9箇所もの熊谷氏関係の中世城郭形式の城址がある。
1534年(天文3 年)8月20日の『浅井備前守宿所饗応記』を読むと、熊谷氏の方が浅井よりも
上席に着座しており、その当時は浅井より熊谷の方が江北では席次が高い、つまり熊谷の行動は
浅井には規制されていないと思います。京極氏に次ぐ席次に熊谷氏が格上として着席しています。
長谷川
 まあまあ双方仲良くして下さい。
 陸路を拠点とする疋田と小谷の北国道の馬借連合。いわいる陸送の「山道グループ」と
 琵琶湖岸の湖の道を拠点とする。「湖岸グルーブ」の戦いは永正の頃も続いています。
 小谷には市場や城下つまり町屋が形成されましが陸路専門の短所を補うために船着きも
 設けられていました。再び琵琶湖の湖岸湖上ルートに着眼して今浜を長浜城と改めて
 城と城下町づくりに着手したのが織田方の羽柴秀吉、つまり後の豊臣秀吉でしょうか?

対話者
 「それ」なんです!私が長谷川先生に求めている深さの意味は「それ」なんですよ。
  言葉による表面上の解説や観光ガイドとは別の世界の深さは「それ」なんですよ!
城址愛好家
  峠なんて城郭と関係ないでしょ?
対話者
  関塞は城郭研究の一分野ですよ!
長谷川
  まあまあ双方様仲良くして下さい。
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