城郭 長谷川博美 基本記録

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驚異平安末期の城郭2城館を考察する!

2023-08-25 11:10:34 | 東北の城 ビイスタ工法

驚異平安末期の城郭館2城を考察する!

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◆一般者

東海、近畿、北陸の交流地点と

言える、JR米原駅西口から徒歩

で5分の元米原公民館の名称が

「米原学びあいステーシヨン」

へと変更されました。ところが

全く無名の城郭研究家長谷川氏

が講師とし起用されてから俄然

話題沸騰との事です、熱心な一

般市参画型ミラクル歴史城郭講座

が熱いと最近特に話題になってる。

 

◆参加者

もう歴史や城郭の事に全く興味

のなかった人が突然紙に鉛筆で

城郭ビイスタと呼ばれる腺を引

きだし安土城ビイスタの解明を

された時の衝撃や歴史ショック

こんなのアリか?今までは先生が

主体で市民はそれに従うような

形だった。それが市民が長谷川

先生の知識を引き出す様な活動!

◆参加者

講座の内容がよほど重要な意味

が含まれているのか?講義内容

を動画撮影されている人も居る

◆質問者

   平安時代後期の城館遺跡

陣が峯城じんがみねじょうに

城郭ビイスタが存在する事を

長谷川先生はブログで解説を

されていて衝撃を受けました。

これ日本の城の新しい学問!

◆学識経験者

こんな進歩的な研究分析を日本国

でされている長谷川先生の存在や

これを糸取りの要領で解読される

庶民感覚の参加者様の草根大学的

とも言える民衆学府とさえ言える

オリジナル学問には驚愕致します。

 

◆達観者

米原の町を歩いていて道路路面標示

を見て下書き腺が残っている事にも

注意し気付く事。城郭にも下書き腺

がある。これは人間が作り出す図形

の本質や道理でしょう!その本質論

人間の普遍性が城郭ビイスタ論動画。

◆質問者

青森県浪岡町に存在する平安後期

とされる。高屋敷館遺跡は幾何学

や幾何学論つまりビイスタや見栄

は基礎縄張が存在しますか?

 

◆長谷川

この高屋敷館遺跡は深い問題提起

を含んでいます。館の中から館外

に出にくい堀外土塁が存在する事

捉われた人々つまり俘囚(ふしゅう)

とは、陸奥出羽蝦夷のうち、蝦夷

征伐などの後、朝廷の支配に属する

ようになった者で囚とは囲いの中に

住む人々の意味です。

 

◆参加者

長谷川先生の連鎖講義が楽しい!

脳トレの要素が含まれています!

門とは閉じる。トジル

門とは開く物。ヒラク

門に閂がある。カンヌキ

関所に門あり。セキショ

関で問われる。トイタダシ

罪人は囚人に。トラワレ人

砦には囮がある。オトリ砦

人の廻りを囲う。カコウ

國には武器と兵。クニ

國の口は人口の意味がある。

人口の多い集落を邑と言う。

邑を囲んだものが城邑です。

 

◆質問者

ビイスタは読み取れるのですか?

 

◆長谷川

先ず中央から中央ビイスタ線が

読み取れます。放射測量です。

 

◆長谷川

正門から見ても高屋敷館遺跡は

見栄え良く見える工夫が存在。

 

◆ウイツキペデイアより引用

高屋敷館遺跡(たかやしきだていせき)は、青森県青森市浪岡

にある平安時代後期の集落跡である。2001年(平成13年)1月29日

、国の史跡に指定された。

概要[編集]

濠と土塁を巡らした平安時代後期のいわゆる環濠集落である。

この遺跡は、発掘調査前は中世の城館跡と考えられていたが、

青森県埋蔵文化財調査センターが1994年(平成6年)から翌年

にかけ、建設省の国道バイパス建設に伴う発掘調査を行った結果、

古代のものと判明し、その性格をめぐって大きな議論をよんだ。

遺跡はバイパスの路線を変更することによって全体の保存が図られた[1]。  

遺跡は東に平野を臨む台地の縁辺に立地し,南北約100メートル、

東西約80メートルの規模をもつ。西側には、幅約6メートル

、深さ約3メートルの濠とその外側に幅約2メートル、現存高約

1メートルの土塁を巡らし、集落を外部から遮断している。濠の西側

には出入口と考えられる土塁が途切れた部分があり、この他南西部

にも木の橋が濠に架けられていた[1]。濠の内部には大小の竪穴建物

重複しながら密集し、その数は86棟が確認されており、それ以外に

もかなり多数の存在が推定されることから、多くの人々が長期に

わたり生活していたことが知られる。このうち2棟の竪穴建物からは,

鉄滓が出土しており鍛冶工房と考えられる[1]。出土している遺物は

土器の他、種々の鉄製品・木製品が豊富にある。遺跡の時期は,

出土土器等により10世紀後半頃から12世紀前半頃と考えられる。

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