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近江八幡と織田信長の旅

2019-10-23 12:39:33 | 戦国武将
近江八幡と織田信長の旅

私達近江に生きる者にとり湖周道路とは便利
であり、車で行く車窓の景色は格別の情緒を
感じさせてくれるものがある。他府県から本
県に御来場された方も湖畔の情景は忘れられ
ないものがあろうと推測する。

さて我々滋賀県民は八幡山や長命寺や水之茎岡
や丸山は元来は琵琶湖に浮かぶ島であった事を
認識されて、いない場合もあろう。『近江国
明細図は寛保2年9月に製作されたものだ。
つまり1742年(寛保2年)の資料
である。現在2019年だから単純計算して
277年前の長命寺や近江八幡そして南津田の
嶋郷の景観や地理とは如何様なものだったの
であろうか?



この地図を見て現代人が驚く事は八幡山
が独立した島として描かれている事であろう。
またあの有名な安土山も琵琶湖に飛び出した
半島として描かれている事だろう。また水茎
の岡山も完全に島として表現され丸山も島と
して表現されている事、滋賀県民は伊崎の
飛込みを何度もテレビで見ているが多いが
ここが昔は島だった事は知らない人も多い。
沖の島は度々琵琶湖の中の島としてテレビ
で紹介される事が多いので滋賀県民によく
知られている。

さてこの地図は1742年(寛保2年)と時代
が限定される。1583年の頃この島々へと
鷹狩りの旅に出た戦国武将の記録が確実
に残されているので是を紹介したと思う。

太田牛一『信長公記』天正8年(1580)
の記録


三月十五日、奥の島山に
御鷹遣はさるべきにて、
御舟にめされ、
長命寺善林坊に至りて、御座なさる。

三月十九日まで、五日御逗留なされ、
しろの御鷹、御自愛、羽ふり、事に勝れ、
希有の由、承り及び、方々より御鷹野の
見物、群集仕り侯なり。乱取と申す御鷹、
すぐれたる羽飛にて、物かず仰せ付けられ、
十九日に安土に至りて御帰城なり

三月廿五日、奥の島へ御泊りの為め、
山に御成り、三月廿八日まで御鷹
つかはされ、爰にて造作仕り侯由、
御諚侯て、永田刑部少輔に葦毛の御馬を
下され、池田孫次郎に青毛の御馬拝領なり。

三月廿八日、安土へ至りて、御帰城。

長谷川
1580年織田信長は
3月15日から19日まで奥の島山つまり
現代で言う、長命寺山で鷹狩りをして
長命寺の善林坊に宿泊している。19日
には安土に帰っている。勿論言うまで
もなく彼の交通手段とは「舟」である。
それは「御舟にめされ」と言う言葉で
解る。つまりは船旅である。また3月
25日から28日にも鷹狩りをしている。

『信長公記』天正8年(1580年)と
『近江国明細図は寛保2年(1742年)
の資料を比較研究しながら織田信長の
旅を回想する事も非常に有意義な事で
あろう。信長一行が船に乗り湖水を行
く姿が忍ばれるというものだ。因みに
織田信長の先祖は地図にある南津田に
住み越前に移住し、更に尾張へと移住
した、伝説になっているのであるが?

追記
『信長公記』天正八年(1580年)
辰四月十一日、長光寺山に御鷹つかは
さるべきにて、出御のところに、百々
の橋にて、神保越中の使者、御馬二つ
進上なり。
※長光寺山は現在の近江八幡市

『信長公記』天正八年(1580年)
辰四月廿四日、伊庭山御鷹野へ御出で
あり。丹羽右近者ども、普請仕り侯とて、
山より大石を、信長公御通り侯御先へ落
とし懸け侯。此の中、条々相届ざる、道
理の旨、仰せ聞かされ、其の内、年寄
侯者を召し寄せられ、一人御手打にさせら
れ侯。
※伊庭山は現在の東近江市能登川町
▼伊庭山には謎の山城遺構あり「長谷川」

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