明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場す
る本格劇画『元亀の騒乱』 2
小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服致します。小野先生の益々の御発
展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非
紹介したいと思います。
作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷
川博美が担当しています。また当ブログでの
解説も私が担当させて頂いております。なお
順番を追って紹介しますが皆様は順次ページ
を追って御鑑賞下さい。
③
下記の「長比」野瀬山砦とも言う。『嶋記録』
にも登場する。とは美濃近江国境の「たけくら
べ」長比城の事で信長と浅井が対立していた元
亀年間に長比城は近江国坂田郡の鎌刃城の堀氏、
樋口氏、が、この城塞を守っていたが信長方に
誘降されている。
「鎌刃」
鎌刃城とは堀、樋口氏の城であるから
当然当時の南坂田郡は織田領へと編入されたと
思われる。『嶋記録』には国人領主今井氏の臣
下、田辺式部丞が信長に500石で召し抱えられ
る一節あり。
「横山」
横山城とは浅井方の重要な出城で坂田郡の東西
を眼下に見下ろす戦略上重要な城で姉川合戦の
後に木下藤吉郎が城番とされた大規模な中世城
郭遺跡。
「佐和山」
佐和山城は浅井方の磯野丹波守が姉川合戦後
に8ケ月もの籠城戦を行った水陸の要衝を扼す城。
『嶋記録』には天の川流域の今井氏方の武将が
佐和山城に籠城した様子が詳しく記されている。
この時の佐和山城包囲織田軍団の指揮官は
丹羽長秀が担当。『信長公記』によると彦根市鳥居
本の百々屋敷「どどやしき」に丹羽長秀は陣城を設
けている。現地の陣城は「とどやま」丸山に城郭
遺構が残存している。
④
◆③画面は浅井朝倉の志賀の陣で浅井朝倉に協力
した比叡山延暦寺の荒廃の様子を劇的に小野先生
は描いておられます。実際に火災で類焼したのは
根本中堂ではなく比叡山の坂本の里坊などの近辺
ではないかとされています。比叡山焼き討ちは元
亀2年9月の事です。
◆志賀の陣とは?
志賀の陣(しがのじん)とは、元亀元年(1570年)
9月16日から12月17日にかけて発生した織田信長と
浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦いを言う。
浅井朝倉方は総勢3万の勢力を盛り返して比叡山に
籠城して織田信長は苦戦し「天下は朝倉殿持ち候え」
と珍しく弱き下手に出て和議を結んで織田軍の危機
を回避します、勿論信長の言う天下とは近畿を中心
とした政権の事と考えられます。武家で初期の畿内
の天下人は三好長慶と一般に言われております。
◆④織田信長の物思いにふける信長らしい南蛮甲冑
が目を引きます。この頃の信長は既に総髪ではない
でしよう。しかし小野先生の総髪の信長像が当時の
信長の荒涼とした精神世界を見事に表していると言
えます。※斬新な南蛮具足にマントを羽織った織田
信長像がなんとも異形な信長ワールドを感じさせて
くれる画像。
◆元亀年号の出典拠の謎?
『毛詩』の「憬彼淮夷、来献其琛、元亀象歯犬賂南
金」と『文選』の「元亀水処、潜竜蟠於沮沢、応鳴
鼓而興雨」から。勧進者は式部大輔高辻長雅。とさ
れる。しかし韓半島には『元亀作封』と呼ばれる
言葉もあり今後も研究が必要であろう。
る本格劇画『元亀の騒乱』 2
小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服致します。小野先生の益々の御発
展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非
紹介したいと思います。
作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷
川博美が担当しています。また当ブログでの
解説も私が担当させて頂いております。なお
順番を追って紹介しますが皆様は順次ページ
を追って御鑑賞下さい。
③
下記の「長比」野瀬山砦とも言う。『嶋記録』
にも登場する。とは美濃近江国境の「たけくら
べ」長比城の事で信長と浅井が対立していた元
亀年間に長比城は近江国坂田郡の鎌刃城の堀氏、
樋口氏、が、この城塞を守っていたが信長方に
誘降されている。
「鎌刃」
鎌刃城とは堀、樋口氏の城であるから
当然当時の南坂田郡は織田領へと編入されたと
思われる。『嶋記録』には国人領主今井氏の臣
下、田辺式部丞が信長に500石で召し抱えられ
る一節あり。
「横山」
横山城とは浅井方の重要な出城で坂田郡の東西
を眼下に見下ろす戦略上重要な城で姉川合戦の
後に木下藤吉郎が城番とされた大規模な中世城
郭遺跡。
「佐和山」
佐和山城は浅井方の磯野丹波守が姉川合戦後
に8ケ月もの籠城戦を行った水陸の要衝を扼す城。
『嶋記録』には天の川流域の今井氏方の武将が
佐和山城に籠城した様子が詳しく記されている。
この時の佐和山城包囲織田軍団の指揮官は
丹羽長秀が担当。『信長公記』によると彦根市鳥居
本の百々屋敷「どどやしき」に丹羽長秀は陣城を設
けている。現地の陣城は「とどやま」丸山に城郭
遺構が残存している。
④
◆③画面は浅井朝倉の志賀の陣で浅井朝倉に協力
した比叡山延暦寺の荒廃の様子を劇的に小野先生
は描いておられます。実際に火災で類焼したのは
根本中堂ではなく比叡山の坂本の里坊などの近辺
ではないかとされています。比叡山焼き討ちは元
亀2年9月の事です。
◆志賀の陣とは?
志賀の陣(しがのじん)とは、元亀元年(1570年)
9月16日から12月17日にかけて発生した織田信長と
浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦いを言う。
浅井朝倉方は総勢3万の勢力を盛り返して比叡山に
籠城して織田信長は苦戦し「天下は朝倉殿持ち候え」
と珍しく弱き下手に出て和議を結んで織田軍の危機
を回避します、勿論信長の言う天下とは近畿を中心
とした政権の事と考えられます。武家で初期の畿内
の天下人は三好長慶と一般に言われております。
◆④織田信長の物思いにふける信長らしい南蛮甲冑
が目を引きます。この頃の信長は既に総髪ではない
でしよう。しかし小野先生の総髪の信長像が当時の
信長の荒涼とした精神世界を見事に表していると言
えます。※斬新な南蛮具足にマントを羽織った織田
信長像がなんとも異形な信長ワールドを感じさせて
くれる画像。
◆元亀年号の出典拠の謎?
『毛詩』の「憬彼淮夷、来献其琛、元亀象歯犬賂南
金」と『文選』の「元亀水処、潜竜蟠於沮沢、応鳴
鼓而興雨」から。勧進者は式部大輔高辻長雅。とさ
れる。しかし韓半島には『元亀作封』と呼ばれる
言葉もあり今後も研究が必要であろう。
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