明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場す
る本格劇画『元亀の騒乱』1
小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服致します。小野先生の益々の御発
展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非
紹介したいと思います。
作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷
川博美が担当しています。また当ブログでの
解説も私が担当させて頂いております。なお
順番を追って紹介しますが皆様は順次ページ
を追って御鑑賞下さい。
◆織田信長の足利幕府末期の批判
『信長公記』天正元年には以下の信長の文言
がある。
公方様御謀叛付十七ケ条のこと
さる程に、公方様内々御謀叛おぼしめしたつ
るの由、其の隠れなく侯。子細は、非分の御
働きども、御勿体なきの旨、去る年、十七ケ
条を捧げ、御異見の次第。
条々
一、御参内の儀、光源院殿御無沙汰につきて、
果たして御冥加なき次第、事旧侯。これに依
つて、当御代の儀、年々懈怠なき様にと、御
入洛の刻より申し上げ侯ところ、早おぼしめ
し忘れられ、近年御退転、勿体なく存じ侯事。
麒麟の花押を使う足利義輝は死後「光源院」
と追号された。彼足利義輝は各地をを転々と
する窮状の生活を送って内裏「皇室」を尊ば
ずあまり参内せずに将軍として日本の諸侯か
ら尊崇されず不遇の暗殺「永禄の変」により
倒れてしまった。
信長も麒麟の花押を使う平和を希求する武将
であるが「光源院」の弟の足利義昭を庇護し
先君足利義輝の皇室軽視を注意したのに足利
義昭は京都から出て行った事は信長としては
残念な事だと足利義昭を糾弾している。
◆元亀年間の朝倉義景の戦勝祈願文
元亀2年(1571年)朝倉義景の奉納したの長浜
市内の鰐口には
元亀二年(一五七一)五月朝倉義景奉納
江北表山田和泉大明神金口
国土安全,武運長久 敬白
于時元亀貳辛・未五吉祥日、願主越州義景と
書かれている。
願文の中の越州義景とは越前守護職を意味する
言葉である。
後の『信長公記』の天正元年の記述には美濃の
前守護職の斉藤龍興が越前刀禰坂で打ち取られ
た首級を「濃州龍興」と同様の表現で表記され
ている。つまり、当時は越州義景だけで朝倉義
景と通用して守護職と世人には解る。濃州龍興
だけで斉藤龍興と通用して守護職と世人には解
る。一国の国主、守護大名に用いる当時の表現
様式と思われる。
◆戦国戦勝祈願文の鰐口は意外にも領国ではな
く進駐地で発見されている。
織田信長の白山神社祈願文、鰐口や
浅井長政の志賀郡仰木の鰐口の祈願文等は平素
の自領ではない進駐地または予定地に奉納され
ている。これは神道思想史的見地からみれば、
その土地の地主神への畏敬の念や神霊への戦勝
や加護を期待した、当時の神道思想であろう。
①
②
◆元亀の騒乱は足利義昭が内裏「朝廷」に奏上し
た元亀年号に端を発する織田信長と近畿北陸
東海周辺の戦国大名による騒乱を言います。
特に元亀元年に織田信長が京都に一度集結し
若狭から朝倉方の越前金崎城に侵攻した事に端
を発し浅井氏や六角氏も是に呼応し甲斐武田氏
や三好松永氏や石山本願寺らも加わる織田信長
包囲網をも含めた騒乱の総称を『元亀の騒乱』
と言います。劇画は元亀元年の姉川合戦が物語
の巻頭に登場しています。
(元亀元年)は1570年同年6月姉川合戦、姉川の
戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀
元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月
9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市
野村町付近)で行われた合戦である。
◆北陸の浅井朝倉勢と対峙する東海の織田信長と
徳川家康は元亀元年の金ケ崎の失策を回復すべく
東海勢を動員した姉川合戦を展開しますが越前の
第一人者で当主の朝倉義景やその一族筆頭格の朝
倉式部太夫は姉川を軽視して本国に引き籠る体制
で朝倉景健を代行者として姉川合戦に臨むと言う
当時の東海経済権力と姉川の戦い(あねがわのた
たかい)は「北陸経済権力の対戦で一大決戦や難
局という意識は稀薄で越前朝倉方の認識不足であ
ったと考えられます。織田方は重要拠点横山城な
どを、姉川合戦により獲得します。
◆織田信長は天正元年の足利義昭への17ヶ条の
告訴状で次の如く元亀の年号に申し述べている。
元亀年号は不吉であると明言し天正への改元を
求めている。
一、元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの
由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯。禁中に
も御催しの由に侯ところ、聊かの雑用仰せ付け
られず。
◆足利義昭の突然の元亀年号奏上!
足利義昭は将軍に就任した際、元号を「元亀」
と改元する事を朝廷に奏請した(『言継卿記』
永禄12年4月8日条ほなど)。織田信長は『元亀
』が将軍権威の復活につながる事や、正親町天皇
の在位が続いているのに必要ないと反対した。
足利義昭は朝廷を説得するために下行費用の
名目で5000疋の朝廷への献金を実施(『康雄記』
同4月6日条)し、事もあろうか皮肉にも、織田
信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を
実行している。 『信長公記 巻六』によると、
元亀3年(1572年)9月に足利義昭に提出した17
か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、
改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し
上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭
追放後に改元を実行させた事からも、信長に
とって元亀の年号は大変不愉快なものだったと
推察される。
る本格劇画『元亀の騒乱』1
小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服致します。小野先生の益々の御発
展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非
紹介したいと思います。
作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷
川博美が担当しています。また当ブログでの
解説も私が担当させて頂いております。なお
順番を追って紹介しますが皆様は順次ページ
を追って御鑑賞下さい。
◆織田信長の足利幕府末期の批判
『信長公記』天正元年には以下の信長の文言
がある。
公方様御謀叛付十七ケ条のこと
さる程に、公方様内々御謀叛おぼしめしたつ
るの由、其の隠れなく侯。子細は、非分の御
働きども、御勿体なきの旨、去る年、十七ケ
条を捧げ、御異見の次第。
条々
一、御参内の儀、光源院殿御無沙汰につきて、
果たして御冥加なき次第、事旧侯。これに依
つて、当御代の儀、年々懈怠なき様にと、御
入洛の刻より申し上げ侯ところ、早おぼしめ
し忘れられ、近年御退転、勿体なく存じ侯事。
麒麟の花押を使う足利義輝は死後「光源院」
と追号された。彼足利義輝は各地をを転々と
する窮状の生活を送って内裏「皇室」を尊ば
ずあまり参内せずに将軍として日本の諸侯か
ら尊崇されず不遇の暗殺「永禄の変」により
倒れてしまった。
信長も麒麟の花押を使う平和を希求する武将
であるが「光源院」の弟の足利義昭を庇護し
先君足利義輝の皇室軽視を注意したのに足利
義昭は京都から出て行った事は信長としては
残念な事だと足利義昭を糾弾している。
◆元亀年間の朝倉義景の戦勝祈願文
元亀2年(1571年)朝倉義景の奉納したの長浜
市内の鰐口には
元亀二年(一五七一)五月朝倉義景奉納
江北表山田和泉大明神金口
国土安全,武運長久 敬白
于時元亀貳辛・未五吉祥日、願主越州義景と
書かれている。
願文の中の越州義景とは越前守護職を意味する
言葉である。
後の『信長公記』の天正元年の記述には美濃の
前守護職の斉藤龍興が越前刀禰坂で打ち取られ
た首級を「濃州龍興」と同様の表現で表記され
ている。つまり、当時は越州義景だけで朝倉義
景と通用して守護職と世人には解る。濃州龍興
だけで斉藤龍興と通用して守護職と世人には解
る。一国の国主、守護大名に用いる当時の表現
様式と思われる。
◆戦国戦勝祈願文の鰐口は意外にも領国ではな
く進駐地で発見されている。
織田信長の白山神社祈願文、鰐口や
浅井長政の志賀郡仰木の鰐口の祈願文等は平素
の自領ではない進駐地または予定地に奉納され
ている。これは神道思想史的見地からみれば、
その土地の地主神への畏敬の念や神霊への戦勝
や加護を期待した、当時の神道思想であろう。
①
②
◆元亀の騒乱は足利義昭が内裏「朝廷」に奏上し
た元亀年号に端を発する織田信長と近畿北陸
東海周辺の戦国大名による騒乱を言います。
特に元亀元年に織田信長が京都に一度集結し
若狭から朝倉方の越前金崎城に侵攻した事に端
を発し浅井氏や六角氏も是に呼応し甲斐武田氏
や三好松永氏や石山本願寺らも加わる織田信長
包囲網をも含めた騒乱の総称を『元亀の騒乱』
と言います。劇画は元亀元年の姉川合戦が物語
の巻頭に登場しています。
(元亀元年)は1570年同年6月姉川合戦、姉川の
戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀
元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月
9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市
野村町付近)で行われた合戦である。
◆北陸の浅井朝倉勢と対峙する東海の織田信長と
徳川家康は元亀元年の金ケ崎の失策を回復すべく
東海勢を動員した姉川合戦を展開しますが越前の
第一人者で当主の朝倉義景やその一族筆頭格の朝
倉式部太夫は姉川を軽視して本国に引き籠る体制
で朝倉景健を代行者として姉川合戦に臨むと言う
当時の東海経済権力と姉川の戦い(あねがわのた
たかい)は「北陸経済権力の対戦で一大決戦や難
局という意識は稀薄で越前朝倉方の認識不足であ
ったと考えられます。織田方は重要拠点横山城な
どを、姉川合戦により獲得します。
◆織田信長は天正元年の足利義昭への17ヶ条の
告訴状で次の如く元亀の年号に申し述べている。
元亀年号は不吉であると明言し天正への改元を
求めている。
一、元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの
由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯。禁中に
も御催しの由に侯ところ、聊かの雑用仰せ付け
られず。
◆足利義昭の突然の元亀年号奏上!
足利義昭は将軍に就任した際、元号を「元亀」
と改元する事を朝廷に奏請した(『言継卿記』
永禄12年4月8日条ほなど)。織田信長は『元亀
』が将軍権威の復活につながる事や、正親町天皇
の在位が続いているのに必要ないと反対した。
足利義昭は朝廷を説得するために下行費用の
名目で5000疋の朝廷への献金を実施(『康雄記』
同4月6日条)し、事もあろうか皮肉にも、織田
信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を
実行している。 『信長公記 巻六』によると、
元亀3年(1572年)9月に足利義昭に提出した17
か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、
改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し
上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭
追放後に改元を実行させた事からも、信長に
とって元亀の年号は大変不愉快なものだったと
推察される。
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