本能寺の変 兵法と用兵
◆質問者
日本の戦国時代の偽装急襲戦法を
解説下さい要は見せかけ戦法を!
◆長谷川
声東撃西(せいとうげきせい)は
兵法三十六計の第六計にあたる戦術。
で「東に声して西を撃つ」の意味。
◆質問者
日本国における典型的な声東撃西は?
◆長谷川
織田信長の越前敦賀郡金ヶ崎城攻めで
す。最初信長は若狭の武藤氏討伐の軍
を起こすと公言しておいて越前朝倉氏
攻めを突然実施し越前に侵攻しますが
北近江の浅井氏朝倉氏を救援して信長
の『声東撃西』に相当する作戦は破綻
します。有名な金ヶ崎の退口と呼ばれ
ております。1570年元亀元年の事績。
◆長谷川
元亀三年の三方ヶ原の合戦で甲斐の
武田信玄は西上する作戦進路をとり
徳川家康の浜松城無視する様な進路
に見せかけますが武田信玄は三方ケ
原に進路を変更して徳川と織田援軍
に勝利致します。1572年の事績です。
◆反論者
長谷川さんは本当に歴史学者ですか?
織田信長は「声東撃西」について具体
的には全く書き記していませんよ!?
◆長谷川
織田信長軍法写には「声東撃西」
と同意の文言を記録しています。
◆質問者
天正10年 1582年
本能寺の変に直面した紀州鷺森本願寺
は四国渡海を予定していた織田信孝軍
に突如攻められ顕如さんは無事ですか?
◆長谷川
本能寺当日織田方は四国渡海を名目に
突如紀州鷺森本願寺攻めを実施してま
すが午後には本能寺の変報が到来して
織田信孝軍は大坂に引き返してます。
これも声東撃西(せいとうげきせい)
と呼ばれる偽装行軍用兵の一種です。
何かを攻めるフリをして別の場所を
突然急襲が兵法の常套たる詭道です
鷺森は素人が見れば純然たる本願寺
ですが軍事縄張ビイスタ工法が存在
する事は軍略家に丸見えの軍事機能
◆質問者
本能寺の変の事前に明智日向守
光秀は丹波亀岡城に一旦兵員を
集合させます亀岡城にビイスタ
工法は存在したのでしょうか?
◆長谷川
存在した可能性が高いと思います。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ動画
が視聴数が伸びに伸びて6800回
◆長谷川
城郭ビイスタ動画見られてる
事など私は全く信じられない
◆反論者
動画絶対に見ては駄目なのだ!
◆対談者
明智光秀の本能寺攻めは明智に
とり都合の良い「
本能寺の変のとき信長包囲殺害の
現場指揮を執っていたのが明智方
武将の斎藤利三で軍事のプロとも
言える武将です。彼の居城である
丹波黒井城には城郭ビイスタ存在
したのでしょうか?もしかして?
◆長谷川
丹波黒井城は城郭ビイスタ工法です。
◆一般様
すごい理論ですね!これ日本城郭
理論の基礎だと私は思います此れ
を知らないと城を知らないも同然
ビイスタ動画は必須の動画ですね
織田信長は自らの居城近江安土城
を出発して京都本能寺へと向かっ
た運命の進路をとった事になる。
織田信長の安土城もビイスタ工法
◆一般様
明智光秀は丹波亀岡に中国出陣
の為の兵員を集合させて表向き
は中国に向かうと見せかけて京
本能寺を急襲して織田信長殺害
に成功したと言えます。日向守
光秀は丹波亀岡城で悩んだ事と
思います。
◆一般様
本能寺を急襲する明智にとり
声東撃西(せいとうげきせい)
と呼ばれる偽装行軍用兵には
都合が良い状況だったのです
か?
◆長谷川
中国地方に京都廻りで進軍を
すると配下に伝えれば明智の
配下は納得致しやすいまさに
声東撃西(せいとうげきせい)
と呼ばれる偽装行軍用兵には
最適の状況だったと思います。
◆一般様
織田信長自身は声東撃西(せいとう
げきせい)の策を人生で使ってる?
◆長谷川
『信長公記』に
尾張小牧築城の際に二宮山に築城
すると2回現地に尾張富士の現地
へ信長は家臣を引き連れ行ってます
が信長は急に小牧山に変更築城し
て小牧山に急速に築城を完了させ
ています。これも家中には二宮山
へ移動パフオーマンス「見せかけ」
を演じて小牧山に築城して小口城
を手に入れる声東撃西の策戦です。
本庄惣衛門覚え書き現代語訳[編集]ウイツキペデイアより
- 明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺
- に我らより一番乗りに侵入したというものがいたら
- それはみな嘘です。
- その理由は、信長様に腹を切らせるとは夢にも知らな
- かったからです。
- その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに侵攻
- していました。その援軍に明智光秀が行こうとしていました。
- ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうでは
- なくて京都へ命じられました。我らはその時は家康様が
- 御上洛しておられるので、家康様だとばかりに思ってい
- ました[注釈 1]。(目的地の)本能寺という所も知りませんでした。
- 軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。誰かと思えば、
- 斎藤内蔵助殿の御子息と小姓でした。本能寺の方に行く間、
- 我らはその後に付き、片原町へ入っていきました。
- そして二人は北の方に行かれた。我らはみな堀際へ東向きに
- 行きました。
- 本道へ出ました。その橋の際に人一人がいたので、そのまま
- 我らはその首を取りました。
- そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて鼠
- ほどのものもいませんでした。先ほどの首を持って内へ入り
- ました。
- おそらく北の方から入った弥平次殿と母衣衆の二人が、
- 「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、堂の下へ投げ入れ、
- (堂の)正面から入りましたが、広間にも一人も人がいないで
- した。蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。
- 庫裏の方より、下げ髪の、白い着物を着た女一人を我らは捕らえ
- ましたが侍は一人もおりません。(女は)「上様は白い着物を
- お召しになっています」と申しましたが、それが信長様を指すも
- のだとは存じませんでした。その女は、斎藤内蔵助殿に渡しました。
- (信長様の家臣である)御奉公衆は袴に片衣で、股立を取り、二
- 三人が堂の中へ入ってきました。
- そこで首を又一つ取りました。その者は、一人奥の間より出てきて
- 、帯もしていませんでした。刀を抜いて浅黄色の帷子を着て出て
- きました。その時に、かなりの人数の(我らの)味方が入ってき
- ました。それを見て敵は崩れました。我らは吊ってある蚊帳の陰
- に入り、この者が出てきて通り過ぎようとしたときに後ろから
- 切りました。
- その時の首と(先に寺の門前で取った首)で二つ取りました。
- 褒美として槍をいただきました。
- 野々口西太郎坊の配下にいたときのことです。
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