城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

滋賀県米原市清滝山 登山日記

2020-03-14 05:28:42 | 戦国武将
滋賀県米原市清滝山 登山日記
2020年令和2年某日
滋賀県米原市清滝にある標高438.9mの
「清滝山」に田畑先生と登山する事にした。
ここは鈴鹿山脈の北、東海道本線と国道
21号線に囲まれた独立峰です。

田畑喜久弘先生は現在
NPO法人自然と歴史ロマンの会の理事
余呉城郭研究会の理事を兼任されてます。
ちなみに私長谷川博美は両会には所属を
しておりません。誤解のないようお願い
を申上げます。両会へ講師として行く事
は時にあります。

▼清滝山山頂NHKの中継アンテナ前の田畑氏
※お腹が空いて何故か?NHKのロゴマークが
おにぎりに見えます!?
※この先生は城址見学その他において
数々の登山救助活動をされてその数50
以上になりますが、それを他人に誇り
自慢する事は絶対されまません。自分
の失敗談はユーモアを交えて話されま
すが、自分のなした美談や影の功績は
絶対一切しない男気の人。大河ドラマ
麒麟が来るで言えば菊丸のような謎の
人助けをする景の活躍する人と言って
良いでしょうか?(微笑)特に政治経済
歴史自然など社会観察には優れた観察
眼を持っ人と言える。と私は思います。

清滝山から西北を望むと湖北の戦国絵巻
とも言える古戦場名所旧跡の展望に優れ
ております。この清滝は一時北近江守護
職京極氏の本拠が構えられた場所であり
また江戸時代には坂田郡各所に散在して
いた京極氏の歴代当主の宝篋印塔を清滝
寺の京極氏墓所に整理集合させたと言わ
れております。
▼清滝山より望む湖北の景観素晴らしいです。
眺めを東に転じると!
関ヶ原方面や尾濃の遠望これまた絶景です。
眼下に柏原宿野瀬山こと長比山も見えます。
永禄のその昔、浅井の重臣、遠藤喜右衛門
柏原の成菩提院に宿泊する織田信長を打た
と画策したところ浅井備前守長政是を制止
したとも言われています。もし浅井が信長
を闇討ちにすれば日本史の流れも変わって
いた事でしよう。




また長比城には
元亀元年1570年
織田信長も宿泊しています。
文献『信長公記』に
「たけくらべ・かりやす取出の事
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、
たけくらべ・かりやす、両所に要害
を構へ侯。信長公御調略を以つて、
堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日信長公御馬を出だされ、
堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ、か
りやす、取る物も取り敢えず退散なり。
たけくらべに一両日御逗留なさる。」と
信長のたけくらべ砦
逗留を記録してます。

なお長比砦の図面は『滋賀県中世城郭分布
調査』坂田郡を参照にしてください。


遠喜こと
遠藤喜右衛門文武に優れた元亀の騒乱
の勇将にして彼の城塞須川山城も非常
に優れた城郭遺跡とも言えましよう?
また多賀大社には遠藤喜右衛門尉直経
の三十六六歌仙絵巻が奉納されてます。

▼須川山城 長谷川博美 鳥瞰図
さても文武に優れ、織田信長を打つ事
に執念を燃やした、猛将、元亀の兵乱
を代表する荒武者、遠藤喜右衛門です
が元亀元年の姉川合戦で信長の眼前ま
で肉薄するも打ち取られると言う武人
として無念の最期を向かえております。
文献『信長公記』らよる遠藤の最期!
「六月廿八日卯刻、巳寅へむかつて
御一戦に及ぽる。御敵もあね川へ懸かり合
ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、
黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、
爰かしこにて、思ひ貼の働きあり。終に
追ひ崩し、手前に於いて討ち取る頸の注
文、真柄十郎左衛門、此の頸、青木所左
衛門是れを討ちとる。前波新八、前波新
太郎、小林端周軒、魚住龍文寺、黒坂備中、
弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門、
此の頸、竹中久作是れを討ちとる。
兼ねて此の首を取るべしと高言あり。」
と我らの遠藤!無念の打ち死にを伝えます。


またみなみな様と、いずれ清滝山に登山
できる機会を私は楽しみにしております。





コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 近江 大谷吉継  伝説の背... | トップ | 織田信長は自慢する人が大キ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (長谷川)
2020-03-14 18:18:16
多数の
応援に
感謝致します。
返信する

コメントを投稿

戦国武将」カテゴリの最新記事