織田信長は自慢する人が大キライのブチ切れ人間
世の中には、急に激怒する人がいる。
激怒する人は積年の鬱屈したストレス
を抱えており、その怒りの記憶の根源
を時に冷静に観察分析する必要があろ
う。織田信長と言う人は気に喰わぬ事
を言う者に時に激怒する人物ではない
だろか?信長の男性としての倫理観や
価値観念は如何様なものであったので
あろうか?信長は気に喰わぬ家臣でも
即刻殺害はせずその人物の活動を長年
観察し自らの兵力が減少する事を危惧
し忍耐を続けていた事だと、私は推測
している。あの者は自分の性格からは
虫唾が走るほど、馬が合わないと認識
していても、冷静に部下の能力を引き
出す事を務めていたと私は思う。使え
る者は機能的に道具として使う。しかし
自分の堪忍のレベル「虫唾」堪忍袋の
緒が切れた時には、烈火の如く激昂
する人物と思われる。
『信長公記』天正元年越前と近江の境
刀根坂において、信長は佐久間信盛の
進言に対して、烈火の如く激怒する。
「佐久間右衛門、涙を流し、さ様に仰せ
られ侯へども、我々程の内の者は、もたれ
まじくと、自讃を申され侯。」と佐久間
信盛が織田家筆頭格の信盛に、私は信長に
過ぎたる、出来の良い家臣ですよと自慢し
自賛した、瞬間がここに描写されている。
「信長御腹立ち斜ならず、其の方は、男の
器用を白慢にて侯か。何を以ての事、片腹
痛き申し様哉と、仰せられ、御機嫌悪候。」
とある。一方信長は癇癪が収まらずに、貴様
は男の才能を自ら主君信長の面前で自慢する
のか?と猛烈な激昂を見せ佐久間信盛に激怒
している。でも信長は信盛を解雇せずに転戦
させて長年様子を見る気の長さのを一面で見
せいる。彼を一度でも怒らせてしまうと信長
は心の中の恨み手帳を持っておりヤバイのだ。
信長の深層心理やパーソネルつまり心の内側
のペルソナを熟知していなくては信長の家老
とて容赦なく、処断される可能性がある事だ。
そして信長の積年の佐久間信盛キライの鬱憤
が爆発する時節が現実に到来する事になった。
織田信長の佐久間信盛への折檻状と呼ばれる
信長の怨み手帳だ。
信長の堪忍の記憶
は執拗とも言える。
信盛は高野山に追放され命を落としている。
現代の会社においても会社社長が突然部長
を解任する事は、よく起こっいる世渡りと
は空気読みとは何時の世も難しいものだ!
織田信長の佐久間信盛宛19ヶ条折檻状には
一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年
間在城しながら何の功績もあげていない。
世間では不審に思っており、自分にも思い当
たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺
を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の
守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、
何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出て
いくであろうと考え、戦いを挑まなかったので
あろうか。武者の道というものはそういうもの
ではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、
信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣
の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに
、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別
もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に
面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも
比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を
時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て
信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を
領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣
いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使
って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し
意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらない
のは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠
もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散
するであろう」とあり、信盛親子も連判している。
今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状
を送ってくるというのは、自分のくるしい立場を
かわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を
加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられて
いる。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうとも
これほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も
増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の
旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設け
るなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人
も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野
の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換え
ているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者
をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い
合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付
けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど
落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め
込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしま
ったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、
戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、
結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って
立った。これによって信長は面目を失った。その口程
もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な
事は前代未聞である。
一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、
良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい
加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者
の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、
与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を
無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。
自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を
隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の
活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ
援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない
。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても
兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、
信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっ
ただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、
もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした
顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ
上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを
乞うのが当然であろう。 右のように数年の間ひとかどの武勲
もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。
そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは
信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行し
てみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
と記している。
賜り
感謝致します。