城郭 長谷川博美 基本記録

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近江田上山城見学会 令和3年2月27日

2021-02-25 05:28:55 | 城址見学会予定 
◆常識さん
長谷川先生に質問したいのですが元亀2年頃
近江浅井武将磯野丹波守員昌が8ケ月織田軍
に対し籠城した意義は織田方の包囲軍が佐和
山を遠巻きに包囲したから磯野方は食糧補給
線が松原内湖から有利に、捕球されていた事
を意味していると思います。従って当時織田
方は佐和山から遠く離れた遠巻き包囲網作戦
を採用し南は平田山、西は彦根山、北磯山に
それぞれ陣取ったと考えております。磯山は
とは松原内湖を押える要衝の地でしたよね?

◆物生山城って織田方の佐和山城の為の付城
なんですか?城郭の普通の常識で言うならば
物生城の堀切は西の磯山に向け構築されてる。
物生山城が佐和山城攻めの陣城ならば常識と
して佐和山に向けて堀切を掘削するのが常識
なにも?わさわざ、西の磯山に向けて堀切を
など掘削する必然性が全く無いのが常識です!

◆常識さん
磯山城には南城と虎ケ城があります。この
虎ケ城こそ実質は磯山城の北城になります!

◆長谷川
貴方は元亀の頃の佐和山城攻めの為の北の
織田軍「一橋氏」が北磯山に陣取ったと考
へておられる訳ですね?残念ながら良質の
一級文献資料に織田軍磯山布陣は書かれて
いません。但し坂田郡誌所収の『嶋記録』
には織田軍が「北磯山」に陣した記録が収
録されています。元亀2年西暦1571年の事
◆常識さん
それ見てみなさい!一橋氏は北磯山城に陣取った!

◆長谷川
たしかに北磯山とは現在の虎ケ城に相当致します。
歴史や城郭とは軽々に歴史を断定して大衆を扇動
しない倫理感が必要。歴史調査は重々しく慎重を
最も重視するもの。軽はずみな言動は慎むべき事。

◆常識さん
でもね!北磯山つまり虎ケ城に『嶋記録』が言う
ように一橋氏が佐和山城を遠巻きにして佐和山に
向けて堀切を現実に普請してたら北磯山城=織田
方の市橋氏の布陣は確定的と私は強く確信致する!

◆忍者さん
ふふ~ほんなもん磯山城の堀切も土橋も有るがな!

磯山城 虎ケ城 長谷川博美令和鬼の図面


◆長谷川
 貴方の観察力は鋭いと言えます。確かに『嶋記録』にある
北磯山つまり虎ケ城には本丸から一の堀、二の丸から二の堀、
三の丸から三の堀と物生山城に対抗するよう堀切を掘削して
いる事は現実です。中世城郭では一の郭、二の郭、三の郭で
簡単に図示するなら磯山に東に向けて111と堀切三本入れて
います。対峙する様に物生山は11と磯山に対抗する様に西に
堀を掘削している。貴方の論理はこの時点では適正と言える。
しかし浅井氏重臣磯野丹波守昌が永禄4年1561年頃には磯山
城に入城していた文献がある以上北磯山が一橋氏の陣城だと
軽々に断言はできません。このように歴史裁判は断定する事
よりも地道な歴史解読を捜査継続する事に学術的意義がある。

磯野丹波守員昌の磯山城の入城が
      永禄4年1561年の事
磯野丹波守員昌の佐和山城開城が
   元亀2年西暦1571年の事
約10年間のタイムラグや歴史時間軸差を冷静に考慮する事。


◆長谷川
ここは軽々に磯山城を語るよりも
真正の歴史城郭派ならば磯山城の
現地を厳正かつ冷静に観察見学を
考えてみる事が歴史城郭派の本分
ではないでしょうか?

◆常識さん
元滋賀県中世城郭現地分布調査員の長谷川先生
図面には堀切がカットされて消されていません
我々常識派としては長谷川先生の現地忠実直視
つまり現場の実際の遺構御指導を願いたいです!

◆長谷川
何度でも言いますが真の城の先生は城跡自体を
澄んだ心で見学する清い精神性こそ尊ぶべき事!
俗世の塵芥にまみれて真実の城郭は悟れません!

◆質問者
城を作る時の縄張りと言う文言は?何処にある?

▼過去写真

▼過去写真

◆長谷川
『朝倉築城記』に縄打と言う文言
があり偽書とされる『武功夜話』
には安土城に縄入れと言う文言が
ありますが私は武功夜話を信用し
ておりません文献と物語は異なり
ます。文献『信長公記』には柴田
勝家に仮託した越前北庄城の縄張
を勝家ではなくそのオナーの信長
みずから実施したと書いています。
また越前柴田の監視役として府中
三人衆を越前に配して柴田に仮託
した越前監視する信長の監査体制
も『信長公記』に記録されてます。
また柴田自身も信長家臣の監査役
として明智光秀が亀岡城を築城す
る以前に友人で神祇官で京都吉田
兼己の吉田神社裏山に築城を申請
しますが柴田勝家の裁定で不許可
となっています。明智は京に城を
持ちたかった本能寺の変を早くか
ら光秀が密かに狙っていた可能性
は全く無かったとはとは言えない。
内裏朝廷との連絡役の神祇官京都
吉田氏と密接な関係連携にも着目

▼『武功夜話』安土築城の記述


◆質問者
世に言う名築城家とは?

◆長谷川
これらの人々でしょう。特に蒲生氏郷は宣教名
リオンでキリシタン大名でもあり戦国モダン人!
そう有名な高山右近も宣教名ジュストでしたね


◆質問者
先生!蒲生日野の佐久良城と長浜市木ノ本町の田上山
城では全く土塁の巾が違います何故なのでしょうか?

◆長谷川
貴方は城郭遺跡を見るセンスが常識的です。何故なら
現代の流行でも太い巾のスボンや細い巾のスボンの巾
が時代により存在した。服飾家やフアッション研究家
なら基本と言える。当然の事ながら日野佐久良城土塁
巾と伊勢宮山城、近江田上山城を比べると日野佐久良
城は明らかに時代の異なる土塁巾の城館でつまり城は
土塁巾を専門的に言うと「馬踏」と言いますが、1城
ごとに微妙に異なる。良い城郭図書く人は忠実に土塁
巾を測量する誠実さと学者としての誠意がその根底や
根本に存在します。だからどの城も同じ土塁巾で書い
てる人と概略図や概念図の軽いノリで城館解釈してる
駄図はある。鉛筆の芯、ボールペンの芯、シャープも
現実には口径や太さ巾は実際には確実に異なる訳です。
そりや大型車と軽自動車のタイヤ巾や直径を見別けら
れない人など現代人はまず無い、しかし中世城郭図面
の土塁巾は町の歴史城郭講演に集まる人に全く教えて
貰っていない。それどころか厳然と滋賀彦根の佐和山
城の本丸には土塁が存在するが土塁の巾つまり馬踏み
も厳然と写真撮影には撮影されているのが誰も是を見
ようとしない社会現実がある。野球で一塁二塁三塁は
ベースのマットの事ですが佐和山本丸土塁は野球ベース
よりも高く残っていて城見学の基本は現地城塁見学です。
佐和山城の本丸の解釈でも文字歴史派と現実派に別れる。
▼佐和山城本丸土塁写真

▼佐和山城本丸土塁写真

城郭図面でも駄図と言われる図面はどの城も同じ土塁
巾で不誠実に書いてる。城郭遺跡とは唯物で現実の事
理論や概念や通説に束縛誘導されずに真実を直視する
事、つまり文字歴史論だけに眩惑されない冷静な視点
が歴史城郭分野では重要です。佐和山本丸土塁は科学
的な赤色測量図でも明瞭に学術的根拠を伴って映し出
される。つまり歴史の真実や現実はズバリ文字や文言
や流言や風評ではなく現実世界そのものなのですよ!


◆長谷川
よく観光地に城看板が
存在し〇〇城だと100%信奉信仰していたものが現実
には500mもズレていた観光看板である事例は世の中に
多数存在します。本物を見極める力量こそ歴史城郭!
しかし世の中の現実は集団幻想や集団誘導が常に存在
し看板や観光案内板を時に完全に信じ込んでしまう!
これは人間が記憶学習する動物で一度記憶したものは
消し去る事が出来ないと言う現実で、昔マホメットと
習った人と現代のムハンマドと勉強した人には激しい
記憶学習の壁が存在して両者が相容れない記憶の壁が
存在する。良い国作ろう鎌倉幕府1192年と脳に焼き付
た人と現代の学生は1992年など全く問題にせず鼻先で
笑います。おばあちやん!それは昔の教科書の事だと!
▼余呉東野山城の土塁 みんなの背後こそ現実の歴史!


★長谷川博美 現地城郭解説の御案内

日時 令和令和3年2月27日 土曜日見学会 以下の内容です。
◆講師 元滋賀県中世城郭現地分布調査員 図面作成者
    滋賀民俗学会理事 長谷川博美

◆日時 令和令和3年2月27日 土曜日田上山城見学会
◆主催 余呉城郭研究会 生月茂会長
◆受付 予約 ウッデイパル余呉
    ☎ 0749-86-4145 城郭係 火曜定休日
◆昼食 ウッデイパル余呉制製の弁当付
◆各自用意 水筒、山靴、防寒、雨具、
◆少量の積雪や雨天でも通常開催予定
◆集合時間と場所
 JR木ノ本駅東口 10時10分
◆推薦する無料駐車場
 JR木ノ本駅西口駐車場 陸橋から東口に移動可能
◆高速道路アクセス及び下道の案内
 北陸自動車道木ノ本インターより木ノ本駅まで約5分
 国道8号線または国道365号線より木ノ本駅へアクセス
◆参加費 2500円
 弁当付 城郭見学用 資料A4全10ページ付き
◆当日見学8箇所の遺跡と図面と解説案内
1田上山 北出丸砦 ★新発見 図面付き
2田上山 北長土橋 ★新検証 図面付き
3田上山 北捨土塁 検証   図面付き
4田上山 北外郭  既知   図面付き
5田上山 主要部  既知 詳細図面付き
6田上山 南捨土塁 検証   図面付き
7田上山 南大堀切 既知   図面付き
8田上山 南出丸砦 ★新発見 図面付き 
★★★当日の参加者に特別の特典!参考資料!
伝説の城郭縄張りの魔術師 長谷川博美図進呈
A3 伊勢 織豊陣城の典型 宮山城完成図面

★質問者
ところで長浜市木ノ本町の田上山城は典型的な
織豊系陣城で羽柴秀吉、秀長方の賎ケ岳合戦の
本陣でもしかしたら角馬出や枡形があります?

★長谷川
図面の角馬出に注目 また藤堂高虎は羽柴秀長の家臣
高虎は角馬出を名古屋城、篠山城、津城などで使った。



★民俗学の長谷川
長浜の木之本と言えば江戸時代は牛馬市で有名です。
轡「くつわ」の森などの名所や牛場市の看板もある。
その木ノ本宿山上田山頂に角馬出がある事が面白い。

◆田上山城A郭現地写真 被写体 多賀 田畑氏
▼直線的で幾何学的織豊系陣城城郭の特徴が明瞭

◆みんな
知ってます!長谷川先生の事まさか貴方は知らない訳?
『滋賀県中世城郭分布調査報告』で長谷川先生とは断然
縄張図のエース級の大活躍されている図面作成書いてい
るのは父銀蔵さんでなく勿論博美さん。滋賀城郭伝説の
レジエント城郭研究家、正に本家本元滋賀城郭本舗の人。
だから滋賀県外から高いレベルの歴史城郭愛好家が集合。

◆反論者
知らない!第一長谷川氏など滋賀城郭研究の第一人者
じやない!著書一冊も出してないズブの素人モグリだ?
第一蒲生氏や蒲生の武家氏族が本当に日野で馬出し作
ったのか?蒲生や日野を過大に評価してはませんか?

▼日野町佐久良城 長谷川博美図 『図説中世城郭』

◆反論者に対する反論者
あなた鈍いわね!蒲生日野は古代より朝廷の狩場と
して大和朝廷の日野牧として栄えて来た騎馬生産地
よ!第一級文献資料『信長公記』を長谷川先生から
学んだ時に本能寺の変後信長の一族女性達を安土城
に救援しに行く武人が日野の蒲生飛騨守と息子氏郷
で牛馬を駆使し安土城の腰越に向かった記載がある
でしよ。本能寺の変の時に信長とともに亡くなった
厩「うまや番」も東近江の大森城を拠点とする布施
藤九郎君保である事を全く理解していません日野は
牛馬の生産地であり当然城郭も騎馬を考慮してます。
だから大森城に「御馬屋敷」や「市場」の地名もあ
る訳よ。信長は藤九郎を高く評価して安土城下に彼
の屋敷を下賜する優遇を加えています。藤九郎の功
は元々蒲生氏郷家系ではない蒲生氏に属して佐々木
六角にも服属していたが信長の八風峠越えを案内し
た優れた東近江武将です大森城きわめて優れた喰違
の虎口なども用いた優れた縄張の織豊系に近い虎口
の城郭遺跡なのですよ!



◆長谷川
昭和62年に刊行の『図説中世城郭』は日野佐久良城
の図面は長谷川博美図です彦根図書館で御確認下さい。
室町期の名将小倉実澄の城にして非常に優れた日野の
城として全国区で発表しても全く劣る城でありません。
チヤント、馬出郭も備えている堅固な城郭と言えます。
この佐久良城よくよく見学すると馬出の外はヤッパリ
二重堀になっています。二重を堀見過さないで下さい。

◆対談者
長谷川先生の遺跡解説の
すごさを目の当たりにする思いです。また先日磯山城
で二重堀切の写真も見ましたがこれも私には衝撃です!
そんなの存在しないと頭越しに否定される人もいますが
写真は真実を白日のもしに映し出しております。

◆民俗学の長谷川
猪(いのしし)の肉を俗語で「ぼたん」その鍋を牡丹鍋
馬の肉の事は「さくら」と呼称されます。さくらを
食べるとは馬肉を食べる意味もある。梅はうぐいす
鹿はもみじ、竹に虎と言うのが古来より定番ですね。
幼名竹千代こと徳川家康が藤堂高虎を採用した事も
興味深い事ではあります。高虎の母も虎とあります。


▼磯山城の二重堀切写真 磯山城=別名 虎ケ城

◆長谷川
藤堂高虎の『藤堂家譜』によると高虎の実父は
虎高として上杉景虎「謙信」武田信虎/信玄父に
使えたとある、この家譜の信憑性は、ともかく
この米原磯山城も高虎の父 虎高に因む城と
して「虎ケ城」の別名を持っている。またこの
城の軍事的規模の壮大さは井伊家が徳川家康に
佐和山城に代わる新城として、磯山、彦根山、
荒神山の3カ所を家康に願い出ていちた全長2㌔
にも及ぶ鎌刃城より男鬼城より佐和山城より
も規模壮大な古城跡で全山に、驚くべき場所
に今でも立堀が要所要所に配置されている。
▼磯山城「北城」その南出丸を結ぶ立堀写真

▼磯山城 二重立堀 弁慶岩の南に相当


◆対話者
どうも私は滋賀の城のカギ城郭分布調査城郭の
構造解説は長谷川先生が謎を握っておられると
長谷川先生こそ歴史城郭の専門家の様に感じる。
国学も歴史民俗学や文献や現地遺跡も含めた人。

◆対談者
そりゃそうよ!だから富山、神奈川、岡山や
愛知、岐阜、大阪、福井からも長谷川先生の
現地遺跡解説を受講しに来訪される訳ですよ。
根本的理由を知らないと理解してないと駄目。

◆メール紹介
長谷川先生の宮山城の白紙に着色する子供の頃
に体験した「塗り絵遊び」ようし!私なら長谷川
先生より美しい着色で仕上げるわと付録A3用紙
への着色の作業を大変に楽しみにしております。

◆長谷川
着色は空間認識力や図面読解力で一種の脳トレ
の意味も含まれます。近年、人間はカーナビの
発達により読図力や地図理解能力は退化劣化し
てる。また貴方が着色の過程において、築城や
平面的築城の深奥に気づかれる機会が必ずある
と確信しております。中世の城職人や武将達の
立ち位置と同じ築城縄張りの奥義を当時の戦国
武将のレベルで仮想体験できる意味が含まれて
ています。余呉城郭研究会では雪による立体の
築城学習や砂型による城郭模型も作り一種城郭
認識能力を高めるエクササイズ「一種の学習」
も試行錯誤してまいりましたこれ全て学究の為。

◆質問者
なぜ長谷川先生は伊勢宮山城の図面を付録
に見学者全員に配布されるその深意を教え
下さいませんか?近江と全く関係ないです!



◆長谷川
宮山城C2の角馬出遺構に注目。田上山城と同じ面積で
典型的織豊系城郭学習教材です。伊勢宮山城は近江出身
の蒲生氏郷の陣城と目される傑出した武人の築城履歴で
す。信長時代は信長の四女の婿として安土城下に信長
の一族の女性を近江日野から安土の腰越へ牛馬を迅速
に駆使して救援に向かう俊敏で果断に優れた武将です。
『信長公記』にると本能寺の変後安土山下に居住して
いた人々は信長一族を護るどころか美濃尾張へ逃走。
当時彼は織田弾正忠信長の「忠」の文字をもらって
蒲生忠三郎と名乗っていました三郎は信長の幼名の
三郎からあやかったものでしょう。とにかく日野は
日野鉄砲あり、日野商人あり、蒲生氏郷と言う戦国
時代の傑物であり商工業に優れた地域と言えます。
近江の蒲生が作る城は必ずヘボな城である訳は先ず
ない。白いA3のコピー図に下図の様に各自で土塁や
堀や段築に好きな色で先ず自分で着色してみて下さい。

◆質問者
最初から着色したカラーコピーを付けて下さい!

◆長谷川
それでは縄張りや城郭遺跡の平面空間を認識する
能力が開発されません!塗り絵をして行く過程で
縄張ってスゴイと実感体感する事が大切なのです。
塗り絵と馬鹿にしては駄目です城郭研究のレッスン
インテリジエント、スボーツ城郭見学と言う世界
を習得する目的で各自塗り絵を楽しんで下さい!


◆城郭見学者
すごい!長谷川先生の発想もさる事ながらこの様な
城郭を設計する近江日野鉄砲工業生産地集団も兼た
要素を強く感じる。正に戦国ハテイクの冴えがある。
蒲生氏郷を出来過ぎの人物として豊臣秀吉はワザと
東北の伊達を牽制する意味も含めて左遷させている
事は蒲生氏郷は信長の娘冬姫を娶って、義父信長の
偉業を継承できるだけの胆力、実力、優れた家臣団
構成と日野商人を抱える非常に俊英英傑と言える人物。

◆長谷川
各自自分で工夫して着色してみる。
Aの赤区画が内輪にして本丸主郭に相当する。
Bの黄区画が外輪にして二丸副郭に相当する。
Aの東を強固な横矢で守備するC1郭に注目。
またB郭から出撃に利便性のあるC2、C3の
馬出機能郭、更に左翼を守る最外郭D1
やD2の横堀なども検討して見ましょう。


◆一般者
長谷川先生!私孫ちやんの色ペンを借りて自分で彩色
してみました。彩色してみると紫色の場所の馬出しが
解ります。色を塗る過程で私は勉強し学習しましたよ
色を塗ってる知らない間に城郭縄張りの繊細さに驚き
ました戦国時代の武将達や城作り職人の凄腕が解った。
そして私も思ったんです。長谷川先生は噂に聞いてる
日本一の縄張図を書ける人で藤堂高虎その他の武将等
などの人財に等しい滋賀の産んだ凄腕の城郭研究家と
それに一般の滋賀人は全く気付いてない県外人だけ!

◆長谷川
過分の御世辞は御遠慮下さい!私の城郭の先生とは現地
の城郭遺跡その物を世評や世の中の風説や誘導には惑わ
せれる事なく率直純心な少年の心で真面目に観察する事。

◆長谷川
天正11年賤ケ岳合戦で柴田勝家が玄蕃尾城南北に構えた
馬出郭も再度長谷川のイラスト図を見て置いて下さい。
柴田は織田軍団の重鎮で当然、織豊系城郭や二基の馬出
も普請工事しております。この様に、遠方の城を相互に
考察する事を城郭比較研究や比較研究論とも言います。
勿論北伊勢方面の柴田方に味方し峯城も馬出しがある。

◆対談者
地域限定の人々だけが集合する史談会や地域歴史講座
は地域住民の結束や町興しには有利有意義ですが歴史
や城郭を全国規模で真摯に学ぶ機会が少なく郷土史的
な地域限定的近視眼つまり灯台下暗し的になる欠点も
あります長谷川先生のスキルや学習研修を求めて来ら
れる人々はある意味「地域まつり」さんではなく「全
国的」歴史城郭の視座の立ち位置にあるグロバール派

◆▼三重 宮山城 蒲生氏郷系の武将が築城
Ⅰ段階

◆反論者
何が長谷川図だよ!生意気なんだよ素人のくせによう!
この図面しよせん中学生ていどの塗り絵に過ぎんだろ?
何が神の領域の縄張図だ!縄張の魔術師じや笑わすわ!

◆対談者
それが浅はかと言うもの、愚かと言うもの城郭遺跡を
ただの町おこしの日常茶飯事の集合場所と軽んじてる
証拠ではありませんか?日野鉄砲も、堺の鉄砲にしろ
近江長浜国友の鉄砲にしろ戦国期の工業技術で最新の
超ハイテク技術と言うもの織豊系陣城と目される名城
伊勢宮山城が生半可な城であろうはずがない生半可な
のはボーット生きてるアンタでぼーつと生きてんじや
ねえよ!!ありや「ちこちやん」みたいな言動です!

◆長谷川
冗談は楽しいのですが人の趣味や生き甲斐を批判する
事は極力避けましょう。世の中様々な趣味や生き甲斐
価値観が存在し互いに相互に認め合い尊重する事です。
たしかに伊勢宮山城とは工業や土木現場や城郭遺跡の
構造として寒気をもよおす程にハイテクで高度な戦国
築城技術が凝縮された高度な工業デザインと言えます
現代で言うならばGマークのグッド、デザイン賞とも
言える高度な縄張技術が潜在している事は現実ですよ。
▼Ⅱ段階
▼Ⅲ段階

▼Ⅳ段階

◆すげええ!超弩級の戦国測量技術にぶったまげだ!
近江が生んだ城郭少年、、長谷川先生ってスゴイわ!

◆長谷川
冷静によく考えて下さい。私は講師として学術家と
して全く人気知名度が限りなくゼロに近い人間です。
しかし戦国城郭とは恐ろしく幾何学的で高度な現実
と私は言ます。私の城郭の先生は人間ではなく現地
の城郭遺跡で現地を純粋に見学する少年の心のまま!
如何に文字歴史城郭学んだとて本当の城跡から500
mも離れた観光創作歴史名勝地の観光看板に感激し
感動し私は本物の本格派の歴史愛好家だと豪語する
人も世間には存在されます。観光と遺跡直視は分野
が異なるジヤンルが異なる学門分野が根本的に違う。

◆質問者
さては何ですか?まさか日野の蒲生氏郷も会津若松
城では馬出を複数普請した織豊大名的城を作ってる?



◆長谷川
織豊系大名の蒲生氏郷で当然会津若松城は類似します。
また城とは測量により計測工業デザインされた縄張!
決して自然地形でなく人為的に設計された土木工事!
▼直線長谷川挿入!城の設計解釈は従来既知と異なる


◆長谷川
蒲生氏郷の義父で氏郷の妻の父の織田信長も安土城
このようにデザインしている事を認識して欲しい。
縄張は本来曲輪の配置つまり城のレイアウトの意味。
現代の歴史城郭研究は全くこのレイアウト論つまり
美術史における絵画の基本構図を全く採用してない。
物を設計デザインする時には必ず基礎構図が不可欠。

▼長谷川博美 安土城ビスタ工法論より
◆質問者
城を作る時の縄張りと言う文言は?

◆長谷川
『朝倉築城記』には縄打と言う文言
があり偽書と呼ばれる『武功夜話』
には安土城に縄入りと言う文言が
ありますが、、私は後者を信用し
ておりません文献と物語は異なり
ます。『武功夜話』とは元来この書
を『武功夜話改題』と改めた注釈書
を文献史学者が整備すべき書物です。
そもそも文中にある「気宇壮大」と
言う四文字熟語を400年以上前の人
は使わない。その段階でアウトです。
仏典に「気宇」と言う言葉はあるが、

◆長谷川
私の師匠は人間の言葉や文言ではなく現地の現物、
唯物の城址の現実で測量観察する事。現地の城郭
は決してウソや偽りを軽率には言わないものです。
私は素直に純朴に現地遺跡をあるがまま見学する。
蒲生氏郷も宣教名リオン高山右近も宣教名ジュスト
織田信長もしきりに宣教師から海外事情を傾聴致。

▼天正11年キリシタン大名洗礼名ジュスト高山右近岩崎山砦
▲南からの計測点
▼北からの計測点



◆長谷川
多賀の田畑さんを見くびっては駄目ですよ!この人は
ただものではありません。城に対し深い造詣がある人。

←田畑理事

◆長谷川
昨年田畑さん報告を受けて氏郷の郷里蒲生郡
日野町に全く未知の城を発見し是を実測しま
したがその規模200m級の城郭遺跡ですしかし
宮山城やこの未知の城に行きましょうと私が
献策して誰一人として行こうと賛同されない。
私と言う城郭研究家は誰からも相手にされて
いない世間や社会の冷たさが身に沁みますよ。
この城郭も伊勢宮山城の様に隅を廻したり、
出隅にしている特徴が認められるのですが、
またいずれの機会に伊勢宮山城やこの城に
も是非有志と行きたいと考えています。でも
私は人気ゼロまた米原城歩会の活動に怒鳴り
込んで来て学門を阻害する連中も現実に居て
スパイもいて見学は無理と言うもので本当に
落胆します。これも私に純朴純粋な学門的な
研究家の精神研究家の資質はあがるが一般的
社会認知度が極めて低い人気が無い証拠です。

◆長谷川
さてさて話はボヤキでは終わりませんよ。近江地域
に名築城家や建築作事に精通した人材伝説が集中!

近江国
坂田郡  小堀遠州 作庭家  茶人大名 千利休の高弟
旧坂田郡 現彦根市鳥居本  百々三河守 高知城の縄張者
旧犬上郡 佐和山城主 信長、秀吉家臣 丹羽長秀安土城普請奉行
     佐和山城主 信長、秀吉家臣 堀秀政が駐留した城居
▼堀秀政治 当時は佐和山城主 堀秀政が余呉町東野の築城した
      東野山城角馬出が存在し食違い虎口もある傑作名城。

犬上郡 彦根 明智光秀の元小納戸役で徳川井伊藩の目付役
    木俣木俣土佐守 彦根城西の丸三重櫓▲ 山崎丸三重櫓

▲左手には馬出郭が今も現存する。彦根城模型 西の丸
三重櫓は左の人質郭馬出虎口を視認狙撃する巧妙な縄張

犬上郡 男鬼城 謎の超巨大中世城郭にして現代の人々を
    も震撼させた。一説に河原豊後守築城伝説がある。

写真③を参考にして下さい「関西城郭研究会の兵庫講演」
犬上郡 多賀 佐目 名築城家 明智光秀伝説

◆当然佐目の城にも堀切や馬出状遺構が存在する。

犬上郡 甲良 在士 名築城家 藤堂高虎
▼藤堂高虎の三重県 伊勢津城 東の丸 西の丸は角馬出


犬上郡 河原豊後守こと甲良豊後守 日光東照宮造営
蒲生郡 蒲生氏郷 伊勢松坂城 会津若松城 築城家
このように築城作事に秀でた技術集団や名人達が
ひしめいた戦国技術者達の回廊が近江に存在する。

◆城郭見学者
しかし伊勢宮山城まるで近世城郭の会津若松城の
祖形とも言える非常に秀逸な城郭遺跡であり全国
屈指の城郭とも言えます。

▼城郭調査に奮闘する田畑氏

◆対談者
長谷川先生を未だに賞賛する有識者は
関東にも未だに多くいる何故なのか?
それは信長が蒲生氏郷や明智光秀等の
能力を洞察する力量慧眼を備えていた
からだと思います。知る人とぞ知る人。



◆中日新聞


◆長谷川博美 過去写真 写真③


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15 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-02-19 17:48:22
天気予報で積雪は予想していましたが、中止じゃなくて延期でよかったです。
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Unknown (長谷川博美)
2021-02-19 20:37:21
過度の積雪は人の行動を阻害します。しかし5㎝の残雪が田上城の5㎝の堀切に残っていれば、普段草木繁茂して見落とす5㎝の堀跡が雪によって浮かび上がって参ります。この5㎝を見落とす、または全く最初から見落とす精神の城跡見学者や研究家は全く将来伸びシロがないと人々と言えます。人間の学習や研究は昨日より今日、今日より、明日や未来へ進歩進捗すべきものでしよう。私はこう結論付ける定義すると言う固定概念な言葉や文字だけの学門や研究だけでは停止してしまいます。人間は意識改革するイボリューションつまり進化して行くものではないですか?我々は純心な精神で城址を不遜に解った顔して侮る事よりも心を謙虚に城の真の先生や教師は現地の城郭遺跡である事を念頭において必死に有意義な城郭見学学習を目指しましょう。貴方の向学心ある積極的なコメントに深く感謝を申し上げます。私は城を侮る人より城に対して真摯に謙虚に誠実に対峙する人を好みます。
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Unknown (Unknown)
2021-02-19 20:42:00
投稿内容に一種の感銘や驚きを覚えました、そして素朴な城址研究への向学心の追求また真面目で純粋素朴さが見え隠れして好感が持てまる内容になっています。
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Unknown (マンティコア)
2021-02-19 21:15:45
なるほど行楽とは別の向学が含まれているんですね?
城郭見学は身体と頭脳のスホーツ「インテリジェント、スポーツ」つまり智的体育と言うことに7なるのですね?
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Unknown (Unknown)
2021-02-20 13:55:21
研究家としてスゴイ実力です。また歴史城郭を語る切口も広範囲かつグロバールで広い視座を持っておられる正統派の研究城郭家さんだと確信致します。
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Unknown (Unknown)
2021-02-21 08:33:42
投稿内容がスゴイと思います。改めて長谷川さんを認識いたしました。また長谷川さんの城郭解説に聞く耳もつ方々は賢者と拝察いたします。
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Unknown (Unknown)
2021-02-21 21:14:21
タイトルは平凡なのに書いておられる内容は繊細にして壮大です。一般の人々と考え方ゆや切口が全く違う、でもその的は全く外しておられない、研究家としての資質や正統性や誠実さも強く感じます。貴方に気付いた方は立派な人々だと感心致します。
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Unknown (Unknown)
2021-02-22 20:19:22
長谷川さんの図面が欲しい。とくに田上山関係そして伊勢宮山城の図面もゲットしたい最近『滋賀県中世城郭分調査報告書』買いましたけどやはり長谷川さんは学術家としての要素が強い。城を勉強したい人は長谷川さんです。
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Unknown (Unknown)
2021-02-23 03:52:23
此の投稿を再読するたびに凄い興味深い歴史観察眼が光彩を放っていて大変興味深く読ませてもらってます。
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Unknown (Unknown)
2021-02-23 06:32:20
連鎖思考の結節性、比較研究の柔軟性、文献読破咀嚼力や解釈力、遺跡認識実測能力、図版作成能力その総合統合性には目を見張ります。何気なく挿入されている写真も実に意味が深く城郭研究史の現実や含蓄があります。ただ惜しい事に長谷川さんの論は一般社会では一般人の人は幅広い知識や比較研究力は備えておられず、長谷川さんを理解できる人々はかなりストックな本格学究肌的な一段歴史の真実に詳し極少ない人々と思われます。た長谷川さんを買っているいる人は相当な有識者にして博学の文化人であり優秀な人々と推察致します。そうでないと長谷川さんのブログ内容の素晴らしさや歴史の中に埋もれているヒントを看破できないと思います。長谷川さんの深さを益々解った人と、その深層を理解できない二派に別れるかもしれたせん、何れにしても人々集いたる時は楽ではなく学に向かう向学精神を世の人々が備えて欲しいと願います。
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