城郭 長谷川博美 基本記録

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衝撃! 三河本證寺VS山科本願寺 比較研究論

2023-02-26 21:43:02 | 東海の城 ビイスタ工法

衝撃! 三河本證寺VS山科本願寺 比較研究論

◆対談者

最近長谷川先生の城郭ビイスタ

論が猛烈な支持を受けていると

巷の噂で聞き及び驚いてます。

 

◆長谷川

何かの間違いではありませんか?

私は

  肩書=ゼロ

  著書=ゼロ

  人気=ゼロ

  仕事=ゼロ

  知名=ゼロ

と最低レベルの研究家です。

 

◆一般者

でもブログの人気ゼロでも

ビイスタ動画は5779人突破

し全国の城の研究家が注目!

令和にこれ知らないと駄目!

 

◆質問者

賤ケ岳合戦の前田利家陣城と

伝承される余呉別所山陣城に

ビイスタ工法は存在します?

 

◆長谷川

以下の形状のビイスタ工法

で築城されております。

 

 

◆長谷川

加賀一向一揆の布教拠点とされた

尾山御坊は後に前田利家によって

金沢城へ改修されました尾山御坊

時代の縄張は今のところ不明です。

◆反論者

放射状に城や寺院を縄張した

など私は学んでません否定!

◆長谷川

江戸時代には放射状に城郭

を測量していた事は確実!

▼長谷川 ビイスタ工法一覧表

 

◆長谷川

織田信長の安土城ビイスタ

扇型ビイスタ工法で築城!

◆質問者

天文期に真宗中興した蓮如上人

の山科本願寺城ビイスタある?

 

◆長谷川

山科本願寺の縄張は近世城郭

平城よりも100年早く発達した

非常に高度な真宗教団の城郭

▼山科本願寺 各種ビイスタ

 

▼山科本願寺 航空ビイスタ

▼山科本願寺 重複型ビイスタ

 

◆質問者

三河一向一揆の拠点城郭として

本證寺(ほんしょうじ)の寺院

城郭に城郭ビイスタ存在するか?

 

◆長谷川

真宗の『天文日記』に登場する

ような「城つくり」職能集団や

高度な縄張技術が存在した事と

思います。何故ならば主郭曲輪

が正方形の形状を呈してない事

 

◆反論者

ふん!城郭ビイスタなど絶対に

ありやあせんわ!ビイスタ論な

はウソに決まっておろうが!

 

◆一般者

長谷川先生!分析解説を切望

致します。是非御教示下さい。

 

◆長谷川

本堂も庫裡も北土塁も全て

お扇型ビイスタ工法築城を

用いております。

 

◆長谷川

土塁遺構方面からも上図と

対象的な扇型ビイスタです。

◆みんな

城郭ビイスタ論すご過ぎます!

 

◆質問者

外堀つまり外郭にビイスタは

存在するのか?

 

◆長谷川

本證寺(ほんしょうじ)の寺院

城郭はビイスタ工法と明言可能

 

▼美しいビイスタ工法の存在!

◆みんな

すげえ!完璧なビイスタ工法だ!

◆質問者

他に相対型ビイスタの存在は?

◆長谷川

この様に赤と青の腺で構成され

ております。本堂と庫裡の間の

堀が「現在地」が何故傾斜して

歪に掘削されたのかビイスタ論

を用いると初めて理解可能です。

 

◆質問者

地内の外から、つまり全体の

縄張ビイスタは存在するか?

◆長谷川

寺院の四周からつまりこれは

玄武、朱雀、青龍、白虎四神

相応に家相学や風水にも適合

した巨大寺院城郭遺跡です。

▼赤 北ビイスタ

▼黄色 南ビイスタ

 

▼西ビイスタ

▼全ビイスタ

 

 

 

以下ウイッキペデイアより引用します。

本證寺(ほんしょうじ)は、愛知県安城市野寺町

にある真宗大谷派寺院山号は雲龍山。野寺御本坊

とも呼ばれる。

特色[編集]

安城市南東部に位置し、周囲には善證寺宗玄寺

金襲寺などの寺院がある。上宮寺勝鬘寺と並んで

三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代に

三河一向一揆の拠点となった。こうした経緯から、

鼓楼土塁を備え、水濠に囲まれた城郭寺院(城郭

伽藍)となっている。また、書院は親鸞が泊まった

際に、天井裏まで雨漏りがしていたのに、部屋まで

は漏らなかったという伝承が残されており、

「雨もり御殿」と言われている[1]

城郭関係書籍などでは、本證寺城として言及される

こともある。「本証寺」「本証寺城」と表記され

ることもあるが、寺号の表記は本證寺が正式である。

寺域は約33,000m2である。

歴史[編集]

1206年(建永元年)頃、親鸞門侶の慶円により開創。

三河国の一向宗の3か寺として、『三州一向宗乱記』

には「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、一向宗の

小本寺にて、守護不入の道場、当国三箇寺の其の一箇

寺なり」と記載されている。1549年(天文18年)の門徒

連判状に武士門徒115名が署名しているなど、その当時

における本證寺門徒団の三河地方での一大勢力ぶりが

窺える。三河一向一揆では、上宮寺勝鬘寺と並んで

一揆の拠点となった。『三河物語』にも「野寺之寺内、

土呂・鍼崎・野寺・佐々き(三河四ヶ寺・一向一揆の主力)

」などとして登場する。一向一揆は1564年永禄7年)の

小川の戦いで敗れ、当主の空誓上人は逃走したため、一時

は廃寺となったが、1663年(寛文3年)までには再興したと

されている。


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