城郭 長谷川博美 基本記録

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近江 大谷吉継  伝説の背景を考察する。

2020-03-13 08:42:35 | 戦国武将
近江 大谷吉継 伝説の背景を考察する。

質問者
何故米原市に大谷吉継伝説が生まれたのでしょうか?

長谷川
江戸時代初期に編纂された『淡海温故禄』には
長浜市余呉町小谷「元は大谷に古くは評した」
米原より太田谷「余呉町行市山山麓小谷側」に
一族が移住してこの谷を開削した伝承が記され
ております。ですから近江大谷吉継出身説だと
思われます。▼米原市下多羅の大谷吉継首塚
質問者
米原に大谷地名伝承が残っていますか?
長谷川
旧坂田郡近江町西円寺の小字に大谷があります。
質問者
その大谷地籍には城郭遺跡が残っていますか?
長谷川
小字大谷は米原市西番場の神事原にちかい所
に土塁や水堀の跡が残っております。
質問者
米原には他に大谷の伝承が残っていますか?
長谷川
米原西町から急峻な太尾山を越えて件の大谷
に到る道を「大谷道」と言った伝承が残って
います。太尾城南の北堀切から東に下って
行くかっての山道の跡です。
質問者
その大谷は文献に登場致しますか?
長谷川
『妙意ものがたり』と言う伝承記録には
今井氏の大谷館の様子が記されています。
国人今井氏や坂田郡の嶋一党や岩脇氏の
活躍を中心に記録しております。しかし
大谷一族に記録は一切ありません。恐ら
く早く坂田郡米原近辺大谷近辺から越前
と近江国境に近い小谷「大谷」に移住した
と推定されます。
質問者
この中多羅の大谷吉継の首塚は彼の友人
石田三成の辞世にある筑摩江に近いです
か?
長谷川
治部少輔の辞世は
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
 ともに消えゆく 我が身なりけり」
です。ともに消えゆくとは友たる
吉継の事を暗喩しているのかも?
三成は生前佐和山城で吉継と関ヶ原
準備会議を開いていますからね!
質問者
太閤秀吉は石田三成に彼の故郷たる
佐和山近辺を恩賞として与え故郷に
錦を飾れるように配慮したのですか?
そうすると太、閤秀吉は近江よりも
越前に近い近江大谷「余呉小谷」の
出身の大谷吉継に越前敦賀城等を
故郷に近い領地として吉継に与え
たと考えた方が自然である思います。
長谷川
まあ歴史の真実現実は解りませんが
筑摩江とは、筑摩内湖干拓地に今は
変わり果てておりますが、筑摩江と
言う言葉自体が古歌によく登場する
度の歌枕と言う事で感慨深いです。

あふみにかありといふなる三稜草
(みくり)くる人くるしめの筑摩江
(つくまえ)の沼(後拾遺644)
【通釈】近江にあるとかいう、
三稜草を手繰る筑摩江の沼――
なかなか根が見えず人を苦しめると
いうその水草のように、逢ってくれず
に私を苦しめるあなたですよ。
【語釈】◇あふみ 国名「近江」に
「逢ふ」あるいは「逢ふ身」の意を掛
ける。◇三稜草(みくり) 浅い池や沼に
生え、水中を縄のように漂う。◇筑摩江
の沼 近江国の歌枕。琵琶湖の東北に
あった沼かと言う。滋賀県米原市に
筑摩の地名が残る。
【補記】古歌に詠まれた歌枕を言わば
呪物として、逢瀬を拒む女に恨みを言っ
た歌。「みくりくる」は同音の「くるしめ」
を導く序のはたらきをするが、参考歌に
見られるように、三稜草は手繰っても
なかなか根が見えない植物なので、「寝」
てくれぬ相手への恨み、また「そこひも知らぬ」
苦しみといった多義的な意味を籠めている
と思われる。
【他出】道信集、後六々撰、五代集歌枕、歌枕名寄
【参考歌】作者未詳「古今和歌六帖」
つくま江におふるみくりの水ふかみまだねも見ぬに人の恋しき
  藤原伊尹「一条摂政御集」
つくま江のそこひも知らぬみくりをば浅きすぢにや思ひなすらむ


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1 コメント

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Unknown (著者)
2020-03-14 08:30:00
良いね2名様
ほかありがとう
ございます。
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