大河ドラマ麒麟が来る 信長と道三の会見の感想
やはり斉藤道三を演じる、本木氏の演技が冴えた。
道三は娘婿信長を経営者として戦略家として大い
に高く評価する描かれ方がされた。信長が村木砦
で鉄砲を効率よく射撃する新しい時代の武将とし
て描かれてていたが大切にしていた直属の家臣
達の死骸を見て涙する青年期信長の多感な感情や
現実がよく『信長公記』を参考に描写されていた。
信長の一代期『信長公記』に以下には村木砦で
信長の鉄砲使用も含めて斉藤道三は娘婿の信長
の鉄砲を使った奮戦を以下の如く絶賛している。
『信長公記』
村木の取出攻められしの事より
「山城が申す様に、すさまじき
男、隣には、はや成人にて侯よと、
男、隣には、はや成人にて侯よと、
申したる由なり。」
現代的に解釈するならば
「娘婿の織田信長とは、凄い男だ!
美濃の隣国の尾張の織田信長とは、
はやくも一人前の優れた武将とし
て成人している!」
と娘婿信長を絶賛する舅斉藤道三の声!
道三が信長の電光の様にスパークする
激しい新しい時代の信長の戦闘様式を
伝え聞き驚嘆している様子が解るのだ。
斉藤道三が織田信長絶賛した
場面しは
『信長公記』の村木城の条に以下如く
描写されている。すさまじき男、信長
とは1554年(天文23年)、合戦で初めて
鉄砲を使い「今川(義元)軍」に勝利した
「村木砦の戦い」
「一、正月廿四日払暁に出でさせられ、
駿河衆楯籠り侯村木の城へ取り懸げ、攻
めさせられ、北は節所手あきなり。東は
めさせられ、北は節所手あきなり。東は
大手、西は搦手なり。南は大堀霞むばか
り、かめ程にほり上げ、丈夫に構へ侯、
り、かめ程にほり上げ、丈夫に構へ侯、
上総介信長、南のかた、攻めにくき所を
御請取り侯て、御人数付けられ、若武者
御請取り侯て、御人数付けられ、若武者
ども、我劣らず、のぼり、撞き落とされ
ては、叉あがり、手負死人其の数を知らず。
ては、叉あがり、手負死人其の数を知らず。
信長堀端に御座侯て、鉄炮にて、狭間三ツ
御請取りの由仰せられ、鉄砲取りかへ取り
飼え放させられ、上総介殿御下知なさ
るゝ間、我も貼と攻め上り、塀へ取り付き、
るゝ間、我も貼と攻め上り、塀へ取り付き、
つき崩しつき崩ししき崩し」と若き信長の
鉄砲の連続射撃のすさまじき様を描写して
いる事にある。
対談者
この投稿少しも城郭に関して書いておられ
ませんね?
長谷川
そんな事ないですよ?城もよく見る事!
文献もよく見る習慣をつける事が大事
です。上記『信長公記』の村木砦の事
は1554年(天文23年)の事だと判明し
ています。この頃の城に挾間や鉄砲が
本当に存在したのか?疑問に思う歴史
学者がおられますが、 この資料には
狭間が3箇所、そして鉄砲の連続発射
と言う驚くべき近世の時代の幕開けの
記述が生々しく記録され織田信長なる
人の革新的な人物像が描写されている
のです。この村木砦の話を聞いた道三
が娘婿信長を「すさまじき男」と絶賛
している事でも道三の人を見る洞察力
が解ります。また道三と信長が対面す
る前に次々に信長「うつけ者」馬鹿説
が美濃に入ってきますが道三は世間が
口をそろえて「うつけ者」と言う場合
は決して「馬鹿者」ではないものよと
と家臣を諫めております。おそらくは
道三、中国の軍書『六韜三略』等を読
み「聖人行くところ、常に愚行あり」
の文言つまり、馬鹿に見せかけ大略
を密かに秘める人物と、信長を見て
いる。道三と言う最初の帰蝶の婿を
虫けらの如く毒殺したと思えば次の
婿信長を見て是は凄い武人だ経営者
として傑出していると冷徹に判断す
る人間の性や恐ろしさも感じます。
道三から見て信長を味方に付けて
美濃の安泰を計る計画なのですが
はたして信長自分の鑑定した人間
像よりも数段優れていた事に驚愕
している事になります。すかさず
道三は尾張に援軍を派遣してます。
美濃斉藤道三と織田信長盟約とは
戦国大名の縁組婚姻政策で成立っ
もの簡単に言えば隣国と縁組によ
り近交策と言えます。後に信長は
美濃を占領し近江江北の浅井長政
と婚姻政策を取り浅井氏を政略婚
の同盟者として信長が認識してい
た事は次の『信長公記』の金ケ崎
の件でも明確に判明致します。
「江北浅井備前、手の反覆の由、
追々、其の注進侯。然れども、
浅井は★歴然御縁者たるの上、
浅井は★歴然御縁者たるの上、
剰へ、江北一円に仰せ付けら
るるの間、不足あるべからざるの条
、虚説たるべしと、おぼしめし侯
ところ、方々より事実の注進侯。
是非に及ばざるの由にて、
是非に及ばざるの由にて、
金ヶ崎の城には、木下藤吉郎
残しをかせられ、」とあり
織田信長は妹婿の浅井長政を
「★歴然御縁者たるの上、
剰へ、江北一円に仰せ付けら
るる」と表現しています。
信長から見れば浅井長政は
賢い人物、北近江の安泰も
約束している、そんな長政
が裏切るハズが無いと虚説
つまり、ウソやデマだとぞ
信じない信長の人間観察の
甘さが、露呈しております。
最も信長はその人生におい
て浅井氏、足利義昭、荒木氏
別所氏、松永久秀、最後には
明智光秀に裏切られると言う
事になります。当時謀反反乱
は日常茶飯事合戦も盆正月も
関係のない乱世だったのです。
後世に書かれた 『老人雑話』は
明智光秀の言葉を以下の如く伝える・
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘
を武略と言う、百姓は可愛きことなり」
意味は「仏の嘘も武士の嘘も許される
のに、年貢をごまかした百姓だけを罰
するのはおかしい。百姓の嘘など可愛
いものではないか。」と言っている事。
仏も武士も〇〇も平気ウソを言う時代
現代の令和の世相でもあり真に悲しい。
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