美濃国府跡見学と日本の漢字文化と吉備国
※美濃国府跡跡
美濃国の史跡に強い憧れと、尊敬を元来抱いている私は以前から訪れたかつた美濃の国府を1人訪れました。
美濃の国の中心の役割をはたす官庁があった場所とは如何なる場所か?考えるだけで私はワクワクしてきます。
美濃国府跡(みのこくふあと)は岐阜県不破郡垂井町府中に所在する古代の官衙遺跡で 濃尾平野の西端にあり
東西を川に挟まれた微高地上に位置する。律令制下の美濃国の中心また不破の関を管轄する役割のあった施設。
写真は現地案内より
※魅惑の府中地名
巨大な大国の武蔵国府中遺跡にも強い関心と憧れを持っていますが、私は府中地名がある場所に行くと強い
興味と関心を抱きます。美濃国の府中の雰囲気とは如何なるものか?当時の社会や府中の人々の事を想像する
と感慨深いものがあります。
写真は現地案内版より
※長い古墳時代の終焉
日本各地には古墳を築造する葬祭の時代が概略3世紀から6世紀まで長く続きまたしたが文字を全を使って
政務を記録する国家体制や「薄葬令」古墳を作らない法令が出来ると、やがて古墳の時代は終焉を迎えます。
※りつりょうこっか(律令国家)体制
律令を制定して統治の基本とする国家。中国の隋、唐で確立し、朝鮮をはじめ周辺諸国に波及しました。日本
では七世紀中頃形成され、大宝律令の成立で完成し整然とした官制の下、多くの漢字の読み書きが出来る人の
官僚がこれに従事し、班田収授により人民に一定の耕地を給す代わりに、租・調・庸・雑徭などの税を課して
日本の事務的及び実務的な管理を推進します。荘園制の進展などにより公地公民制が破綻する10世紀頃まで
律令の時代がつづいたとされてます。
※漢字を使う人々と古墳葬送に従事した人々の明暗
日本は現在でも漢字を使う国として漢字の本家の中国よりも漢字を長く使う事になりました日本の神話や古典
『古事記』『日本書紀』の原文は全て漢字で記されています。令和の年号の引用原典となった『万葉集』も漢字
の羅列です日本の古い神社を記した『延喜式神名帳』や祝詞も漢字で記されています。例えば純日本文学の歌集
とされ令和の年号の元となった万葉集の以下の原文を現代日本人が読めますか?また一方で、古墳を作る作業や
古墳に関わる葬祭を担当し職業として従事していた氏族は衰運を迎えたと考えられています。
梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
なのですが現代日本人からみたら漢文調であり現代人には理解し難い、しかもこの詩の原典
が中国・東晋の政治家・書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」
が元ネタや、下敷きに、なっていると言われていおります。つまり、漢文、漢学、の文化です。
※古代において文字の読み書きも和語「倭語「やまとことば」も話せ人々とはだれか?
古墳の中からも既に額田部「ぬかたべ」の文字や雄略天皇を意味する文字が発見されていますが『新撰姓氏錄』なる
書物を一度御覧下さい。多くの氏族がその先祖を中国や朝鮮から日本に来た事を人々を先祖として、記しています。
当時のの日本の貴族の子弟は学門として漢学を学んでいた事でしょうが先祖から受継いだ、漢字、暦法、方学風水や
灌漑に用いる水田を潤す灌漑池の築堤技術や築都、築城、や寺院や仏像や仏典、等に精通した当時のエリート集団
とも言えると思います。現代においても日本人は元号や漢字を使っております。
※吉備国の事
吉備国とは、後の令制国では備前国・備中国・備後国・美作国にあたる広大な国。 後代は、単に吉備といえば美作
を含めないことが多かった時期もあった。 現代では備前・備中・美作(つまり岡山県の別称)を指すか、備前、備中
、美作、備後(岡山県と広島県東部)を指して使用される。律制の国では(備前国/備中国/備後国/美作国)に相当する。
吉備国(きびのくに)古代日本の地方国家ながら。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(
佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有巨大な勢力 別名は吉備道(きびのみち、
きびどう)備州(びしゅう)とも言われますが、なによりも私が関心ある事は吉備が大和型の古墳に使われる円筒埴輪
の元祖ルーツである。特殊器台形土器に魅力を感じます。
★質問者
当時の中国つまり唐の時代の文官の服装とはどの様なものでしょうか?
長谷川
私は詳しくは知りませんが唐の文官は写真の様な「文史」の服装だったと私は推測します。
★質問者
唐の文官が手に持っているのはコンビニ便利店の菓子パンどすか?美味しそうどすな?
長谷川
当時の中国の文官を象徴する笏「しやく」だと私は思います。中国読みなら「コッ」です。日本では朝廷の公事を行う時、
備忘の為に式次第を笏紙(しゃくがみ/しゃくし)という紙に書き笏の裏に貼って用います。後に重要な儀式や神事に際して
、威儀を正すため木笏をに持つようになります。
★質問者
唐の時代の文官(文史)はまるで聖徳大使の親戚の(おっちやん)みたいですが?
長谷川
貴方の感性柔軟で素晴らしいと思います。なぜなら当時の東洋文化はグローバル化が進み漢字文化が日本にも
伝来し波及した事を思わせる内容です。また平安時代の神社の神像も時に、笏を持っている事や神社の狛犬の文化
の起源も古代オリエント、古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角を持つ。邪悪を避けるといわれる避邪も韓半島
を伝播して日本には狛犬「こまいぬ」として日本に伝来し継続した文化と言えましょう。
★質問者
長谷川先生、会話が飛躍し過ぎていませんか?中国の唐時代の中国語など日本人は話せませんよ?
長谷川
阿倍 仲麻呂(アベノナカマロ)と言う優秀な日本人がおります。彼は文武天皇2年〈698年〉から 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生で姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫アベノヒラフの孫。中務大輔ナカツカサノタユウ・阿倍船守アベノフナモリの長男。 唐名での名前は「朝衡/晁衡」(ちょうこう)です。唐で国家の試験に合格、唐朝で諸官を歴任し、高官になり
日本へは帰国できず中国で亡くなっています。 唐の大学で学び科挙に合格し唐の玄宗に仕えた。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文化系の役職を務めた当時の国際的「超」エリートの文官です。天平宝字4年(760年)には鎮南都護・安南節度使(正三品)になりベトナムに赴任し総督を務めます。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間ハノイの安南都護府に在任、天平神護2年(766年)安南節度使を務め最後は潞州 ろしゅう 大都督(従二品)を贈られ日本に帰る事はなく宝亀元年(770年)73歳で中国で亡くなった国際的に活躍し語学に精通した人物です。
※美濃国府跡跡
美濃国の史跡に強い憧れと、尊敬を元来抱いている私は以前から訪れたかつた美濃の国府を1人訪れました。
美濃の国の中心の役割をはたす官庁があった場所とは如何なる場所か?考えるだけで私はワクワクしてきます。
美濃国府跡(みのこくふあと)は岐阜県不破郡垂井町府中に所在する古代の官衙遺跡で 濃尾平野の西端にあり
東西を川に挟まれた微高地上に位置する。律令制下の美濃国の中心また不破の関を管轄する役割のあった施設。
写真は現地案内より
※魅惑の府中地名
巨大な大国の武蔵国府中遺跡にも強い関心と憧れを持っていますが、私は府中地名がある場所に行くと強い
興味と関心を抱きます。美濃国の府中の雰囲気とは如何なるものか?当時の社会や府中の人々の事を想像する
と感慨深いものがあります。
写真は現地案内版より
※長い古墳時代の終焉
日本各地には古墳を築造する葬祭の時代が概略3世紀から6世紀まで長く続きまたしたが文字を全を使って
政務を記録する国家体制や「薄葬令」古墳を作らない法令が出来ると、やがて古墳の時代は終焉を迎えます。
※りつりょうこっか(律令国家)体制
律令を制定して統治の基本とする国家。中国の隋、唐で確立し、朝鮮をはじめ周辺諸国に波及しました。日本
では七世紀中頃形成され、大宝律令の成立で完成し整然とした官制の下、多くの漢字の読み書きが出来る人の
官僚がこれに従事し、班田収授により人民に一定の耕地を給す代わりに、租・調・庸・雑徭などの税を課して
日本の事務的及び実務的な管理を推進します。荘園制の進展などにより公地公民制が破綻する10世紀頃まで
律令の時代がつづいたとされてます。
※漢字を使う人々と古墳葬送に従事した人々の明暗
日本は現在でも漢字を使う国として漢字の本家の中国よりも漢字を長く使う事になりました日本の神話や古典
『古事記』『日本書紀』の原文は全て漢字で記されています。令和の年号の引用原典となった『万葉集』も漢字
の羅列です日本の古い神社を記した『延喜式神名帳』や祝詞も漢字で記されています。例えば純日本文学の歌集
とされ令和の年号の元となった万葉集の以下の原文を現代日本人が読めますか?また一方で、古墳を作る作業や
古墳に関わる葬祭を担当し職業として従事していた氏族は衰運を迎えたと考えられています。
梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
なのですが現代日本人からみたら漢文調であり現代人には理解し難い、しかもこの詩の原典
が中国・東晋の政治家・書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」
が元ネタや、下敷きに、なっていると言われていおります。つまり、漢文、漢学、の文化です。
※古代において文字の読み書きも和語「倭語「やまとことば」も話せ人々とはだれか?
古墳の中からも既に額田部「ぬかたべ」の文字や雄略天皇を意味する文字が発見されていますが『新撰姓氏錄』なる
書物を一度御覧下さい。多くの氏族がその先祖を中国や朝鮮から日本に来た事を人々を先祖として、記しています。
当時のの日本の貴族の子弟は学門として漢学を学んでいた事でしょうが先祖から受継いだ、漢字、暦法、方学風水や
灌漑に用いる水田を潤す灌漑池の築堤技術や築都、築城、や寺院や仏像や仏典、等に精通した当時のエリート集団
とも言えると思います。現代においても日本人は元号や漢字を使っております。
※吉備国の事
吉備国とは、後の令制国では備前国・備中国・備後国・美作国にあたる広大な国。 後代は、単に吉備といえば美作
を含めないことが多かった時期もあった。 現代では備前・備中・美作(つまり岡山県の別称)を指すか、備前、備中
、美作、備後(岡山県と広島県東部)を指して使用される。律制の国では(備前国/備中国/備後国/美作国)に相当する。
吉備国(きびのくに)古代日本の地方国家ながら。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(
佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有巨大な勢力 別名は吉備道(きびのみち、
きびどう)備州(びしゅう)とも言われますが、なによりも私が関心ある事は吉備が大和型の古墳に使われる円筒埴輪
の元祖ルーツである。特殊器台形土器に魅力を感じます。
★質問者
当時の中国つまり唐の時代の文官の服装とはどの様なものでしょうか?
長谷川
私は詳しくは知りませんが唐の文官は写真の様な「文史」の服装だったと私は推測します。
★質問者
唐の文官が手に持っているのはコンビニ便利店の菓子パンどすか?美味しそうどすな?
長谷川
当時の中国の文官を象徴する笏「しやく」だと私は思います。中国読みなら「コッ」です。日本では朝廷の公事を行う時、
備忘の為に式次第を笏紙(しゃくがみ/しゃくし)という紙に書き笏の裏に貼って用います。後に重要な儀式や神事に際して
、威儀を正すため木笏をに持つようになります。
★質問者
唐の時代の文官(文史)はまるで聖徳大使の親戚の(おっちやん)みたいですが?
長谷川
貴方の感性柔軟で素晴らしいと思います。なぜなら当時の東洋文化はグローバル化が進み漢字文化が日本にも
伝来し波及した事を思わせる内容です。また平安時代の神社の神像も時に、笏を持っている事や神社の狛犬の文化
の起源も古代オリエント、古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角を持つ。邪悪を避けるといわれる避邪も韓半島
を伝播して日本には狛犬「こまいぬ」として日本に伝来し継続した文化と言えましょう。
★質問者
長谷川先生、会話が飛躍し過ぎていませんか?中国の唐時代の中国語など日本人は話せませんよ?
長谷川
阿倍 仲麻呂(アベノナカマロ)と言う優秀な日本人がおります。彼は文武天皇2年〈698年〉から 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生で姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫アベノヒラフの孫。中務大輔ナカツカサノタユウ・阿倍船守アベノフナモリの長男。 唐名での名前は「朝衡/晁衡」(ちょうこう)です。唐で国家の試験に合格、唐朝で諸官を歴任し、高官になり
日本へは帰国できず中国で亡くなっています。 唐の大学で学び科挙に合格し唐の玄宗に仕えた。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文化系の役職を務めた当時の国際的「超」エリートの文官です。天平宝字4年(760年)には鎮南都護・安南節度使(正三品)になりベトナムに赴任し総督を務めます。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間ハノイの安南都護府に在任、天平神護2年(766年)安南節度使を務め最後は潞州 ろしゅう 大都督(従二品)を贈られ日本に帰る事はなく宝亀元年(770年)73歳で中国で亡くなった国際的に活躍し語学に精通した人物です。
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