福岡城 中津城 ビイスタ工法
◆質問者
黒田官兵衛と黒田長政は関ケ原合戦
で東軍徳川家康方に味方として中津
城から52万石の太守となって大規模
な福岡城を築城しますが福岡城にも
城郭ビイスタ論は適応するのですか?
◆長谷川
緻密な扇型ビイスタ工法を随所に施工
した織豊系城郭築城の系譜を組む黒田
氏の築城技術が凝縮された城でしよう。
◆長谷川
典型的な扇型ビイスタ工法の冴えが
ありますね!いや素晴らしい城日本
屈指の大城郭と言って過言ではない
抱第一縮尺は50mですから、如何に
福岡城が巨大なのか解ります大天守
には地下蔵があり大中小天守が並行
して連立する景観をより一層壮壮大
な景観に見栄え良く配列しようとし
た黒田氏自身のビイスタ構想考える
上で最も重要な角度からのビイスタ
構造の設定と言えようと思います。
様々なビイスタ工法の一覧表を図示
しておきまので是非ご覧ください。
◆質問者
福岡城の縄張の文献とは?
◆長谷川
城郭 福岡城
城主 黒田如水 黒田長政
年代 慶長6年 1601年
資料 筑前国続風土記 巻之三
内容
其由を如水公と相議し、別に城郭
によろしかるべき地を、処々見そな
はし給ふ(中略)慶長六年に、城郭
営作の事始ありしが(中略)、長政
公城郭の造作をいそぎたまひ、みづ
からはかりいとなみ
資料 黒田家譜 巻之十四
内容
福崎といふ処、如水長政の心に
叶いし故、城地を見立経営して、
山に拠りて城を築き郭をかまへ
(中略)長政みづから城郭の
造作をはかりいとなみ
◆質問者
その他ビイスタ工法は存在しますか?
◆長谷川
赤 扇型ビイスタ
青 扇型ビイスタ
緑 扇型ビイスタ
が読取る事が出来ます。
◆反論者
ふん!何が城郭ビイスタ論だよ!そんな
動画絶対に見ちやあイカン!俺は一流の
大学を出て一流の城郭の先生に師事して
学歴、履歴、職歴、乗ってる車も腕時計
も全て一流なんだぞ!一流の人間が何故
?城郭ビイスタを読み取れないんだよ?
◆長谷川
福岡城は
熟慮しよく練られた流石の縄張りだと
言えます。見事な縄張術の展開ですよ。
◆長谷川
福岡城の縄張は黒田氏の姫山城時代
秀吉の姫路城のビイスタ工法からも
すで黒田氏は縄張技巧を持っていた
可能性があると私は推測しています。
▼姫山「西の丸」と播州姫路城の
ビイスタ工法
◆城キヤリア50年の人
素晴らしい研究視点ですね!私は姫路
城にも福岡城跡にも何回となく行きま
したが残念全く気が付きませんでした。
◆長谷川
外郭も含めて福岡城のグンドプラン
は四方からビイスタ工法により築城
された見事な城郭遺跡と言えます。
◆長谷川
兵庫県宍粟市の山崎城は一説に黒田
官兵衛の城とも言われています参考
の為に宍粟の山崎城のビイスタ工法
を取り上げておきます。
▼太閤秀吉 肥前名護屋城 ビイスタ工法論も
長谷川博美 掛線挿入▼
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論の評判が良くて
動画の視聴者様が着実に増えて驚いています。
さて先生の城郭ビイスタ論は「扇形」形状に
城を縄張設計して行くという戦前戦後の日本
城郭研究史には見られない一種の慧眼と洞察
の双方を備えた稀代の城郭研究家。知る人ぞ
知る隠れ城郭研究家としての御高名は半世紀
前から聞き及んでおります。さて私は以前に
日本の九州に『扇城』(おうじょう)の別称を
持つ豊前中津城が『扇城』だったと思います。
◆質問者
『扇城』文献的出典は何です?
◆長谷川
城郭 中津城
築城者 黒田如水
年代 天正16年1588年
縄張者 玄海訪印 修験僧
文献 『宇佐軍記 坤巻十六』
内容 (黒田氏は)中津川丸山に
扇の縄を引き、求菩提山玄海法印
を召して地鎮の法を執行す。天正
十六年正月十一日より、居城経営
あり
※「扇の縄を引き」に注目!
◆対談者
元和7年「1621年」扇形の縄張りに拡張された。
これは先生の論述されている城郭ビイスタ論
に該当するものではないでしょうか?そして
肥前名護屋城の縄張りは黒田官兵衛が実施し
この中津城も官兵衛の着想が活かされている
と私は思うのですが?
◆長谷川
夢やロマンのある質問ですが難しい問題です。
たしかに扇状の旧城下町には今でも築城した
黒田官兵衛にちなんだ「姫路町」や「京町」
などの町名が残る事は非常に面白いですが?
ウイッキぺデイアを引用致しますと。
▼中津城 現代の天守閣の写真
◆長谷川
御了承致しました。先ず黒田官兵衛時代の
中津城は詳しく解っていませんがビイスタ
工法らしきものは古図から推測できます。
▼黒田氏の中津城のビイスタ工法の模索図
◆長谷川
元和7年「1621年」扇形の縄張りに拡張された時
の「扇形の縄張り」の解釈もなかなか難解です。
▼単純に「三角」の縄張の意味なのか?
▼中津城の扇型城郭ビイスタ
◆別角度 クサビ型ビイスタ工法 中津城
◆反論者
そもそも、そんな城郭の計測法など無い!
◆長谷川
豊前中津城は海城とも言えます。海城の
元和7年「1621年」扇形の縄張りに拡張された時
の「扇形の縄張り」の解釈もなかなか難解です。
海城の典型 四国高松城
▼讃岐高松城の城郭ビイスタ
◆質問者
この讃岐高松城の縄張は誰?
◆長谷川
城主 生駒親正
時代 天正16年 1588年
縄張 藤堂高虎 助役
文献 讃州新高松府記
内容
天正十七年正規大坂在勤之時
豫州今治城主藤堂佐渡守高虎
御対談有テ申サルヽハ今度
今治御帰路ノ時我髙松ヘ
御立寄有テ城地御見聞候テ給
ヘト申サレシカハ(中略)、
両将(高虎、如水)御下着有テ
髙松ノ地見聞坐シ如水被仰ハ是
究竟ノ地ニテ富貴繁昌トモニ備リ
要害能ク諸方ノ船路便ヲ得テ国主
ノ居城ニ相合タル地形ニテ候トテ
誉給フ(中略)、正規安堵シテ
此所ヲ城地ニ定メラルヽトカヤ
◆長谷川
豊前中津城の扇型はビイスタは
以下の様な可能性が あります。
▼豊前中津城 相対型ビイスタ工法
◆長谷川
困った事に江戸時代にも放射線状
測量方法が存在したました我々の和の心
日本の城郭文化論の根本だと言えます。
◆長谷川
我々は和人です古代のヤマトでも倭人に
よる纏向宮殿にもビイスタ工法きが存在
したんですよ。▼纏向宮殿遺跡▼
◆反論者
そんな馬鹿な事などあろうハズが無いわ!
◆対談者
城郭ビイスタ論動画を一度見て下さいよ!
◆長谷川
そうよく昔に怒られましたね!そんな400年
以上前の賤ケ岳合戦の陣城の跡があるかと?
社会から世の中から皆さんに否定されました。
お前は「馬鹿だと」と四六時中馬鹿にされた
ところが令和の現代では賤ケ岳合戦の陣城
のイラストが挿入された「御城印」が販売さ
れています。jR木ノ本駅、余呉観光館、
ウッデイパル余呉さん等で販売されてる。
◆福岡城ウイッキペデイアより引用
安土桃山時代・江戸時代[編集]
から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封
した。筑前の旧領主小早川秀秋の居城であっ
廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。1601年
(慶長6年)には築城が開始され、7年後の
1607年(慶長12年)に竣工した。江戸期には
歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の
増築など数度の改修が行われたが、特に幕末
より大改修が行われた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます