城郭 長谷川博美 基本記録

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驚愕! 双子城郭の縄張を解明する。

2024-08-31 14:50:07 | 関東の城 ビイスタ工法

驚愕! 双子城郭の縄張を解明する。

◆長谷川

城郭鈴鹿会様の講師として伊賀

桜町中将城と滝川雄利城を見学

致しました。これは実は二子城

の縄張で2城で一城の縄張です。

この件城郭ビイスタ理論で判明。

◆長谷川

しかし鈴鹿会の講師を解雇になり

彦根湖東玄米会に行く事なつた事

トホホな情けない不人気研究家!

◆長谷川

甲賀の二子城郭はビイスタ工法で

設定されおります。新宮城もソレ

◆長谷川

ただ意味なく並んで城

が存在する訳ではない

★この投稿は

 前ふり

 落ちの二部構成になっています。

 最後まで熟読してその価値あり。

 

◆長谷川

私は〇〇〇様を見学リダー

とし少人数で見学勉強会を

したいと思います希望者は

世話人様に連絡して下さい

◆学術家

  一般の方は甲賀向山城

を長谷川さんから学ぶ事が

大切です。私は甲賀瀧川氏

城の長谷川氏解説に衝撃を

うけました。2城館が一組

としてセットになっている

しかも幾何学測量的に両城

を同機調整してる事の驚き

です。この様な学術視点は

昭和、平成、には存在しな

かい新視点で単郭方形城館と

いう中世社会史論的視座のみ

から見たデフオルメ的省略

簡略概念型の学問が流布し

た遠因や原因が存在します

2城館並立併存する場合に

は如何なる設計測量縄張

がなされたか長谷川先生

の解説は恐るべき学説で

私の私の脳裏に印象付け

る事になり衝撃でしたよ。

▼甲賀瀧川城館2城図

◆長谷川

これ等城主親子や親族

血属眷属が合議して城

の縄張や農村景観自体

の形成していた苗字を

同じとする同族連合の

合議体制が読み取れる。

これを近江伊賀型たる

一城別郭と解釈すべき

かが私の問題提起です。

▼近江の甲賀瀧川城館群

◆学術家

長谷川氏の城郭解説は非常

に高度学術側面が存在しま

す。昭和、平成、令和へと

時代は推移しましたが城郭

ビイスタ論などに気付いて

着眼論説される姿勢は向学

派学究派の方には驚くべき

研究視座視点の提示提唱で

す。氏は既に滋賀県中世城

郭分布調査時点で卓越した

測量視点や解析視点視座を

既に持っておられた研究家

と言えます。さて私は甲賀

の向山城の2城郭を長谷川

学兄に御教示賜りたいと

かねがね思っております。

 

◆有識者

  甲賀東向山城の城館分布

を幾何学論を用いて解説さ

れた事は中世社会史研究上

においても日本の土木測量

史上においても全く画期的

学術新説である事は確実!

◆甲賀 向井山城 二城一組

ビイスタ工法のなさせる技!

◆みんな

こんな方法で城が配置され

ている事など知らなかった

これを知らず昭和平成と城

を巡っていた長谷川解説を

聞いてやはり本物だと思う。

 

◆長谷川

この法則は甲賀の寺前城と

村雨城においてもビイスタ

理論を用いれば理解可能!

◆みんな

城郭ビイスタ論はスゴイ!

 

◆長谷川

脱線しますが関東の麻場城

も素晴らしいビイスタ工法

の城だと言えますね!

◆質問者

関東の麻場城の人的な歴史

を少し解説して下さい。

 

◆群馬県甘楽郡甘楽町のホーム

 ページから引用

麻場城は、甘楽町の東北丘陵地帯

の舌状台地上の先端部に立地した

丘城である。当城は、この地の豪族

白倉氏の居城であり、約500m東方

にある仁井屋城と合わせて白倉城と

呼ばれ、別城一郭(双子城とも言っ

て、二つの城が一人の城主のもとに

相助けて戦う構造)の形態といわれ

ている。

 

◆対談者

さあこの投稿ブログ前フリ

から本題に入って来ました

長谷川城郭ビイスタ理論の

閃光が爆発するのかゾク

ゾクする展開になってる。

 

◆ウイッキペデイア

白倉氏を引用すると

白倉氏は、児玉党の一族であり、上野国甘楽郡白倉[1

]を本領とし、白倉氏を称した。

承久3年(1221年)の承久の乱で討死した白倉成季

から白倉氏を称した。その後、足利氏に従い、山内

上杉氏の家臣となった。その後、上州八家小幡氏

白倉氏安中氏倉賀野氏桐生氏由良氏山上氏

沼田氏)の一つに数えられ、白倉重佐(五左衛門)の代

には関東管領上杉憲政のもと、四宿老(長尾氏大石氏

小幡氏白倉氏)の一人に数えられた[2]

重佐の子・白倉道佐の代には、上杉謙信に仕え[3]、上杉謙信

が鎌倉で関東管領就任の儀式をしたさい、側近として付き

添った[4]。しかし武田信玄箕輪城上野長野氏を攻める

とこれを防ぎきれず、永禄6年(1563年)武田氏に降った[5]

天正9年(1581年)武田氏が滅亡すると、道佐の子・

白倉重家は織田家の重臣滝川一益に降り、

天正10年(1582年)6月の神流川の戦いでは

、滝川方に付いて戦った[6]。合戦に敗れた

滝川一益が伊勢に逃げ帰る北条氏直に降った。天正18年

1590年小田原征伐では、白倉城[7]に弟・重高を置いて守

らせ、白倉重家は小田原城に籠城した[8]。北条氏が滅亡すると、

白倉氏も所領を失い没落した。

◆質問者

浅場城と仁井屋城のビイスタ関係は?

 

◆長谷川

それぞれの城にビイスタがあります。

◆猜疑者

まさか?長谷川ごとき無名

学者が白倉城に2城が連動

するシンクロビイスタが

存在したらエライ事になる

長谷川が5流学者でなく本物

と言う事にならオレラ誰か

に騙されたアンポンタン様?

 

◆長谷川

そういう派閥や学派の壁を

越えて清廉潔白な学術へと

より純粋城郭研究へと私は

進みたいと思います。少数

の方を大切する負組ですが

内省的でストイックな学門

を私は目指しています。1人

でも2人でも少数でよろしい

から私と共に学びましよう!

 

麻場城と仁井城を合わせて

白倉城と言う事は両城の配置

が城郭ビイスタで周到に設計

されたとみるべきと思います。

白倉城のシンクロビイスタが

下図なんです。一城別郭だと

言葉で唱えるは簡単図形で

解説する事も令和の新しい

城郭研究だと私は思います。

 

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