(神社考)かみのやしろをかんがえる。
巫と書いて なんと読みますか?(神社考)
長谷川 かんなぎ とよみます。男性のミコの事を言います。
※伊勢神宮は元来 天照大御神 あまてらすおおみかみ
の神霊 御魂を鎮める場所であり皇族から未婚の斎王が選ばれ
て祭祀を行う場所として本来は作られたものでしよう。従って
伊勢神宮には一般庶民の私幣禁じられていました。
私幣禁断と言います。
祝 と書いて何と読むのでしょう。
長谷川 ほおり はふり とも読みます。神職の事です。
※はふり 神職は 神葬祭 しんそうさい も担当します。
※はふる と ほうむる は古代日本において同義語か?と思います。
※仏教伝来以前の倭人「日本人」に服喪 喪に服す習慣は三世紀の『魏志倭人伝』
にも記されていて喪主は白服の喪服を着用し葬儀の後は塩水に入り禊 みそぎ
する習慣が記されています。服喪に関する1700年も前の日本人の心を推定できます。
※古代には喪仮宮 もがりのみや が設営されて貴人は亡くなっても直ぐには埋葬
せずに一族が集合して葬祭を実施し、後継問題を解決してのち正式な葬儀をした
とも言われています。
※九州の平原弥生墓には棺桶を覆っていた屋根の柱穴が発掘されています。
※また同墳から出土した大型内行花文鏡の直径46.5センチメートルの外周は、鏡の
円周の単位で八咫(やた)あることから、八咫鏡やたのかがみと同じ大きさになり
皇室に伝わる三種の神器「八咫の鏡 やたのかがみ」と同じとも言われています。
言祝 と書いて何と読みますか?
長谷川 ことほぎ と読みます。祝辞の事です。
寿 と書いて何と読みますか?
長谷川 ことぶき です。本来は ことほぎ で同じ意味だと思います。
祝詞 と書いて何と読みますか?
長谷川 のりと と読みます。
祝言と書いて何と読みますか?
長谷川 本来は神職の「ほぎごと」と言う祝辞の事でした。神職は
「ほがい」とも言います。つまり ほきごと を言う事です。
※中世には結婚式を祝言「しゆうげん」と言う様になりました。
なかとみのよごと【中臣の寿詞】と書いて なかとみの よごと と読みます。
日本の古代の言霊信仰を思わせるものです。現代におい結婚式で 分れる 切れる
割れる は縁起の悪い忌言葉 いみことば で使わない良い言葉を使う事です。
古代には忌部 いんべ と呼ばれる祭祀を行う氏族もいました。
神道の竣工式の時には実用性のない 木製の 忌鍬 いみくわ を使う場合があります。
また古墳や祭祀遺跡からも実用性のない 忌具 が出土する事も多々あります。
延喜式祝詞 えんぎしきのりと なる古い祝詞があります。千年以上も昔の古い言葉です。
古代の中臣氏は 神と人との なかとりもち とも言われており
大和朝廷の神道を統轄する神祇官 じんぎかん を務めて、やがて藤原氏を名乗ります。
特に神事に通じていた藤原一族を「斉藤」 いつきの ふじわら とも言います。
遠藤、近藤、佐藤、後藤、などの藤を冠する姓も藤原家を先祖と称しています。
伊勢神宮に奉仕する皇室関係の巫女みこ 斎王も いつきのひめみこ と言います。
小さな祠 ほこら や小さな神社を なんと読みますか?
長谷川 祠と書いて ほこら と読むのですが
祝詞 つまりまり ほぎごと を述べる
ほぎぐら 祝倉が ほぎぐら が 祠 ほこら の語源ではないでしょうか?
伊勢神宮の祭祀を見学された事はありますか?
長谷川 私は國學院大學の時に神社研修を伊勢神宮で受けさせて頂きました。外宮(豊受大神宮)
では日供祭を見学させて頂きましたが供物、神饌を社殿に収められる以外は全て、玉砂利の上の
庭上祭祀だったと記憶しております。
庭上祭祀の意義とは?
長谷川 宮と書いて みや と読みますが。本来は古代豪族の邸宅 御屋 みや だったと思います。
神社建築を社 やしろ と言います。 御屋代、宮代 と書いて みやしろ と書きますが、本来は
神社には建物がなく祭祀を行う場所こそが本来神聖な場所だったと思います。庭こそ大事な斎場です。
神社の裏山には巨岩や磐境 いわさか や本宮があり 元来の祭祀の場所は野外で実施されていました。
神社の「杜」は やしろ とも 元来は「もり」と読みます。
朝鮮語で「杜」は こそ とも読みます。
姫社神社(ヒメコソジンジャ)と言う神社があります。
また
鎮守の杜「森」(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社(鎮守神)に付随して境内やその
周辺に、神殿や参道、拝所を囲むように設定・維持されている森林があります。鎮守の杜もり。
古神道における神奈備(かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで、
神代、上代(かみしろ)とも言います。
庭とは何を意味しますか?
長谷川 相撲の土俵も相撲神事では神聖な占いの場であり神事の舞台です。古くは相撲節会
の伝統があり吉凶を占う儀式でした。現代でも地鎮祭を行う場合は四本の竹で結界を作り
斎場とします。だから相撲では土俵に塩をまき 清めてから 相撲神事を行います。
相撲の行事は本来は神官の仕事と思われます。また行事は審判でもあります。
『日本書紀』巻第八によると、仲哀天皇の急逝に際し、
皇后(きさき)及び大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうち の すくね)、天皇(すめらみこと)
の喪(みものおもひ)を匿(しな)めて、天下(あめのした)に知(し)らしめず そのようにした
上で、皇后の気長足姫(のちの神功皇后)は・※中臣烏賊津連・大三輪大友主君(おおみわ の おおともぬし の きみ)・物部胆咋連(もののべ の いくい の むらじ)、大伴武以連(おおとも の たけもつ の むらじ)に、「天皇がなくなったことを百姓(=人民)に知らせてはならない」と断った上で、、百寮を率いさせ、宮中を守らせました。 『書紀』巻第九によると、皇后は、それから罪を払い、過ちを改めて、斎宮(いわいのみや)を定めた後で、一ヶ月後、吉日を選んで、斎宮に入って、自分から神主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、「中臣烏賊津使主」(なかとみ の いかつ の おみ)を呼んで、審神者※(さにわ=神慮を※審察する人)としています。
またた「庭」自体の言葉は朝廷を意味します。
秀吉が伊達正宗の家臣に鬼庭氏がいる事に気が付いて
その姓を茂庭に変更するように意見しています。庭に
鬼が居ては困ると言う事です。茂とは繁茂すると言う意味でしょう。
松とは何を意味しますか?
長谷川 古来より皇室を「松」と比喩し表現します。
松は消して枯れない常緑樹で繁栄と言う意味があります。
常盤松とかいて、ときわまつ と言います。
※『信長公記』に安土城天主に松を描いた松の間があります。
江戸城にも松の廊下がありました。現代の皇居にも
皇居の宮殿で最も格式の高い「松の間」があります。
神社参籠とは?
長谷川 おこもり です。 宿泊して神事をする事を言います。
古代日本においては政治や祭祀はなどの まつり は夜行われます。
戦国武将で参籠した武将とは?
長谷川 明智光秀が愛宕神社に参籠して「おこもり」して本能寺の戦勝を
つまり織田信長討伐を占っています。そして愛宕百韻で連歌も読んでいます。
発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」、
脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、
第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。
発句は、明智の姓の「土岐」にかけて、「雨が下」に
「天が下」をにかけて、主人織田信長の殺害という宿願の
祈請であるといい、紹巴はこのために後に秀吉から責問を受けたという。
当時の明智と親しかった吉田兼見も日記を改竄しています。
しかし『兼見卿記』には明智光秀が吉田氏の京都の「石風呂」を所望した
り吉田氏が光秀の居城の大小天守を見学した文献記録があります。
また光秀は京都の吉田山に自分の城郭建設を打診して柴田勝家に是を拒否
されています。神道において吉田神道は有名な神道の一流で吉田氏自体が
当時の神祇官でありの神職でもあります。
天皇家には何故苗字 姓がないのですか?
長谷川 アジアの古代王は一般に姓を持たないのが普通です。
姓は天皇から諸氏に下賜される「姓」 かばね ですか当然
天皇には「姓」かばね がありません。
しかし八世紀の『隋書』倭国伝の記事には
「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとあります。隋書
の言う倭の大王の姓が「アメ」である事が解ります。なお日本には天神地祇つまり昔から天つ神と国つ神があります。
滋賀には庭上祭祀や常盤に値する祭祀遺跡はありますか?
長谷川 伊勢遺跡でしよう。2世紀のものと言われています。
驚くべき事に伊勢神宮の原型を思わせる棟持柱が出土しています。
そして30箇所以上の円形に配された「祠」つまり 祠と書いて
ほこら と読むのですが 倭の諸王の神殿の可能性があります。
※祝詞 つまりまり ほぎごと を述べる
30ほどの倉庫は円形に配置され まさに祭主「王」を中心に平等に
囲む連合性のある諸王の集合の様な姿が連想されます。円形の祭祀
とは盆踊りや古代の歌垣のように囲む、連座の神集い かむつどい を連想させます。
ほぎぐら 祝倉が 祠 ほこら だったの可能性があります。
当時は文字が無かったので祝辞つまり、諸王は言霊は述べた事でしょう。
伊勢遺跡は宗教サミットとような まつり 斎場や祭祀の場かもしれません。
また焼床と呼ばれるタイルの地下床も発見されています。
祝詞に登場すめる、国の常立の命つまり くにのとこたちのみこと
国の床立の命を連想させる遺跡です。
それはまさしく土間で縄占をする斎場 とぎば でありましょう。つまり当時の
二世紀の倭国の一つが、国家的占いを行う場所だった可能性があります。
30ほどの倉庫は円形に配置され、国神、地祇、の祭りを連想させます。
長谷川
明智光秀愛宕百韻の「ときは今 あめが下しる 五月かな」は意味が深いかと?
また貴人の話、相手を夜する事を伽 とぎ とも言います。
寝床で 御伽話 おとぎばなし を聞くも言います。
滋賀の伊勢遺跡の焼床も 最上級の地下床であったと推定されます。
硬く焼き固められたタイルの 常磐 ときわ かと?思います。
みそかとは?
長谷川
つごもり とは 何の事ですが?
晦日 みそか の事です。
月の終わりを三十日 みそか と言います。12月は大晦日です。
みそなう と言う言葉は30本の縄を編む「なう」事でしょう。
月読の命が 土間つまり土で固めた床で 縄を編んでいた事でしょう?
明智光秀は天正10年6月2日に本能寺で織田信長を殺害してます。
その計画は明智光秀や斉藤利三らにより秘密裏に計画されたものでしよう。
みそかごとの意味とは?
長谷川 密事と書いて みそかごと と読みます。秘密の事です。
また つごもり 月が隠れる事 が月籠り とも言われています。
月末30日には月が隠れて真っ暗な夜になります。つまり闇夜の晩
は みそかごと をする密かに密会する意味も含まれています。
明智光秀は斉藤利三と みそかごと し信長討伐を計画したのでは
ないでしょうか?
明智光秀は岐阜県 時トキ 多羅タラ 出身と言う説もありますが?
巫と書いて なんと読みますか?(神社考)
長谷川 かんなぎ とよみます。男性のミコの事を言います。
※伊勢神宮は元来 天照大御神 あまてらすおおみかみ
の神霊 御魂を鎮める場所であり皇族から未婚の斎王が選ばれ
て祭祀を行う場所として本来は作られたものでしよう。従って
伊勢神宮には一般庶民の私幣禁じられていました。
私幣禁断と言います。
祝 と書いて何と読むのでしょう。
長谷川 ほおり はふり とも読みます。神職の事です。
※はふり 神職は 神葬祭 しんそうさい も担当します。
※はふる と ほうむる は古代日本において同義語か?と思います。
※仏教伝来以前の倭人「日本人」に服喪 喪に服す習慣は三世紀の『魏志倭人伝』
にも記されていて喪主は白服の喪服を着用し葬儀の後は塩水に入り禊 みそぎ
する習慣が記されています。服喪に関する1700年も前の日本人の心を推定できます。
※古代には喪仮宮 もがりのみや が設営されて貴人は亡くなっても直ぐには埋葬
せずに一族が集合して葬祭を実施し、後継問題を解決してのち正式な葬儀をした
とも言われています。
※九州の平原弥生墓には棺桶を覆っていた屋根の柱穴が発掘されています。
※また同墳から出土した大型内行花文鏡の直径46.5センチメートルの外周は、鏡の
円周の単位で八咫(やた)あることから、八咫鏡やたのかがみと同じ大きさになり
皇室に伝わる三種の神器「八咫の鏡 やたのかがみ」と同じとも言われています。
言祝 と書いて何と読みますか?
長谷川 ことほぎ と読みます。祝辞の事です。
寿 と書いて何と読みますか?
長谷川 ことぶき です。本来は ことほぎ で同じ意味だと思います。
祝詞 と書いて何と読みますか?
長谷川 のりと と読みます。
祝言と書いて何と読みますか?
長谷川 本来は神職の「ほぎごと」と言う祝辞の事でした。神職は
「ほがい」とも言います。つまり ほきごと を言う事です。
※中世には結婚式を祝言「しゆうげん」と言う様になりました。
なかとみのよごと【中臣の寿詞】と書いて なかとみの よごと と読みます。
日本の古代の言霊信仰を思わせるものです。現代におい結婚式で 分れる 切れる
割れる は縁起の悪い忌言葉 いみことば で使わない良い言葉を使う事です。
古代には忌部 いんべ と呼ばれる祭祀を行う氏族もいました。
神道の竣工式の時には実用性のない 木製の 忌鍬 いみくわ を使う場合があります。
また古墳や祭祀遺跡からも実用性のない 忌具 が出土する事も多々あります。
延喜式祝詞 えんぎしきのりと なる古い祝詞があります。千年以上も昔の古い言葉です。
古代の中臣氏は 神と人との なかとりもち とも言われており
大和朝廷の神道を統轄する神祇官 じんぎかん を務めて、やがて藤原氏を名乗ります。
特に神事に通じていた藤原一族を「斉藤」 いつきの ふじわら とも言います。
遠藤、近藤、佐藤、後藤、などの藤を冠する姓も藤原家を先祖と称しています。
伊勢神宮に奉仕する皇室関係の巫女みこ 斎王も いつきのひめみこ と言います。
小さな祠 ほこら や小さな神社を なんと読みますか?
長谷川 祠と書いて ほこら と読むのですが
祝詞 つまりまり ほぎごと を述べる
ほぎぐら 祝倉が ほぎぐら が 祠 ほこら の語源ではないでしょうか?
伊勢神宮の祭祀を見学された事はありますか?
長谷川 私は國學院大學の時に神社研修を伊勢神宮で受けさせて頂きました。外宮(豊受大神宮)
では日供祭を見学させて頂きましたが供物、神饌を社殿に収められる以外は全て、玉砂利の上の
庭上祭祀だったと記憶しております。
庭上祭祀の意義とは?
長谷川 宮と書いて みや と読みますが。本来は古代豪族の邸宅 御屋 みや だったと思います。
神社建築を社 やしろ と言います。 御屋代、宮代 と書いて みやしろ と書きますが、本来は
神社には建物がなく祭祀を行う場所こそが本来神聖な場所だったと思います。庭こそ大事な斎場です。
神社の裏山には巨岩や磐境 いわさか や本宮があり 元来の祭祀の場所は野外で実施されていました。
神社の「杜」は やしろ とも 元来は「もり」と読みます。
朝鮮語で「杜」は こそ とも読みます。
姫社神社(ヒメコソジンジャ)と言う神社があります。
また
鎮守の杜「森」(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社(鎮守神)に付随して境内やその
周辺に、神殿や参道、拝所を囲むように設定・維持されている森林があります。鎮守の杜もり。
古神道における神奈備(かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで、
神代、上代(かみしろ)とも言います。
庭とは何を意味しますか?
長谷川 相撲の土俵も相撲神事では神聖な占いの場であり神事の舞台です。古くは相撲節会
の伝統があり吉凶を占う儀式でした。現代でも地鎮祭を行う場合は四本の竹で結界を作り
斎場とします。だから相撲では土俵に塩をまき 清めてから 相撲神事を行います。
相撲の行事は本来は神官の仕事と思われます。また行事は審判でもあります。
『日本書紀』巻第八によると、仲哀天皇の急逝に際し、
皇后(きさき)及び大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうち の すくね)、天皇(すめらみこと)
の喪(みものおもひ)を匿(しな)めて、天下(あめのした)に知(し)らしめず そのようにした
上で、皇后の気長足姫(のちの神功皇后)は・※中臣烏賊津連・大三輪大友主君(おおみわ の おおともぬし の きみ)・物部胆咋連(もののべ の いくい の むらじ)、大伴武以連(おおとも の たけもつ の むらじ)に、「天皇がなくなったことを百姓(=人民)に知らせてはならない」と断った上で、、百寮を率いさせ、宮中を守らせました。 『書紀』巻第九によると、皇后は、それから罪を払い、過ちを改めて、斎宮(いわいのみや)を定めた後で、一ヶ月後、吉日を選んで、斎宮に入って、自分から神主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、「中臣烏賊津使主」(なかとみ の いかつ の おみ)を呼んで、審神者※(さにわ=神慮を※審察する人)としています。
またた「庭」自体の言葉は朝廷を意味します。
秀吉が伊達正宗の家臣に鬼庭氏がいる事に気が付いて
その姓を茂庭に変更するように意見しています。庭に
鬼が居ては困ると言う事です。茂とは繁茂すると言う意味でしょう。
松とは何を意味しますか?
長谷川 古来より皇室を「松」と比喩し表現します。
松は消して枯れない常緑樹で繁栄と言う意味があります。
常盤松とかいて、ときわまつ と言います。
※『信長公記』に安土城天主に松を描いた松の間があります。
江戸城にも松の廊下がありました。現代の皇居にも
皇居の宮殿で最も格式の高い「松の間」があります。
神社参籠とは?
長谷川 おこもり です。 宿泊して神事をする事を言います。
古代日本においては政治や祭祀はなどの まつり は夜行われます。
戦国武将で参籠した武将とは?
長谷川 明智光秀が愛宕神社に参籠して「おこもり」して本能寺の戦勝を
つまり織田信長討伐を占っています。そして愛宕百韻で連歌も読んでいます。
発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」、
脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、
第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。
発句は、明智の姓の「土岐」にかけて、「雨が下」に
「天が下」をにかけて、主人織田信長の殺害という宿願の
祈請であるといい、紹巴はこのために後に秀吉から責問を受けたという。
当時の明智と親しかった吉田兼見も日記を改竄しています。
しかし『兼見卿記』には明智光秀が吉田氏の京都の「石風呂」を所望した
り吉田氏が光秀の居城の大小天守を見学した文献記録があります。
また光秀は京都の吉田山に自分の城郭建設を打診して柴田勝家に是を拒否
されています。神道において吉田神道は有名な神道の一流で吉田氏自体が
当時の神祇官でありの神職でもあります。
天皇家には何故苗字 姓がないのですか?
長谷川 アジアの古代王は一般に姓を持たないのが普通です。
姓は天皇から諸氏に下賜される「姓」 かばね ですか当然
天皇には「姓」かばね がありません。
しかし八世紀の『隋書』倭国伝の記事には
「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとあります。隋書
の言う倭の大王の姓が「アメ」である事が解ります。なお日本には天神地祇つまり昔から天つ神と国つ神があります。
滋賀には庭上祭祀や常盤に値する祭祀遺跡はありますか?
長谷川 伊勢遺跡でしよう。2世紀のものと言われています。
驚くべき事に伊勢神宮の原型を思わせる棟持柱が出土しています。
そして30箇所以上の円形に配された「祠」つまり 祠と書いて
ほこら と読むのですが 倭の諸王の神殿の可能性があります。
※祝詞 つまりまり ほぎごと を述べる
30ほどの倉庫は円形に配置され まさに祭主「王」を中心に平等に
囲む連合性のある諸王の集合の様な姿が連想されます。円形の祭祀
とは盆踊りや古代の歌垣のように囲む、連座の神集い かむつどい を連想させます。
ほぎぐら 祝倉が 祠 ほこら だったの可能性があります。
当時は文字が無かったので祝辞つまり、諸王は言霊は述べた事でしょう。
伊勢遺跡は宗教サミットとような まつり 斎場や祭祀の場かもしれません。
また焼床と呼ばれるタイルの地下床も発見されています。
祝詞に登場すめる、国の常立の命つまり くにのとこたちのみこと
国の床立の命を連想させる遺跡です。
それはまさしく土間で縄占をする斎場 とぎば でありましょう。つまり当時の
二世紀の倭国の一つが、国家的占いを行う場所だった可能性があります。
30ほどの倉庫は円形に配置され、国神、地祇、の祭りを連想させます。
長谷川
明智光秀愛宕百韻の「ときは今 あめが下しる 五月かな」は意味が深いかと?
また貴人の話、相手を夜する事を伽 とぎ とも言います。
寝床で 御伽話 おとぎばなし を聞くも言います。
滋賀の伊勢遺跡の焼床も 最上級の地下床であったと推定されます。
硬く焼き固められたタイルの 常磐 ときわ かと?思います。
みそかとは?
長谷川
つごもり とは 何の事ですが?
晦日 みそか の事です。
月の終わりを三十日 みそか と言います。12月は大晦日です。
みそなう と言う言葉は30本の縄を編む「なう」事でしょう。
月読の命が 土間つまり土で固めた床で 縄を編んでいた事でしょう?
明智光秀は天正10年6月2日に本能寺で織田信長を殺害してます。
その計画は明智光秀や斉藤利三らにより秘密裏に計画されたものでしよう。
みそかごとの意味とは?
長谷川 密事と書いて みそかごと と読みます。秘密の事です。
また つごもり 月が隠れる事 が月籠り とも言われています。
月末30日には月が隠れて真っ暗な夜になります。つまり闇夜の晩
は みそかごと をする密かに密会する意味も含まれています。
明智光秀は斉藤利三と みそかごと し信長討伐を計画したのでは
ないでしょうか?
明智光秀は岐阜県 時トキ 多羅タラ 出身と言う説もありますが?
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