戦争体験者がまた亡くなりました。弟は特攻隊で戦死し、兄は陸軍で招集され、大陸で終戦を迎えた方だといいます。その戦争体験は家族にもあまり語られていなかったようですが、話を聞いていた親戚が紹介していました。もう自分で語ることがない戦争体験。親戚は自分の戦歴を紹介してくれと言っているように思った」と言って話しだしました。おおよそ次のような内容でした。
20歳で徴兵検査に呼ばれて甲種合格。一人づつ「◯◯(名前)、甲種合格」と結果が通告され、その内容「◯◯、甲種合格」と復唱したのだといいます。合格を知った時、少し誇らしい気持ちが湧いてきた、と言っていました。召集された会津若松の大日本帝国陸軍の歩兵第29連帯(おそらく)に合流。移動の汽車代は支給されたと言っていました。ここで3ヶ月の新兵訓練。戦地に向けて出発したといいます。
移動する列車は鎧戸で覆われた列車で、どこに向かっているか分からなかった。どこかの港で輸送船に乗り込んだものの、夜間の乗船のためどこの港か分からず、上陸した場所もやはり分からなかった。上陸して再び列車に乗り、数日間移動後、下車を命じられた。そこからは何日も続く徒歩の行軍。2~3日過ぎた頃、遠くに発砲音を聞くようになったものの、「自分たちは大部隊」であり全然怖くなかったと言っていました。
やがて輜重(しちょう=食糧や武器弾薬の補給)が間に合わないので、食糧は現地で調達するよう命令が下った。中国人の民家などから調達した。また弾薬もなくなってきたので、敵と遭遇すると、切り込む作戦をとった。敵陣近くに匍匐(ほふく)前進し暗くなるのを待った。暗くなると「突撃」という指揮官が叫ぶ。「わー」と大声を上げて突っ込んだ。突撃するのは怖い。しかし指揮官の「突撃」の声が背中を押してくれた。突撃すると、敵兵はいなかった。大声に驚いて退却したようだった。これらのことで人の命を奪うことはなかった。
何ヶ月も行軍した後に「きょう国境を越える」と言われた。ベトナムの国境だった。ベトナムの農村部の様子は中国とは違ったと言っていました。やがてハノイ(サイゴン=現在のホーチミン、だったかも)に到着し、ここで初めて町の警護の命令を受けました。前の警護部隊は、別の地に移動していたためだったと言います。ハノイは小奇麗な町で、それまでと比べると任務は楽だったと言っていました。
ここで終戦を迎え、銃や武器は提出するよう命令されたといいます。武器がなくなりどうやって身を守るんだろう、と不安だったと言っていました。
おおよそ以上の内容です。記憶があやふやになったところもあり、少しことなる部分があるかもしれません。でも大きな間違いはないと思います。亡くなった方が別の機会、別の人に2時間ほどかけて戦争体験を語り、最後に「やっぱり平和が良い」と言っていたということも聞きました。
戦争体験を持った方が高齢となり、戦争体験を語れる方が少なくなってきます。こうした体験や遺品を収集・記録する最後の機会になっていることが実感されました。
さて昨日10日と9日には、いわき市文化センターで戦争遺品などを展示し平和を考える機会にするための「いわき平和のつどい」が開かれました。同実行委員会の主催です。アニメ「太陽をなくした日」などの上映、東京の三多摩青年合唱団のコンサート、元従軍看護婦の鈴木さんの証言などがありました。また勿来地区でも戦争体験の記録をすすめる取り組みが市民レベルで継続しています。
市民レベルではこうした取り組みがありますが、その取り組みには限界があります。子どもたちが日本の近代史を考える機会を提供するためにも、公的な取り組みも重要だと思います。いわき市原水爆禁止協議会など、このような市の取り組みをすすめることを求めていますが、その早期実現を求め続けていきたいと思います。
20歳で徴兵検査に呼ばれて甲種合格。一人づつ「◯◯(名前)、甲種合格」と結果が通告され、その内容「◯◯、甲種合格」と復唱したのだといいます。合格を知った時、少し誇らしい気持ちが湧いてきた、と言っていました。召集された会津若松の大日本帝国陸軍の歩兵第29連帯(おそらく)に合流。移動の汽車代は支給されたと言っていました。ここで3ヶ月の新兵訓練。戦地に向けて出発したといいます。
移動する列車は鎧戸で覆われた列車で、どこに向かっているか分からなかった。どこかの港で輸送船に乗り込んだものの、夜間の乗船のためどこの港か分からず、上陸した場所もやはり分からなかった。上陸して再び列車に乗り、数日間移動後、下車を命じられた。そこからは何日も続く徒歩の行軍。2~3日過ぎた頃、遠くに発砲音を聞くようになったものの、「自分たちは大部隊」であり全然怖くなかったと言っていました。
やがて輜重(しちょう=食糧や武器弾薬の補給)が間に合わないので、食糧は現地で調達するよう命令が下った。中国人の民家などから調達した。また弾薬もなくなってきたので、敵と遭遇すると、切り込む作戦をとった。敵陣近くに匍匐(ほふく)前進し暗くなるのを待った。暗くなると「突撃」という指揮官が叫ぶ。「わー」と大声を上げて突っ込んだ。突撃するのは怖い。しかし指揮官の「突撃」の声が背中を押してくれた。突撃すると、敵兵はいなかった。大声に驚いて退却したようだった。これらのことで人の命を奪うことはなかった。
何ヶ月も行軍した後に「きょう国境を越える」と言われた。ベトナムの国境だった。ベトナムの農村部の様子は中国とは違ったと言っていました。やがてハノイ(サイゴン=現在のホーチミン、だったかも)に到着し、ここで初めて町の警護の命令を受けました。前の警護部隊は、別の地に移動していたためだったと言います。ハノイは小奇麗な町で、それまでと比べると任務は楽だったと言っていました。
ここで終戦を迎え、銃や武器は提出するよう命令されたといいます。武器がなくなりどうやって身を守るんだろう、と不安だったと言っていました。
おおよそ以上の内容です。記憶があやふやになったところもあり、少しことなる部分があるかもしれません。でも大きな間違いはないと思います。亡くなった方が別の機会、別の人に2時間ほどかけて戦争体験を語り、最後に「やっぱり平和が良い」と言っていたということも聞きました。
戦争体験を持った方が高齢となり、戦争体験を語れる方が少なくなってきます。こうした体験や遺品を収集・記録する最後の機会になっていることが実感されました。
さて昨日10日と9日には、いわき市文化センターで戦争遺品などを展示し平和を考える機会にするための「いわき平和のつどい」が開かれました。同実行委員会の主催です。アニメ「太陽をなくした日」などの上映、東京の三多摩青年合唱団のコンサート、元従軍看護婦の鈴木さんの証言などがありました。また勿来地区でも戦争体験の記録をすすめる取り組みが市民レベルで継続しています。
市民レベルではこうした取り組みがありますが、その取り組みには限界があります。子どもたちが日本の近代史を考える機会を提供するためにも、公的な取り組みも重要だと思います。いわき市原水爆禁止協議会など、このような市の取り組みをすすめることを求めていますが、その早期実現を求め続けていきたいと思います。
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