けっこう疲れました。
一昨日にいわき市に入り、市内を行進した国民平和大行進は、きょうで市内の行動を終えて茨城県に引き継がれました。この最後の行動で、けっこう歩いたものですから。
平和行進は、核兵器廃絶をめざして1958年から続いている取り組みで、現在は8月6日、9日の広島と長崎をめざして国内を歩き続けています。「現在は」というのは、第1回の平和行進が広島から東京に歩いていたからです。
いわき市を通過するのは、北海道礼文島を出発して東京までリレーするコース。毎年6月末にいわき市を通過しています。
きょう参加したのは、小名浜生協病院から小名浜市街地にある横町公園までのコースと、
植田駅前から勿来市民会館までのコース。
小名浜コースではおおよそ70人が、「核兵器を廃絶せよ」などとシュプレヒコールをしながら行進。通りかかった高校生らが、めずらしそうな視線を向けながら「こんにちは」なんて、行進に声をかけてきて、挨拶を交わしながらの行進となりました。
カメラを向けられて思わずそちらを見てしまい、完全にカメラ目線。
実際は真面目に歩いていたのです。撮影してくれた方がいてデータをいただきました。この頃はまだ疲れが貯まる前で元気そうに見えます。
勿来コースは約20人で歩きました。出発前には、JR植田駅前で署名行動がありました。植田駅前に到着すると「伊藤さんしゃべって」とマイクを渡されました。
しばらく核兵器問題に関するものは読んでいないし、頭の中には話の材料はほぼなし。「えーっ」と思いながらも、四苦八苦して署名への協力を呼びかけました。
「核兵器を世界から無くすことを呼びかけて歩き続ける国民平和大行進です」と前置きしながら、広島、長崎が核兵器を投下されて20万人もの犠牲者を出し、その上1958年にビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験で3度目の犠牲者を出したこと。この時から核兵器廃絶を願って平和行進が始まり、こうした核兵器廃絶の願いが世界の平和運動も、そして世界の国々も核兵器廃絶に向けて突き動かしてきたこと。さらに、核兵器にしがみつく核保有国を核兵器廃絶の流れに巻き込んでいくために、核兵器廃絶の願いを署名に込めてほしい。
こんなお話しをさせていただきました。
またこんなバージョンも。
核兵器廃絶は多くの被爆国日本では多くの国民の願いであるにもかかわらず、これに逆行して日本の核兵器保有を主張する人々がいること。核兵器を作るために必要なプルトニウムは原発で生じること。原発事故を体験した福島県民、いわき市民にとって原発の廃炉は共通する願いだが、これに反して再稼働がすすむのは、日本の核兵器保有のためには必要な条件となること。日本の核武装を主張する人々を追い込んでいくために、原発の廃炉の願いもこめて核兵器廃絶を求める署名に協力してほしい。
こんなお話しです。
100人ほどの方が署名をしてくださったようです。ありがとうございます。
その後、行進に移りました。でも、まだ「届出の時間にならないから」と警備の警察官から足止めされて5分程待機。
道路が狭いこともあって1列での行進です。
足がつかれたなぁー。そんなふうに思いだした頃に勿来市民会館に到着しました。YAHOO!地図で計測してみると、小名浜コースがおおよそ2.9Kmで、勿来コースが2.2Km、合計で5.1Kmの行進。これだけしか歩いていません。でも、普段から運動不足です。これだけの距離で足に疲労がたまるのも無理がないことでしょう。
作成中の議会報告に常磐共同火力勿来発電所の写真を使いたいと思っていました。そこで、小名浜から勿来に移動する途中、撮影ポイントを探しながら小浜地区を通りかかりました。震災で津波に襲われた地区です。海岸の防波堤工事はほぼ終わったようで、市街地になる部分の整備がすすんでいました。
その小浜の道の脇っちょにオレンジ色の花が咲いていました。ヤブカンゾウです。遠野のいつもの散歩道ではまだ固いつぼみのままです。
小浜を通り過ぎ、やはり津波被害のあった岩間地区に入り、ここで常磐共同火力を海側から撮りました。平和行進の時、鮫川橋を通過した時にも絶好の撮影ポイントに気づき、列を抜け出しこちらでもパチリ。議会報告には鮫川橋の写真を使うことにします。でもここには海側からの写真を・・。
さて朝の散歩の時は雨降りでした。
そうそう、この時に、こんな心配をしていたんですよ。
実は今から36年も前になりますか、原水爆禁止世界大会が初めて長崎で開催された、その記念すべき大会に、当時所属していた労働組合青年部の代表の1人として参加することになったので、そこにつながる平和行進はできるだけ歩こうと考えました。当時は横浜市に住んでいました。
休暇もとって歩いたのは、まず、第5福竜丸展示場がある東京都江東区夢の島から出発し、どこまで歩いたのか、そう銀座あたりだったか・・平和行進のスタートにあたる行進です。この行進の隊列は、それこそ延々と続いていました。隊列の周りでビラ配布をするように言われて、周辺の商店や歩行者に配りながら歩いたことを覚えています。
次は、神奈川県に入ってから。京浜急行生麦駅からベトナム戦争に送り出す戦車を船に積み込もうとする米軍をピケをはって阻止したという横浜・本牧ふ頭までのコース。次が横浜市緑区あたりのコース。そして最後に湯河原駅から静岡県に引き継ぐコース。
横浜での平和行進はとにかく歩き続けたのです。1日5時間から6時間程度歩き続けた。そんな記憶があります。もっとも最後の引き継ぎコースは、わずか2、3分、距離にして数百メートルの短いコースでしたけど。
で、この生麦から本牧のコースがひどかった。朝から土砂降りの雨。傘をさしても吹き上げる雨で胸下あたりまでビシャビシャ。道路は川のように水が流れ、ビチャビチャと水を蹴りながら歩く。最悪のコンデションでした。
ま、この頃はまだ若かったので、悪条件の中でこそ行進を続けることが大切なんだと半ば英雄的な気分で歩いていましたが、午後3時頃かな、いやもっと遅かったか・・本牧に着いた時には感動したことを覚えています。
そして8月の長崎大会。この年最後の平和行進が大会参加者などで実施されました。40分程の行進だったように記憶しています。歩き始めたら何と夕立が来て、歩き終わる頃に晴れあがるという、まるで行進を狙ったかのような雨降りでした。けっこう強い雨。雨具を用意していなかったので、頭から靴先までビショビショ。青紫の帽子が色落ちしてTシャツがその色に染まってしまったことを覚えています。
こんな体験をしているものだから、平和行進に参加イコール雨の印象が強くて、この雨降りはきょう自分が平和行進に参加するからなのではないか。そんなふうに心配していたんです。いわゆる雨男です。
でも小名浜の行進も、勿来の行進も、曇ってはいたけど、雨は降らなかった。雨男の称号は返上してしまおうと思います。
それはともかく朝の散歩は雨の中です。カタツムリに協力してもらって、梅雨らしい雰囲気の写真を演出させていただきました。アジサイにコハクオナジマイマイです。
湿り気が好条件なのでしょう。キノコも次々とのびてきます。
ハナオチバタケ。これは褐色ですが、赤っぽいものもあるようです。
そしてナメコのようなこのキノコは何というのか分かりませんが・・。
明日の朝は何が見つかるか。
一昨日にいわき市に入り、市内を行進した国民平和大行進は、きょうで市内の行動を終えて茨城県に引き継がれました。この最後の行動で、けっこう歩いたものですから。
平和行進は、核兵器廃絶をめざして1958年から続いている取り組みで、現在は8月6日、9日の広島と長崎をめざして国内を歩き続けています。「現在は」というのは、第1回の平和行進が広島から東京に歩いていたからです。
いわき市を通過するのは、北海道礼文島を出発して東京までリレーするコース。毎年6月末にいわき市を通過しています。
きょう参加したのは、小名浜生協病院から小名浜市街地にある横町公園までのコースと、
植田駅前から勿来市民会館までのコース。
小名浜コースではおおよそ70人が、「核兵器を廃絶せよ」などとシュプレヒコールをしながら行進。通りかかった高校生らが、めずらしそうな視線を向けながら「こんにちは」なんて、行進に声をかけてきて、挨拶を交わしながらの行進となりました。
カメラを向けられて思わずそちらを見てしまい、完全にカメラ目線。
実際は真面目に歩いていたのです。撮影してくれた方がいてデータをいただきました。この頃はまだ疲れが貯まる前で元気そうに見えます。
勿来コースは約20人で歩きました。出発前には、JR植田駅前で署名行動がありました。植田駅前に到着すると「伊藤さんしゃべって」とマイクを渡されました。
しばらく核兵器問題に関するものは読んでいないし、頭の中には話の材料はほぼなし。「えーっ」と思いながらも、四苦八苦して署名への協力を呼びかけました。
「核兵器を世界から無くすことを呼びかけて歩き続ける国民平和大行進です」と前置きしながら、広島、長崎が核兵器を投下されて20万人もの犠牲者を出し、その上1958年にビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験で3度目の犠牲者を出したこと。この時から核兵器廃絶を願って平和行進が始まり、こうした核兵器廃絶の願いが世界の平和運動も、そして世界の国々も核兵器廃絶に向けて突き動かしてきたこと。さらに、核兵器にしがみつく核保有国を核兵器廃絶の流れに巻き込んでいくために、核兵器廃絶の願いを署名に込めてほしい。
こんなお話しをさせていただきました。
またこんなバージョンも。
核兵器廃絶は多くの被爆国日本では多くの国民の願いであるにもかかわらず、これに逆行して日本の核兵器保有を主張する人々がいること。核兵器を作るために必要なプルトニウムは原発で生じること。原発事故を体験した福島県民、いわき市民にとって原発の廃炉は共通する願いだが、これに反して再稼働がすすむのは、日本の核兵器保有のためには必要な条件となること。日本の核武装を主張する人々を追い込んでいくために、原発の廃炉の願いもこめて核兵器廃絶を求める署名に協力してほしい。
こんなお話しです。
100人ほどの方が署名をしてくださったようです。ありがとうございます。
その後、行進に移りました。でも、まだ「届出の時間にならないから」と警備の警察官から足止めされて5分程待機。
道路が狭いこともあって1列での行進です。
足がつかれたなぁー。そんなふうに思いだした頃に勿来市民会館に到着しました。YAHOO!地図で計測してみると、小名浜コースがおおよそ2.9Kmで、勿来コースが2.2Km、合計で5.1Kmの行進。これだけしか歩いていません。でも、普段から運動不足です。これだけの距離で足に疲労がたまるのも無理がないことでしょう。
作成中の議会報告に常磐共同火力勿来発電所の写真を使いたいと思っていました。そこで、小名浜から勿来に移動する途中、撮影ポイントを探しながら小浜地区を通りかかりました。震災で津波に襲われた地区です。海岸の防波堤工事はほぼ終わったようで、市街地になる部分の整備がすすんでいました。
その小浜の道の脇っちょにオレンジ色の花が咲いていました。ヤブカンゾウです。遠野のいつもの散歩道ではまだ固いつぼみのままです。
小浜を通り過ぎ、やはり津波被害のあった岩間地区に入り、ここで常磐共同火力を海側から撮りました。平和行進の時、鮫川橋を通過した時にも絶好の撮影ポイントに気づき、列を抜け出しこちらでもパチリ。議会報告には鮫川橋の写真を使うことにします。でもここには海側からの写真を・・。
さて朝の散歩の時は雨降りでした。
そうそう、この時に、こんな心配をしていたんですよ。
実は今から36年も前になりますか、原水爆禁止世界大会が初めて長崎で開催された、その記念すべき大会に、当時所属していた労働組合青年部の代表の1人として参加することになったので、そこにつながる平和行進はできるだけ歩こうと考えました。当時は横浜市に住んでいました。
休暇もとって歩いたのは、まず、第5福竜丸展示場がある東京都江東区夢の島から出発し、どこまで歩いたのか、そう銀座あたりだったか・・平和行進のスタートにあたる行進です。この行進の隊列は、それこそ延々と続いていました。隊列の周りでビラ配布をするように言われて、周辺の商店や歩行者に配りながら歩いたことを覚えています。
次は、神奈川県に入ってから。京浜急行生麦駅からベトナム戦争に送り出す戦車を船に積み込もうとする米軍をピケをはって阻止したという横浜・本牧ふ頭までのコース。次が横浜市緑区あたりのコース。そして最後に湯河原駅から静岡県に引き継ぐコース。
横浜での平和行進はとにかく歩き続けたのです。1日5時間から6時間程度歩き続けた。そんな記憶があります。もっとも最後の引き継ぎコースは、わずか2、3分、距離にして数百メートルの短いコースでしたけど。
で、この生麦から本牧のコースがひどかった。朝から土砂降りの雨。傘をさしても吹き上げる雨で胸下あたりまでビシャビシャ。道路は川のように水が流れ、ビチャビチャと水を蹴りながら歩く。最悪のコンデションでした。
ま、この頃はまだ若かったので、悪条件の中でこそ行進を続けることが大切なんだと半ば英雄的な気分で歩いていましたが、午後3時頃かな、いやもっと遅かったか・・本牧に着いた時には感動したことを覚えています。
そして8月の長崎大会。この年最後の平和行進が大会参加者などで実施されました。40分程の行進だったように記憶しています。歩き始めたら何と夕立が来て、歩き終わる頃に晴れあがるという、まるで行進を狙ったかのような雨降りでした。けっこう強い雨。雨具を用意していなかったので、頭から靴先までビショビショ。青紫の帽子が色落ちしてTシャツがその色に染まってしまったことを覚えています。
こんな体験をしているものだから、平和行進に参加イコール雨の印象が強くて、この雨降りはきょう自分が平和行進に参加するからなのではないか。そんなふうに心配していたんです。いわゆる雨男です。
でも小名浜の行進も、勿来の行進も、曇ってはいたけど、雨は降らなかった。雨男の称号は返上してしまおうと思います。
それはともかく朝の散歩は雨の中です。カタツムリに協力してもらって、梅雨らしい雰囲気の写真を演出させていただきました。アジサイにコハクオナジマイマイです。
湿り気が好条件なのでしょう。キノコも次々とのびてきます。
ハナオチバタケ。これは褐色ですが、赤っぽいものもあるようです。
そしてナメコのようなこのキノコは何というのか分かりませんが・・。
明日の朝は何が見つかるか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます