きょうは「元の生活をかえせ・原発被害いわき市民訴訟原告団」が提訴した、東電・国の謝罪と損害賠償などを求める裁判の第12回公判が開かれ、原告らが口頭陳述を行いました。
約100人が裁判前集会会場の飯野八幡宮の八幡宮会館に集まって集会後、地裁いわき支部までデモ行進。「公正な裁判の実現」や「現地調査」などを求め声をあげました。私も参加しました。
その前日夕刻からは、同原告団等が主催した「原発事故から学ぶつどい」が開かれ、元朝日新聞記者で国会事故調の調査なども担当した添田孝史さんが「原発と大津波・警告を葬った人々」と題した講演を聞きましたが、これがなかなか面白かった。東電や国は、津波による深刻な事態を予測できながら、津波対策を怠ってきたことが、震災後に公開された資料等で明らかになっていることが浮き彫りになっていたからです。
どんなことか。
東電福島第一原子力発電所(以下、福一)は30mあった岩盤を10mまで掘り下げて設置され、この時の設置許可申請では、既往最大で多少の安全余裕をもって津内の想定は3.1mとされていました。そして、炉心冷却に重要な役割を果たす海水ポンプは海面から5.6mに設置されていました。3.11の大津波では遡上高13mの津波が押し寄せたため海水ポンプや配電盤、そして非常用ディーゼル発電機など冷却系が壊滅。1号機から3号機まで核燃料が溶け落ちるメルトダウンを引き起こしてしまったわけです。
ところがこの申請にはもともと大きな瑕疵がありました。津波は場所によって大きな違いにもかかわらず、この想定は55kmも離れた小名浜港でのわずか12年間の観測結果をもとにした想定だったというのです。
ところがこの後、津波の研究がすすみました。1995年には、電力土木技術協会の「火力・原子力発電所土木構造物の設計増補版」では、「条件によっては平坦な海岸線のところでも大きな増幅」があるとする認識が示されるようになりました。
ところが東京電力や国は、このすすんだ津波研究を、第一原発に生かすことはなかったというのです。
津波対策では二つの津波が考慮される必要があることがやがて明らかになります。一つが869年の貞観地震、もう一つが津波地震でした。
貞観地震に対する評価では1944年に東電が発表した報告では、東北電力が女川原発で行った調査と評価をもとに福一に適用させ、1611年の岩手県沖を震源とした慶長三陸地震の「津波を上回らなかったと考えられる」と結論していたというのです。福一から90kmも離れた場所のデータだといいます。
これに対し2008年には東京大学の佐竹教授が書いた論文で東電側が計算した結果、同11月には貞観地震の津波は計算水位が8.6mから9.2m(これを東電が標準的に行う計算方法では3割程度高くなり福一1号機から4号機のの敷地高を超える)となることを知り、また翌年、保安院にも説明しているにもかかわらず、これを無視していたというのです。
事故当時の福一の吉田所長は、「保安院とエネ庁の中で、やるだの、やらないだの、くだらないことをやっていたんです」と証言していたことは、東電も津波の危険を知っていたことを示すようです。
それでも対策をしなかった。その理由は、2007年の柏崎・刈羽原発を襲った地震被害をきっかけに2008年まで2期連続、赤字に陥っていたとい背景が説明されました。
おまけに東電は、2011年に文科省が行った長期評価に対して、「貞観地震が繰り返し発生しているように読めるので、表現を工夫していただきたい」と圧力をかけ、書き換えまでさせていたのだというから驚きです。
もう一つの津波地震でも、1997年の「太平洋沿岸部地震防災計画手法調査報告書」いわゆる七省庁手引きでは、「想定しうる最大規模の地震津波を検討し、既往最大津波との比較検討を行った上で、常に安全側の発想から対象津波を想定すること」とされており、これにもとづき国土庁と日本気象協会がまとめた福一の津波浸水予想図では1号機から4号機まで浸水する予測がされていました。
ところがこれに電事連等が危機感を持って打ち消しに走り、2002年に土木学会(委員30人中半数以上が電力関連という)に波高を低く出す評価をさせたといいます。その後2008年には、東北大の今村教授から大地震の発生を考慮するよう求められても、「荒唐無稽とおっしゃる人もたくさんいて」(2011年、吉田調書)と握りつぶし、結果、何の対応もとらなかったといいます。
こうした東電の対応が事故につながりました。
東海第二発電所は、1677年の延方房総沖地震で茨城県が5.7mの波高と評価を発表したことを受け、元の想定であった4.7mにもとづく取水口の防護壁を嵩上げし、震災2日前に工事を完了していました。この結果、3.11地震で津波が押し寄せてもメルトダウンに至る事故を起こすには至らなかったのとは対照的だったようです。
東電にしても少なくとも2008年以降に非常用発電機の保護やバッテリーの確保などの対応は可能だったと、添田さんは指摘していました。
講演を聞いて福一に対する東京電力の対応は犯罪的と、あらためて思いました。やるべきことをやらずに、5年たっても消え去ることがない大事故をおこし、多くの住民に被害を与え続けているのですから。かねてから東電に、また国に、今回の事故は人災なのだからそのことを認め、その立場に立った対応をするよう求めていますが、東電も、国も人災であることを認めようとしません。
今回の講演を聞いて、その姿勢にあらためて怒りが湧いてくるようです。
約100人が裁判前集会会場の飯野八幡宮の八幡宮会館に集まって集会後、地裁いわき支部までデモ行進。「公正な裁判の実現」や「現地調査」などを求め声をあげました。私も参加しました。
その前日夕刻からは、同原告団等が主催した「原発事故から学ぶつどい」が開かれ、元朝日新聞記者で国会事故調の調査なども担当した添田孝史さんが「原発と大津波・警告を葬った人々」と題した講演を聞きましたが、これがなかなか面白かった。東電や国は、津波による深刻な事態を予測できながら、津波対策を怠ってきたことが、震災後に公開された資料等で明らかになっていることが浮き彫りになっていたからです。
どんなことか。
東電福島第一原子力発電所(以下、福一)は30mあった岩盤を10mまで掘り下げて設置され、この時の設置許可申請では、既往最大で多少の安全余裕をもって津内の想定は3.1mとされていました。そして、炉心冷却に重要な役割を果たす海水ポンプは海面から5.6mに設置されていました。3.11の大津波では遡上高13mの津波が押し寄せたため海水ポンプや配電盤、そして非常用ディーゼル発電機など冷却系が壊滅。1号機から3号機まで核燃料が溶け落ちるメルトダウンを引き起こしてしまったわけです。
ところがこの申請にはもともと大きな瑕疵がありました。津波は場所によって大きな違いにもかかわらず、この想定は55kmも離れた小名浜港でのわずか12年間の観測結果をもとにした想定だったというのです。
ところがこの後、津波の研究がすすみました。1995年には、電力土木技術協会の「火力・原子力発電所土木構造物の設計増補版」では、「条件によっては平坦な海岸線のところでも大きな増幅」があるとする認識が示されるようになりました。
ところが東京電力や国は、このすすんだ津波研究を、第一原発に生かすことはなかったというのです。
講演する添田さん
津波対策では二つの津波が考慮される必要があることがやがて明らかになります。一つが869年の貞観地震、もう一つが津波地震でした。
貞観地震に対する評価では1944年に東電が発表した報告では、東北電力が女川原発で行った調査と評価をもとに福一に適用させ、1611年の岩手県沖を震源とした慶長三陸地震の「津波を上回らなかったと考えられる」と結論していたというのです。福一から90kmも離れた場所のデータだといいます。
これに対し2008年には東京大学の佐竹教授が書いた論文で東電側が計算した結果、同11月には貞観地震の津波は計算水位が8.6mから9.2m(これを東電が標準的に行う計算方法では3割程度高くなり福一1号機から4号機のの敷地高を超える)となることを知り、また翌年、保安院にも説明しているにもかかわらず、これを無視していたというのです。
事故当時の福一の吉田所長は、「保安院とエネ庁の中で、やるだの、やらないだの、くだらないことをやっていたんです」と証言していたことは、東電も津波の危険を知っていたことを示すようです。
それでも対策をしなかった。その理由は、2007年の柏崎・刈羽原発を襲った地震被害をきっかけに2008年まで2期連続、赤字に陥っていたとい背景が説明されました。
おまけに東電は、2011年に文科省が行った長期評価に対して、「貞観地震が繰り返し発生しているように読めるので、表現を工夫していただきたい」と圧力をかけ、書き換えまでさせていたのだというから驚きです。
もう一つの津波地震でも、1997年の「太平洋沿岸部地震防災計画手法調査報告書」いわゆる七省庁手引きでは、「想定しうる最大規模の地震津波を検討し、既往最大津波との比較検討を行った上で、常に安全側の発想から対象津波を想定すること」とされており、これにもとづき国土庁と日本気象協会がまとめた福一の津波浸水予想図では1号機から4号機まで浸水する予測がされていました。
ところがこれに電事連等が危機感を持って打ち消しに走り、2002年に土木学会(委員30人中半数以上が電力関連という)に波高を低く出す評価をさせたといいます。その後2008年には、東北大の今村教授から大地震の発生を考慮するよう求められても、「荒唐無稽とおっしゃる人もたくさんいて」(2011年、吉田調書)と握りつぶし、結果、何の対応もとらなかったといいます。
こうした東電の対応が事故につながりました。
東海第二発電所は、1677年の延方房総沖地震で茨城県が5.7mの波高と評価を発表したことを受け、元の想定であった4.7mにもとづく取水口の防護壁を嵩上げし、震災2日前に工事を完了していました。この結果、3.11地震で津波が押し寄せてもメルトダウンに至る事故を起こすには至らなかったのとは対照的だったようです。
東電にしても少なくとも2008年以降に非常用発電機の保護やバッテリーの確保などの対応は可能だったと、添田さんは指摘していました。
講演を聞いて福一に対する東京電力の対応は犯罪的と、あらためて思いました。やるべきことをやらずに、5年たっても消え去ることがない大事故をおこし、多くの住民に被害を与え続けているのですから。かねてから東電に、また国に、今回の事故は人災なのだからそのことを認め、その立場に立った対応をするよう求めていますが、東電も、国も人災であることを認めようとしません。
今回の講演を聞いて、その姿勢にあらためて怒りが湧いてくるようです。
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