伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

「処理」と「対応」

2019年09月12日 | 市議会
 提出された意見書の多くに会派として賛成できるのだが、何件かは若干の疑義があり、文言の加筆あるいは修正を求めることになった。

 会派の他のメンバーが提出会派と話し合ったのだが、1件の意見書では、加筆することで提出した意図がゆがめられるということで、求めに応じられることはないという報告がされた。

 話を聞いていると、加筆ではなく、文言の削除によって、互いの意見が生きるような感じがあったので、その提案をもってくだんの会派担当者と意見交換をした。

 すると削除することも、意見書で主張していることの一つが欠けてしまうので、それも応じられないという。

 その部分が表現しているのは、国の段階で選択肢の一つとして検討を進めている複数の事項を前提に、どの事項が結論になったとしても、そのことで発生する問題に対する対応策を検討することを求めるということなのだという。この説明を聞けば、賛同しても問題がないようにも感じるのだが少し違和感が残る。その違和感は何なのか。意見交換をする中で、一つの単語にその違和感の根源があるということが分かってきた。

 その単語は「処理」という言葉だ。提出会派はこの処理という言葉は、国の段階で選択肢として検討を進めている事項の全てを受け止めている言葉だという。

 「処理の言葉をどう捉えているのか」と問われたとき、手元に辞書があったわけでもないので、その言葉の印象である「目の前から全てがなくなること」と答えた。国が検討している事項は、最終処分を先延ばしする中間的な処置から最終的な処分までを含む複数となっている。私の「処理」という言葉の印象には、中間的な処分が見えてこないのだ。

 そのことを伝え、それまでの加筆の提案を引っ込め、言葉を「処理」から「対応」に変更することをあらためて求めた。提出会派はどんな結論を出してくるのか、期待を持って見ていたい。


 さて、その意見交換を終え、会派に元取ってから辞書で言葉の意味を調べてみた。

 すると、「処理」の意味は「物事を取りさばいて始末をつけること。」とあった。「始末をつける」・・つまり最終処分の印象が強くなる。中間的処理はとりあえずの処置に過ぎず、「始末をつける」ことにならない。「処理」とすることで、最終的な「始末」、つまり最終処分、現時点で有力とされているのが薄めた処理水を海洋に放流する処置を予感させることになる。

 一方、「対応」は「周囲の状況などに合わせて事をすること」という意味になる。この言葉となるならば、住民の声を踏まえることも、「中間処理」的な対応となることも、また、最終処分となることも、この問題に関する事象全てを包含することができる。

 辞書を引いてその事は確認できた。

 意見書の他の部分には無条件で賛同できる。「処理」を「対応」に変更してもらい、この意見書に賛成することができるようになってほしいものだ。


 市議会が始まった日の朝。晴れ上がった空に浮かぶ雲が虹色に染まった。彩雲だ。






 夕方の空。午後7時頃。薄くかかったクモを通して月が見えた。




 うん、明日が十五夜・・なの。

 明日は満月だ。


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