伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

4月5日付け議員だよりです。

2020年04月01日 | 市議会
震災から9年の追悼式
追悼・復興のあり方考えさせた遺族の言葉



 東日本大震災から9年目、震災後毎年続けられてきた「追悼式」が3月11日開催されました。新型コロナウイルス・CОVID‐19の感染が、全国的に拡大する中、規模を縮小して開催された式場には、手を消毒しマスク着用の上で入場し、隣との間隔をあけて着席するなど、感染拡大に十分配慮した式典となりました。


「声が聞こえる」
 遺族代表の追悼は、この言葉で始まりました。

 代表は、娘・姫花さんとお母さんを津波で亡くした鈴木貴さん。震災後、娘さんが描いた塩屋崎灯台をプリントしたハンカチを販売、売上金を市に寄付し復興支援を続けた方でもあります。

声が聞こえる
10歳の娘の愛くるしい笑顔
パパと私を呼ぶ声が聞こえる

声が聞こえる
62歳の母。厳しい・・
しかりつける声が聞こえる

いっしょにご飯を食べていた・・・・・

時々夢に出てきてくれる
夢でも会えたことがうれしくて
目が覚め、自然と涙が出てくる

・・・・・

毎日線香をあげています
ひめちゃん
おばあちゃん
いっしょに天国に行ってください


 全部を書き留める事はできませんでした。正確さにも欠けるとは思います。しかし、紡ぎ出される言葉に、ご遺族の、娘さんを思い、お母さんを思い、失われた日々を悼む心が伝わるものと思います。

黙祷・献花で慰霊

 追悼式は、例年、政府主催の追悼式の放送に合わせて、震災発災の午後2時46分に黙とう後、いわき市の式典が執り行われてきました。

 今年はCОVID‐19が拡大する中で、政府主催追悼式は中止。代わって官邸から放送された首相の追悼の辞の後、黙祷を実施、いわき市の式典に移りました。

 式典は、市長の式辞と遺族及び市議会議長による追悼の辞の後、遺族の献花、閉会後に自由献花の時間が設けられる、簡素な式典となりました。

 出席した市議会議員は、自由献花で犠牲者に花を手向け慰霊しましたが、鈴木さんの言葉に、10年目以降の慰霊のあり方をあらためて考えさせられました。

9年過ぎた歳月も追悼の一里塚

 ご遺族と娘さんとの最後の会話は、あの日の朝の「行ってきます」「行ってらっしゃい」だったといいます。それから9年間、言葉を交わしたくても交わすことができない時間を過ごしてきました。

 その9年間を打ちひしがれることなく過ごすことができたのは、娘さんやお母さんを忘れたからではないといいます。天国に行った震災犠牲者である「彼ら、彼女らが生きろと支えていてくれるからだ」、ご遺族はこういいました。

 復興が進み、震災で失われた町の様子もすっかり変わりました。政府は来年10年目を迎える追悼式を契機に、今後の追悼のあり方の検討をすすめていくと表明しています。

 しかし、ご遺族にとっては、10年が経っても、家族を失った悲しみが癒えることはありません。ご遺族にとっての9年目の追悼式は、長く続く追悼の心の通過点・一里塚にすぎないようなのです。

希望に応えられているのだろうか

 ご遺族は言いました。
 「これから10年、20年、花を手向ける場が変わろうとも、追悼し続ける事を誓う」

 ご遺族の言葉には、終わりのない被災者の哀しみが見えたように思います。その思いに寄り添う、追悼のあり方が問われることになるのでしょう。

 娘さんのハンカチは明るい黄色地に、あふれる笑顔が描かれている。込められた思いは希望でしょう。この思いに応える復興が進んでいるのでしょうか。

 新年度予算に関して市は「復興の総仕上げ」と言っています。被災地にコミュニティーは戻らず、原発事故で新たにトリチウム水の処理が問題になっている時に、「復興の総仕上げ」と言えるのか。追悼の辞を聴きながら、改めて被災者に心を寄せて、本市の復興を見据えることの大切さを実感しました。

文=伊藤浩之


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