伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

座談会

2016年10月14日 | 市議会
 慌ただしかった。

 午前11時から各派代表者会議。その前に少し準備もしておかなければならない。これに合わせて用事を済ませなければならない。そのためには遠野支所、上遠野公民館、勿来支所、そして福島県警のいわき南警察署を回らなければならない。それに要した時間は2時間弱。その慌ただしさのためか、午前からもうヘトヘトという感じでスタートした日でした。

 結局、準備した内容は今日のところは利用しなかったので、結果から見ればそんなに焦らなくても良かったみたいです。

 各派代表者会議が終わり、午後3時30分からはいわき市議会50年誌掲載のための座談会。これを迎えるにあたって、少し記憶を呼び覚ますために、資料に目を通して置かなければなりません。そんなこんなで時間を過ごし、座談会を迎えました。

 そのテーマは「東日本大震災に対する取り組みについて」。震災後に設置された東日本大震災復興特別委員会で3つ設置された分科会のうち、「防災まちづくり及び原子力災害対策」に関する分科会の副分科会長だったことからの座談会メンバー入りでした。

 座談会のコーディネーターから振られた最初の発言テーマが、どこで東日本大震災の発災を迎えたか。あの時の情景は、まぶたの奥に焼き付いています。映像化できるのであれば、そのまま見せてあげたい。そんな気持ちもありますけど無理な話。思い出しついでにブログにも書いておこうと思います。



 発災した2011(平成23)年3月11日は、中学校の卒業式がある日で、いわき市議会は休会となっていました。

 午前中に上遠野中学校の卒業式に出席し、知人の卒業記念の写真を撮ってあげた後、ガソリンスタンドで満タンに給油し、午後からは文化センター2階の会議室で行われた重税反対集会に、党を代表してあいさつをするために出席していました。

 その集会が今まさに終わらんとする時、そう団結がんばろうの最中だったか、終わった直後だったのか、その時に大きな揺れが始まりました。会場に居た人たちの大きく揺さぶられるその情景は、いまも目に焼き付いています。腰掛けていた人は長机にしがみついたまま右に左に揺すぶられ、立って居た人は座ることもままならず、よろめきながら揺れに弄ばれていました。キャスターがついた放送機器の入った棚も同じく揺さぶられ、危険を感じていたことを思い出します。

 最も棄権を感じたのは、窓際に立っている人たちでした。窓ガラスが破れたら命にかかわる。そんな声が頭をよぎったことを思い出しますが、実際に声をだすこともできませんでした。

 長い揺れでした。後で何かで読んだのですが、6分間にわたって揺さぶられ続けていました。

 揺れがおさまり、本来ならデモ行進に移るのですが、それどころではありません。まずは外に避難しようということで、階段に向かうのですが、非常口を示すプレートが天井からはずれ、揺れが収まった跡もプラプラと揺れているのを見た時にはぞっとしました。

 戸外に出て目を疑いました。文化センターの正面入口に向かうアプローチにはられたタイルが波打っています。「いったいどなっているのだろう」。市役所にいけば何か分かるかもしれないと思いながら、歩く道路はところどころがひび割れていました。尋常ではない災害を感じながら、議会棟前に到着すると、職員たちは戸外に避難していました。議会棟前には議員達もいました。

 何の情報も伝えられない中、思いついて車のナビのテレビをつけると、津波警報が出ていることが分かりました。太平洋沿岸に黄色い線がひかれた映像を思い出します。

 そこに30分程いたでしょうか。結局、それ以上の情報も伝わらない中、遠野の状況を把握しなければならないと思い立ちました。

 自宅が勿来地区の海岸に近いところにある議員が、家族と連絡がつかないと心配だけれど電車できたために交通手段もないと言っていたので、勿来支所まで送った上で遠野に帰ることにしました。

 市役所を出た時間は3時30分頃だったでしょうか。

 市道の内郷平線から国道49号線のバイパスに上がり、国道6号線のバイパスに入りました。小名浜金成地区前までは比較的順調に走ることができましたがやがて渋滞に捕まりました。後で6号バイパスの橋の部分で段差ができてしまい通行不能になっていたことを知りました。

 渋滞に捕まっているわけにも行かないので迂回することにしました。ここは記憶が定かではないのですが、おそらくバイパスから鹿島地区に降り、エブリアの脇を通って小名浜金成地区の中を通る市道に進んだと思います。

 ここでも渋滞に捕まりましたが、少しづつではあれ、前にすすんでいました。この渋滞を逃れて玉川地区を通って、その後、野田、小名浜島から泉町、陸前浜街道とすすんだのだったか、それとも常磐下船尾、西郷とすすんで陸前浜街道とすすんだのか、その記憶は定かではなくなっていますが、とにかく陸前浜街道(県道56号線)を通って勿来方面に向かいました。

 その沿道で、大谷石の塀が倒壊していたり、電柱が傾斜していたり、震災で破壊された沿道の様子に驚きながら、道をすすんだ記憶があります。

 陸前浜街道で江畑に到着。そこから今度は県道10号線で中岡町を通って錦町方面に向かいました。道は渋滞していたものの、ノロノロでも前に進んでいました。鮫皮にかかる橋の上を通過する時、川が渦巻いている様子を見た記憶があります。

 錦町に入り、クレハ化学脇からトヨタカローラいわき脇から旧6号国道に入り、そこから20分程の時間をかけて勿来支所に到着したのが、だいたい17時30分頃だったと思います。支所の保健福祉センター内は雑然とし、おそらく避難所の開設等の業務に携わっていたのでしょう、薄暗い部屋の中には誰もいなかったことを覚えています。

 そこから遠野支所をめざします。植田町から遠野町までを県道いわき上三坂小野線(県道20号線)を使おうと思っても、旧6号が渋滞しているし、おそらくその先にも渋滞があるだろうことは容易に想像できます。そこで、勿来支所から南下して国道289号線に入り、三沢町から沼部町に抜けるコースを頭に浮かべました。

 ところがこのコースを行ってみると、沼部町に入ろうとする地点で渋滞しまったく前にすすみません。

 業を煮やしてUターン。289号線から田人町に抜け遠野町に帰着する道をたどりました。こちらは順調にすすむことができ、遠野支所についたのは19時を過ぎていました。

 支所には職員やたちが待機していました。水道も出ているし、一時停電があったものの復旧したこと、遠野町では避難者がなく、ストックしている毛布を四倉町に運んでいること、そして久之浜地区で発生した火災への消防隊の対応への影響もあり消防分遣所は出動しっぱなしの状況にあることを知りました。

 自宅に帰ったのは21時頃だったでしょうか。自宅も資料等が散乱している状態だったように記憶しています。

 中学校卒業式と重税反対集会に出席し、開会中の議会対応の準備をしながら、平凡に終わるはずだった1日が、市内に深刻な災害をもたらした長い1日を体験することになったわけです。




 発災はこんなことで迎えました。

 そして対談は市議会の震災への対応へとすすみます。震災時の対応と特に言いたいことがあればとの2つの問にはおおよそ次のような話をしたと思います。

 私は、その時、東日本大震災復興特別委員会で「防災まちづくり及び原子力災害対策」を担当する第3分科会の副分科会長をつとめていましたので、その活動を紹介しました。




 原発事故直後は、原発事故に関しては、放射線量測定する体制もない(市内にモニタリングポストが確か3ヶ所だけだった)、情報もない、そして知識もない--ないないづくしからのスタートで、放射性物質からの逃れるために10万とも20万ともいわれる人々がいわき市から避難し、路上から車が消えてしまった状況がありました。

 やがていわき市に人が帰り始めたわけですが、この市民が不安を払拭しながらいわき市で住み続けるためには、一つには空間、食品、身体などの放射性物質を測定する体制を築くこと、二つには汚染の状況をマップ化し市民にわかりやすくすること、そして三つ目にその情報を発信することと放射性物質の影響等について情報を発信し知ることができるようにする、こんな取り組みが求められていました。

 分科会としても、これらに必要な取り組みをまとめながら、緊急の要望書、第一次、第二次と提言書をまとめ執行部に提出して対応を求めました。そうした取り組みなどもあり、原発事故の年の秋には空間線量計等の購入、翌年からの市民への貸し出しなどが始まり6月頃までにはある程度の対応が整いました。

 そして広報いわきでの放射性物質の解説と線量の経過を報せる記事、子どもたちがかかわる学校校庭などの除染と、安心・安全のための措置が次々と取られていったのです。

 もちろん要望が実ったものも、実らなかったものもあるでしょうが、提言という形で市民の声を姿勢に反映することができたのだと思います。

 これらかつての資料をみながら思いました。

 議会と執行部は車の両輪と言われています。互いに牽制し合いながらバランスをとって市政の発展に力を尽くす。議会と執行部の意見の違いもあったし、議論もあったけれども、市議会としては通常から考えれば早いペースで市民の願いを提言という形で政策にまとめ、市政に届け、また実現した市民にとって必要な情報は議会の立場からも市民に届けていくという役割を果たしながら、市民の不安を取り除くことに力を発揮し、安心・安全の市民の暮らしを取り戻すために力を尽くしていたということが、資料の中からの浮き上がってくるのです。

 この時の体験は、これからの議会の活動に活かさなければならないことだと思うし、この道にこそ議会が市民の暮らしと営業を守る道があるのだろうと思いました。




 さて最後にこれからさらに復興をすすめるために必要なことを一分間位で問われ、こんな話をしました。



 先日、こんな津波被災者の家族の話を聞きました。

 震災後に勤め先が閉鎖することになり、どうしようかと考えてお母さんがつとめている会社に就職することに決め、採用されることになったそうです。お母さんはとても喜んで、あれやこれやと注意をうながす電話をしてくる。ある時、あまりにも言われるものだから「うるさい」と言ってしまったでそうです。

 次の日の朝といったと思いますが、お母さんから電話が入って「ごめんね。卵焼きを焼いておくから取りにきな」と言われたそうです。

 その時はまだ閉鎖する事業所で仕事をしていて、その日の仕事が一段落したら実家に回ろうと思っていたそうです。

 ここでの仕事が終わったら実家に回ろう。そう考えていた時に地震が発生してしまった。後日、津波で亡くなったお母さんが自宅の近くで発見されたそうです。

 ある日、自宅の近くに実家の冷蔵庫を見つけた。開けてみると中には卵焼きが残っていたそうです。

 震災の被災者、原発事故の被災者も、癒えがたい心の傷を追っているのだと思います。被災の状況や原発事故あるいは放射性物質への不安の温度差などから、市民の持つ要求・要望も多様化しているものと思います。こうした中で、市議会がその本来の機能である、市民の声に耳をしっかり傾けて、その願いの実現を執行部に求めていくことがいっそう重要になってくると思います。

 声を吸い上げ、その実現をする。こうした役割を議会が果たす。私自身もそのことを肝に銘じていきたいと思います。




 合計4回の発言で座談会を終えました。ブログの記載では分かりやすく言葉を付け足したり、整理したりしているのですが、対談の時の発言は言葉足らずであったり、脈絡が飛んでしまっていたりした場合もあると思います。さて受注業者はどんなようにまとめるでしょう。楽しみです。


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