見えるもの
いつだったか、テレビのドキュメンタリーで高度な機能を持っている自閉症の若い人々が紹介されていて、その中に目で見たものを細部まで絵に描く特殊な才能を持った外国の少年が紹介されたていた。
まるでカメラで写真を撮るように、見た風景の細部までを絵に描くことができるのだ。例えばある建物を見て、その後にその建物を紙に再現した時に、外観の色や特徴のみならず、そのビルにあるたくさんの窓の配置や数まで再現しているという。
番組では、その少年をヘリコプターに乗せて、ロンドン上空を旋回し、後に少年がロンドン市街の鳥瞰図のような空から見た風景を制作する様子や少年の絵の展覧会や少年を賞賛する人々の様子を伝えていた。
一方、私の目というと、高校生になってから進行した近視が小数点0.1を切って、0.0いくつの度数となってしまい、矯正のメガネが眠るとき以外片時も欠かせぬことになっているし、強度の近視とほぼ同時にモノがダブって見える乱視まで加わってしまった。その上に、年を重ねて50歳を越す前後から早くも手元のモノが見えにくい老眼も予想よりずいぶん早く症状が現れてしまった。
そんな状態だから45年近く、はっきりモノが見えたことがない。
しかし今回のお話は、視界にはいるモノがはっきり見えるかぼやけるか、あるいは少しタブって二重に見えるかということではない。
モノは見えているのだ。
ところが、自身でも不思議なのだが間違いなく視界のうちに見えているはずのモノを私はどうも無視する傾向があるようだ。
実はこのことは「モノを見る」という行為の中で、誰しもが無意識のうちに行っていることであって、先にお話した自閉症の少年のように一瞬見た建物の窓の数まで頭の中、そして紙にまで再現できることの方が特殊な機能なのだ。つまり人は視界に入ったモノの中から瞬時に必要な情報を選び抜いて見ている。
生まれたての赤ちゃんは非力な視力の中でそのとき必要な母親の乳首を見るというし、その後も目と鼻と口のついたモノ、つまり人の顔によく反応するそうだ。
大きなガラス窓のあるベージュのタイル張りの外壁の建物ということがわかれば、一面に何枚の窓があるかという情報は、普通、優先順位の低い情報だ。目から脳に伝達される途中にフィルターのようなものがあって、不必要な窓の数の情報はカットされて脳に到達しないのだ。
問題は私のフィルターが過剰に反応しているのか、それとも私の必要、不必要との判断の機能がそのものがおかしいのか、私の場合は当然見えなければいけないモノを見落として、しばしば家人のお怒りを買ってしまうことだ。
例えば、ゴミ出しの朝。
顔を洗って新聞を取りに門柱まで行くついでに私がゴミ収集所まで持っていけるように、ゴミの袋を玄関や玄関から門柱までの踏み石のそばに家人が準備をしているのだが、私は時々それに気がつかない。
我が家ではたたんだ洗濯物を自分のタンスの引き出しにしまうのは、各人の仕事だが、ふだんは家人が2階の部屋まで洗濯物を持って来てくれているが、時々1階でたたんだ洗濯物を2階に登る階段の途中に置いていることがある。幅の広い階段ではないので、登るためには置いてある洗濯物が邪魔をするので、見えているはずが、しばしば洗濯物を飛び越えてしまうのだ。
故意ではなく、無意識にやってしまうので恐ろしい。
家人に注意を受けた後で、改めて現場を見てなぜこれに気がつかなかったのだろうと我ながら不思議で仕方がない。300度位の馬並みの視界があると思われる家人が「気がつかなかった」という理由でそのことを許してくれるはずがない。
大好きなジャニス・イアンという歌手の歌に「ラブ イズ ブラインド」という曲があり、未だに時々CDを聞いている。直訳すれば「恋は盲目」というということだと思うが、今回の視界がどうのこうのという話ではない。
その曲を聞いた夜に夢を見た。
夢の中で、また見えるはずのモノを私が見落とし家人ともめるのだが、夢の中の私は私がゴミ袋や洗濯物を見落とす原因が突如わかるのだ。
「恋は盲目。家に帰った僕は奥さんの姿しか見えなくなるんだ」。
そのことを家人に言う前に目が覚めた。
「これはよいことを思いついたぞ」と小躍りするような気分の高揚はあったものの、現実にはまだこの「言い訳」を使ったことがない。
言えば言ったで何だか怖いような・・・・。
(2015.10.19)
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