本物情報バンクのサイトに、中矢氏が日月神示に出会い、先導的な立場になるまでの経緯が載ってます。私は、中矢氏がどうして日月神示に出会ったのか、関心があったのですが、その答えがありました。
<記事転載>
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「日月神示」の先導者となるに
至った経緯
中矢伸一氏は、なぜ「日月神示」の先導者となるに至ったのだろうか。――そのプロセスを中矢氏は「ザ・フナイ」(2007.12~2008.4)に書いている。その内容を引用してお伝えしたいと思う。
中矢氏は、もともと宗教が嫌いであったという。「全知全能の神がいるなら、なぜこの世に苦しみや悲しみが絶えないのか。神と悪魔がいるならば、俺は悪魔の側につくだろう」・・・そんな理屈を言っている高校生だった。ここまでアンチ宗教、アンチ神様になるのには、理由があったようで、中学生の時に、突然、父親を亡くしている。
中矢氏の父親は、中学2年生の時に心筋梗塞で亡くなった。その年のゴールデンウィークに家族みんなで車で出かけた。目指したのは父親の友人が房総半島に持っていた別荘。そこで父親は、泊まった最初の夜に心臓発作を起こして帰らぬ人となったのである。この明暗のギャップは、多感な少年にどれだけの傷を負わせたことか、察するにあまりある。
茫然自失となった中矢氏は次の3つのことを胸に刻んだ。1つ、命ははかない。死は誰にでも突然に訪れ得る。2つ、現代医療は絶対に信じられない。3つ、この世に神などいない。あれほど、気絶しそうになるくらい真剣に祈ったのに、神は父の命を救わなかった。
頑なに心を閉ざすことで、この悲しみの時期を乗り越えたのだろうと心が痛む。
▼続きを読む
しかし、心霊の世界に実在を信じ、また、日本精神や武士道に魅かれるところはあったのだという。また一方で、海外を見たいという願望も強く、高校年の夏、アメリカに留学する。
3年間の留学生活は、アメリカ人の中にいたほうがなじむかもしれないと思ったほど溶け込んで生活だったが、ふと、「日本人の方が、アメリカ人や外国人と比べて、人間としての質の完成度というか、成熟度が高い」と漠然とではあるが、そういう思いがあったという。
それは、日本人なら「暗黙のうちに」わかることが彼らにはわからないとか、争い事が生じたときに、日本人だと自分も一歩引くことで、相手も一歩引き、“落としどころ”を見つけようとするといったことで、和を尊び、礼儀正しく、謙虚で、勤勉に働く、そのような「日本的精神」はどこから来ているのだろうかと。そして、日本人はどこか他の国とは違う。日本は世界の中でも異質な国であると、漠然とした思いから、確信に変わっていくのであった。
やがて中矢氏は帰国。
英会話講師・翻訳・通訳などさまざまな仕事につきながら、自分を活かせる分野を探ろうと、読書漬けの生活を送り、「神」という存在と対峙することになり、神道系新宗教教団に入信。さまざまな霊的体験を経て、霊的世界が実在することを身をもって知らされていく。さらに教団の活動に没頭していくなか、幹部への道へ進むことを決意し、志願。幹部としての活動を続けるが、ある体験から教団を去ることになってしまう。
しかし、真理に対する渇仰は癒えることなく、また別の小さな教団に入信するも2カ月で退団。自問自答しながら過ごしていたある日、ふと立ち寄った書店で「太神(ふとがみ)の布告」という、「日月神示」の抜粋の書と出会うことになる。
その時、中矢氏はすでに「日月神示」の存在は知っていたが、「明治生まれの岡本天明という画家が、自動書記によって降ろした天啓がある」という程度の知識であったようだ。ともかく買って読み出し、“素晴らしい”と感嘆し、この「太神の布告」をまとめたH氏の手紙を書いた。面会が許されると今度は2日に1度のペースで自宅に通い、「日月神示」のことやH先生のこれまでの研究を拝聴するようになっていくのであった。
やがてH先生に「日月神示」の全巻本を譲られることになり、中矢氏は読みたかった全文が手に入り、貪るように読み、惚れこんでいく。
そして、「こういう大天啓が世に知られていないのは、日本人にとって不幸である。日月神示を知れば、自分のように真理を模索する者が、宗教団体を渡る歩くようなこともせずに済むのではないか」と考え、出版社に話を持ちかけ、「日月神示」の著作をH先生に書いていただくことになる。
ところがH先生のその原稿は、当初の企画や編集者の意図とは全く異なり、急きょ、中矢氏が書くことになってしまう。紆余曲折の末、平成3年(1991)、「日月神示」が、自分の名前で刊行された。
中矢氏29歳のことである。
時代がその登場を求めていたのであろう。
「日月神示」が店頭に並ぶと、爆発的な売れ行きを示し、初版2万部に次いで、発売19日目で重版がかかる。中矢氏はそれを機に、続編を立て続けに書いて、「日月神示」を中心とした精神世界系著述者としての地位を築いていくことになる。
90年代に始まった「日月神示」ブームは次第に沈静化していくものの、2005年に「完全ガイド&ナビゲーション」が刊行されて約1年経ったあたりから、突然に再び売れ始める。“どうなっているのだろう?”と思っていたところ、船井幸雄先生がさかんに宣伝してくださっていることを知る。
“今まで自分の著書や「日月神示」のことをまったく知らなかった人たちが、船井先生のおかげで、日本にもこういう神典があることに気づき始めたのだ。”と中矢氏は感謝するとともに、自分の天命として「大激変の時代を、自分らしく、日本人らしく乗り切るため、古来から伝わる『生き方』の智慧を伝授」する新しい活動を精力的に始めている。
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●本物リーダーに学ぶ
http://www.honmono-joho.com/leader/nakaya/index.html
<記事転載>
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「日月神示」の先導者となるに
至った経緯
中矢伸一氏は、なぜ「日月神示」の先導者となるに至ったのだろうか。――そのプロセスを中矢氏は「ザ・フナイ」(2007.12~2008.4)に書いている。その内容を引用してお伝えしたいと思う。
中矢氏は、もともと宗教が嫌いであったという。「全知全能の神がいるなら、なぜこの世に苦しみや悲しみが絶えないのか。神と悪魔がいるならば、俺は悪魔の側につくだろう」・・・そんな理屈を言っている高校生だった。ここまでアンチ宗教、アンチ神様になるのには、理由があったようで、中学生の時に、突然、父親を亡くしている。
中矢氏の父親は、中学2年生の時に心筋梗塞で亡くなった。その年のゴールデンウィークに家族みんなで車で出かけた。目指したのは父親の友人が房総半島に持っていた別荘。そこで父親は、泊まった最初の夜に心臓発作を起こして帰らぬ人となったのである。この明暗のギャップは、多感な少年にどれだけの傷を負わせたことか、察するにあまりある。
茫然自失となった中矢氏は次の3つのことを胸に刻んだ。1つ、命ははかない。死は誰にでも突然に訪れ得る。2つ、現代医療は絶対に信じられない。3つ、この世に神などいない。あれほど、気絶しそうになるくらい真剣に祈ったのに、神は父の命を救わなかった。
頑なに心を閉ざすことで、この悲しみの時期を乗り越えたのだろうと心が痛む。
▼続きを読む
しかし、心霊の世界に実在を信じ、また、日本精神や武士道に魅かれるところはあったのだという。また一方で、海外を見たいという願望も強く、高校年の夏、アメリカに留学する。
3年間の留学生活は、アメリカ人の中にいたほうがなじむかもしれないと思ったほど溶け込んで生活だったが、ふと、「日本人の方が、アメリカ人や外国人と比べて、人間としての質の完成度というか、成熟度が高い」と漠然とではあるが、そういう思いがあったという。
それは、日本人なら「暗黙のうちに」わかることが彼らにはわからないとか、争い事が生じたときに、日本人だと自分も一歩引くことで、相手も一歩引き、“落としどころ”を見つけようとするといったことで、和を尊び、礼儀正しく、謙虚で、勤勉に働く、そのような「日本的精神」はどこから来ているのだろうかと。そして、日本人はどこか他の国とは違う。日本は世界の中でも異質な国であると、漠然とした思いから、確信に変わっていくのであった。
やがて中矢氏は帰国。
英会話講師・翻訳・通訳などさまざまな仕事につきながら、自分を活かせる分野を探ろうと、読書漬けの生活を送り、「神」という存在と対峙することになり、神道系新宗教教団に入信。さまざまな霊的体験を経て、霊的世界が実在することを身をもって知らされていく。さらに教団の活動に没頭していくなか、幹部への道へ進むことを決意し、志願。幹部としての活動を続けるが、ある体験から教団を去ることになってしまう。
しかし、真理に対する渇仰は癒えることなく、また別の小さな教団に入信するも2カ月で退団。自問自答しながら過ごしていたある日、ふと立ち寄った書店で「太神(ふとがみ)の布告」という、「日月神示」の抜粋の書と出会うことになる。
その時、中矢氏はすでに「日月神示」の存在は知っていたが、「明治生まれの岡本天明という画家が、自動書記によって降ろした天啓がある」という程度の知識であったようだ。ともかく買って読み出し、“素晴らしい”と感嘆し、この「太神の布告」をまとめたH氏の手紙を書いた。面会が許されると今度は2日に1度のペースで自宅に通い、「日月神示」のことやH先生のこれまでの研究を拝聴するようになっていくのであった。
やがてH先生に「日月神示」の全巻本を譲られることになり、中矢氏は読みたかった全文が手に入り、貪るように読み、惚れこんでいく。
そして、「こういう大天啓が世に知られていないのは、日本人にとって不幸である。日月神示を知れば、自分のように真理を模索する者が、宗教団体を渡る歩くようなこともせずに済むのではないか」と考え、出版社に話を持ちかけ、「日月神示」の著作をH先生に書いていただくことになる。
ところがH先生のその原稿は、当初の企画や編集者の意図とは全く異なり、急きょ、中矢氏が書くことになってしまう。紆余曲折の末、平成3年(1991)、「日月神示」が、自分の名前で刊行された。
中矢氏29歳のことである。
時代がその登場を求めていたのであろう。
「日月神示」が店頭に並ぶと、爆発的な売れ行きを示し、初版2万部に次いで、発売19日目で重版がかかる。中矢氏はそれを機に、続編を立て続けに書いて、「日月神示」を中心とした精神世界系著述者としての地位を築いていくことになる。
90年代に始まった「日月神示」ブームは次第に沈静化していくものの、2005年に「完全ガイド&ナビゲーション」が刊行されて約1年経ったあたりから、突然に再び売れ始める。“どうなっているのだろう?”と思っていたところ、船井幸雄先生がさかんに宣伝してくださっていることを知る。
“今まで自分の著書や「日月神示」のことをまったく知らなかった人たちが、船井先生のおかげで、日本にもこういう神典があることに気づき始めたのだ。”と中矢氏は感謝するとともに、自分の天命として「大激変の時代を、自分らしく、日本人らしく乗り切るため、古来から伝わる『生き方』の智慧を伝授」する新しい活動を精力的に始めている。
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●本物リーダーに学ぶ
http://www.honmono-joho.com/leader/nakaya/index.html