2009年になってなぜ「68年」だったのか、というのが図書館でこの本の前に立ったときの私の率直な感想だった。もちろん、過去の重要な出来事、歴史的な事象を考えるのはいつだってかまわないとは言えるのだが、それは、「68年」を考える契機を見つけ出せないままにいる私自身の問題だったのだろう。
「68年」、つまり日本においては全共闘運動の数年間、私は大学院生として渦中にいたのだけれど、紅衛兵のふるまいのような暴力(暴力一般を指しているわけではない)や、新左翼セクトの言説に馴染めなかった私は、その運動体の周辺部に立ち位置があった。いや、最大の理由は、今でもそのままである「集団に馴染めない」という私の性向にあったかも知れないのだが。
この本は、サルコジが「1968年の5月(革命)を精算しなければならない」とあからさまに言明したことへの、いわば返礼ではないのかと思ったのだが、「はじめに」(藤原書店編集部)によれば、「68年」からの40周年に企画された雑誌「環」の特集を契機とし、「日本国内のみならず世界各地で同時的に発生したこの「六八年」の出来事を世界史の中で照射することを企図した書物は、まだ出版されていない……」 (p. 2) ことを出版の理由としている。そして、その企図は、私にとっては十分な読後感を与えてくれるものになっている。
私が気にしていたことの一つに、フランスの「68年のその後」と日本の「68年のその後」の違いである。バディウも次のように述べているように、ポストモダンの思想状況を牽引してきたフランスの思想家たちは、「68年」の歴史的意味を体現しようと模索してきたのではないかと思う。
その後すぐに彼らの全員がこの出来事に関心をもち、全員が何かを変えたのです。七〇年代のフーコーは六〇年代初頭のフーコーではない。七〇年代から八〇年代のデリダは『幾何学の起源』のデリダではない。『国家のイデオロギー装置』のアルチュセールも大変違っています。六八年五月は彼らに思考の素材を与えたばかりではなく、彼らを心底変容させたのです。 (アラン・バディウ「六八年とフランス現代思想」(藤本一勇訳)、p. 33)
アルチュセール、フーコー、デリダに加え、モーリス・ブランショもまたその歴史的意義について言及している(西川長夫「パリの六八年」、p. 56)。
ポストモダンの思想家たちが語ったようには、日本の「68年」は日本の思想家たちに語られなかったのではないか。もちろん、ポストモダンの思想を輸入することに必死だった日本の思想状況で、フーコーやデリダの立ち位置に相当する場所にいる日本の思想家を想定するのは難しいだろう。
しかし、誰がどうという指摘は難しいものの、全共闘運動に対するしらけた気分や、揶揄気味の論調が支配的だったように思う。もちろん、小熊英二や絓秀実の仕事があること、大澤真幸、大塚英志、北田暁大などによる真摯な戦後分析があることは知ってはいるが、にもかかわらずそんなネガティブな印象をもっている。
確かにフランスにおいても日本においても既成左翼は徹底的に学生運動に敵対してきたのではあるが、フランスでは労働者によって運動が広がり、日本では学生が孤立していたということからみれば、その社会的影響の差は歴然としていただろう。しかし、その日本における学生運動の社会的孤立を、椹木野衣が言うような「未完の近代」としての戦後の「悪い場所」 [1] を私達は生きていたためではないか、と私は疑っているのである(詳細に論証する力量はまだないが)。
本の話に戻そう。
ちょっと油断をすると、「68年」に世界の至るところで学生(青年)の叛乱が一斉に発生したと思ってしまいそうになるが、本書が明らかにした最大のポイントは、そのスペクトラム中の変位の著しい点である。むしろ、これだけ異なった歴史的意義を持つ叛乱がほぼ同時に生じたということに驚かされる。「68年」という物理的時間は同じでも、それぞれの歴史の固有時間ではまったく異なっていると考えてもよさそうなほどである。
例えば、バディウはパリの「68年5月」を次のようにまとめている。
私はいつも言うのです。同時に三つの六八年五月があつたのだ、と。それらは入り混じつている。もしかしたら四つあるとさえ言えるかもしれません。若者の運動としての六八年五月があった。それは実際には、複雑で混沌としたさまざまな問題――特には高校生と大学生のさまざまな問題――に関する若者の反抗でした。また、新しい側面と古い側面の人り混じった労働者の大ストライキだった六八年五月があった。また、アナキズム的で自由奔放主義的だった六八年五月もあった。すなわち風俗に支えられた六八年五月です。オデオン座の占拠、「お祭りだ」、「想像力を権力にしょう」、性の解放……等々です。それから新しい政治形態を探求した、とりわけ知識人と労働者との結合を探求した六八年五月があった。新しい組織形態、新しい集会形態を模索した六八年五月です。 (同上、p. 49)
しかし、おなじ68年のチェコスロヴァキアの「プラハの春」の終焉について、伊藤孝行は「現存社会主義」の成立を指摘している。
ニュルンベルグ裁判で通訳を務め、のちにモスクワの大学で歴史、東ドイツの大学で哲学を教えたヴォズレンスキーは、「現存社会主義」という言葉をはじめて聞いたのは一九六八年三月のプラハであったと回想している。チェルヴォネンコ大使は自ら車を運転しながら、こう話したという。「ドウプチェクとその仲問は、人間の顔をもった社会主義について語っている。しかし、マルクス主義者なら誰でも、社会主義はただ一つしかないし、またただ一つしかあり得ないことを理解している。つまり、現実に存在する社会主義だ」。これを見れば、言葉が現体制を理念の名において批判することを封じるために考え出されたことが分かる。それはまさに改革共産主義の対抗概念であった。へーゲルの言葉を借りれば、「存在するものは合理的」なのであって、社会主義における保守主義の精神を言い表している。「プラハの春」と「三月事件」は改革共産主義の死、「現存社会主義」の誕生を画する出来事であった。 (伊藤孝行「ソ連・東欧圏の68年」、p. 143)
西欧(この場合は日本も含むが)では、「大きな物語」(その骨格はマルクス―レーニン主義)の喪失の契機として「68年」はあった。左翼の言説はしだいに人々に届かなくなっていった。一方、東欧では、「68年」を契機に「改革共産主義」が「現存社会主義」、つまり「現に存在する社会主義」 (同上、p. 142) という身も蓋もない反動に取って代わられる。この完全なアンチ・シンメトリーは、誰かが描いたフィクションのようですらある。
上記のアンチ・シンメトリーを一国で体現したようなメキシコ。オクタビオ・パスは指摘する。
メキシコの学生運動には、西洋と東欧のいずれの諸国のものとも類似点があった。私には、最大の類似性は東欧との問にあつたと思われる。すなわち、ソビエトの干渉に対してではなく、米国の帝国主義に対するナショナリズム。民主的改革への熱望。共産主義的官僚制に対してではなく、制度的革命党(PRI)に対する抗議。 (オクタビオ・パス「メキシコの六八年」(北條ゆかり訳)、p. 104)
つまり、「東欧諸国の若者の闘争には西洋にはない点が二つある。ナショナリズムと民主主義である (同上、p. 103) 」。メキシコもまた「ナショナリズムと民主主義」の闘争であったというのである。
中国の「68年」は文化大革命の三年目であり、若い紅衛兵による運動には違いないが、その運動は毛沢東という断固とした権力に裏打ちされている点で、他の国の運動とまったく異なっていると私は考える。そして、そのことによって、
一九六八年の全世界的反体制の造反運動が人類に証明したのは、毛沢東の言う「破字当頭、立在其中」(まずは破壊、破壊を通じて新しいものが誕生する)の虚構性であり、中国の紅衛兵運動と世界各国の若者が皆、独自に味わった幻滅である。 (金観濤+劉青峰「中国の六八年」(王柯訳)、p. 152)
という結末を迎える。
そして、世界の「68年」といかなる相関もないかのように、アフリカではコンゴ動乱など前近代的な殺戮が横行し(谷口侑「アフリカ・六八年の死角」)、中東ではイスラエルが東エルサレムを併合し、現代の中東問題の基幹的部分が成立している (板垣雄三「六八年の世界史【六七年の中東から見る】」)。
本書は「第II部 わたしの68年」で、各界著名人の68年経験を語らせている。私は、私自身の68年経験を振り返ろうとは思わない。私個人の経験からなにがしかの意味を引き出すことなど、とてもできそうにもない。旧友と共有する思い出を語るつもりもない。友人たちも同じだろうと思っている。
一,二年前、NHKで全共闘世代数人が当時を振り返って語る番組があったが、すぐスイッチを切ってしまった。語り口、語調が何となく当時の学生たちと似ていると感じたからである。けっして出演していた人たちの人格の問題ではない。昔の語り口で語ることへの抵抗が私にはある。そういう私の脆弱な神経の問題である。
それでも、青木やよひの語る実感には、そのまま同意する。
確かに、政治の季節であつたあの数年間が過ぎてみると、体制のシステム自体はゆるぎもしなかったが、時代の空気がはっきりと変っていた。たとえば「権威」というものの価値があらゆる分野で低落し、人々はよかれ悪しかれ自分の好みを優先させるようになった。また、年齢や階層による行動規範がくずれ、服装のユニセックス化やジーンズ化が広く定着した。風俗を含めた文化状況のこうした自由化には、人々の意識をなしくずし的に変えてゆく力がある。ウーマンリブの登場もこの背景と無縁ではない。 (青木やよひ「政治の季節から文化革命へ」、p. 218)
[1] 椹木野衣『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)。