かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

ベアト・シュトッツァー/ローランド・ヴェスペ監修 『セガンティーニ』 (末吉雄二訳、西村書店、2011年)

2012年06月04日 | 読書

 ウイーンのベルヴェデーレでセガンティーニの《悪しき母たち、The evilmothers》を見て以来、セガンティーニに惹かれ続けていた。たった1枚のセガンティーニ経験を大事に思いながら数年を過ごしていたのだが、作秋に東郷青児美術館の「セガンティーニ展」を見に行ったことをきっかけに、セガンティーニの絵について少しばかり考えてみたことがあった。そのとき、参考にと思って「セガンティーニ」関連の図書を探したが、昨年の図録以外では、1978年に兵庫県立近代美術館で開催された「セガンティーニ展」の図録を「日本の古本屋」を通じて入手できたのが唯一の成果であった。
 タイトルの本は、二週間ほど前に仙台市民図書館で偶然見つけたものである。2001年3月の発行なのに、市や県の図書館での検索にかからず、仙台市内のいくつかの書店でも見つけられなかった本である。
 何人もの専門家が解説を書き、図版も大きく、何よりも日本で出版されたセガンティーニの画集としては唯一(たぶん)で、セガンティーニ好きには大切な本の1冊になるだろう。

 私がセガンティーニの画業について少し考えなければと思ったのは、(1)時間発展としての転移: 「薄暮」の画家が、いかなる契機をもって「光」の画家へと変貌したのか。(2)共時的分極: 「光」の画家となった後、光溢れるアルプスの風景と、邪悪な母たちが繋がれる暗鬱で過酷な風雪の荒野とが、画家の精神のなかで同時的に存在しうるのはなぜか、という2点であった。

 (2)については本書でもマティアス・フレーナーが触れていて、セガンティーニの「私の出産が母の力を奪い取ってしまった。母が生きる力を再び取り戻すためには……母はしばらくの間トレントに滞在する必要があつた。しかし、治療はすべて徒労に終わった。私は、背の高い母が疲れた様子で歩く姿を、心の目で見る以外に再び見ることはなかった。母は美しかったが、その美しさは明け方や真昼のようではなく、春の夕暮れ時のようであった。母は、亡くなった時、まだ29歳の若さだったのだ」という回想を引用しつつ、次のように述べている。


セガンティーニによる女性たちの描写は、なによりもまず「自伝」に語られた状況を背景として考えるべきなのである。コッラード・マルテーゼは、セガンティーニの生涯に対する精神分析的な解釈において、セガンティーニは彼自身の画家としての、また家庭人としての成功によって、犠牲となった母に対する償いを求め続けたのだという結論に達した。彼の絵の中では、女性はしばしば母に変貌して表現されているか――「私は、女性が、たとえどのような状況に置かれていても、ひとりの母としての姿を見せている限り、すべての女性を愛し、尊敬する」(ネエラへの手紙)――さもなくば女性は、自分の子供たちに対してその愛情のすべてを捧げている姿、さもなくば恐るべき責め苦に哂された姿として描かれるのである。(「モダニズムへの道――ジョヴアン二•セガンティーニの生涯と作品」『セガンティーニ』p.11)

 「犠牲となった母に対する償いを求め続けた」ということと、女性は「さもなくば恐るべき責め苦に哂された姿として描かれる」とう事の論理的関係が不明で、ここでも、対極的に2重に分裂した母親像が描かれる理由は判然とは述べられてはいない。後半の文章から強いて解釈すれば、精神分析的解釈からやはり母に対するアンビヴァレントな感情がベースになっているということらしい。
 しかし、フレーナーも期せずして述べているように「なによりもまず「自伝」に語られた状況を背景として考えるべきなのである」ということに従えば、セガンティーニがみずから語っているのは、セガンティーニを生むことによっていわば自分の犠牲となってしっだという負い目であり、けっして母への怨みのような感情についてではない。どうもカール・アブラハムにせよコッラード・マルテーゼにせよ精神分析家たちは、セガンティーニには本人が意識しない母への恨み辛みがあると結論づけたいらしいのである。つまり、「自分のために母は死んでしまった」という負い目、母への贖罪の意識から、「自分を残して母は死んだ」「私は母から放棄された」というアンビヴァレントな意識が生じたとするのである。つまり、「逆恨み」である。耽美的母親像を静謐かつ荒涼とした野に描いているあの美しい《悪しき母たち》の連作が、「逆恨みのモティーフ」によるのだなどとは悪い冗談としか思えない。私はそのような言説を信じたくないし、もっと言えば、それは真実ではないと思う。どうも精神分析というのは他人の無意識を過剰に忖度しすぎるのではないか、そしてその忖度はその他人にではなく「精神分析学」自体への貢献しか意味しないのではないか、というのがフロイトを読んだ若い頃からの私の偏見(?)であるらしい。

 いや、それほどくだくだしく議論する必要はないのかもしれない。セガンティーニの《悪しき母たち》は、友人であったルイージ・イッリカの詩『ニルヴァーナ』に基づいて主題が設定されている。(同上、p.29)。「ニルヴァーナ」は涅槃のことであり、初めから悪しき母たちは救済され、解脱し、安楽の地(境地)に至るべく描かれている、とまっすぐに受けとることができるのではないか。



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