ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

まとまらねぇ、真面目な教育論。

2014-03-07 | 雑念
通り魔事件の容疑者

ちょっと怖いね。
何が怖いって幼少時の行動よ。

奇声を発したり
笑ったり
急にキレたり

ランドセルからスタンガンを取り出したこともあるらしい。

もう集団行動が普通に過ごすことができるとは思えない。

しかし小中学校はどうしようもないだろう。

しかしこういう事件が起こるたびに、
日本の社会構造そのものの欠陥を粗探ししてしまう。

日本は裕福だけど自殺者の数は多いし。
マイノリティを排除してしまうような構造は市民レベルで浸透してしまっているような気がする。

僕も社会教育に一部分触れて、体験やグループ活動の重要性は認めるし、有効な教育効果も実感しているつもりだが、

「なんかちょっと変」
「少し普通と違うよね」

くらいの小学生とも少なからず出会ってきた。かといってどうしようもなかった。

当然、教師の力量も限界がある。
それを取り巻く社会教育の影響力も無限ではない。保護者も集団生活と我が子の関係は大抵わからない。

うちの子に限って

は未来永劫続くだろう。


では「少し変」をそのまま「成長すれば落ち着くだろう!」と放っておいていいのか?

そういう疑問が起きるのである。

そう、こういう事件と幼少期の行動パターンを聞くにつけ、兆候はその時からあるのでは?と。

そして何万人も児童・生徒を見てきた教育者たちは異変や違和感を感じながらもグループダイナミクスに委ねるしか手立てがない。つまり「ミニ社会」である集団生活が自然と人を育てるのだと。

僕も実はそういう期待感は持っている。
優秀な先生よりも、集団生活自体が優秀な学習の場であることも少なくないと。

しかし何らかのセーフティネットが必要ではないかと思うのだ。

児童相談所やスクールカウンセリング、スクールソーシャルワーカーなど様々な新しい仕組み作りも生まれてきている。

効果が出てくるのは10年はかかるだろう。

そう、闇雲にマイノリティを手当たり次第対応しても根本的な解決にならないのがもどかしいのだ。

差別的な言い方になるのかもしれないが、やはり「少し変」とか「奇声を発する」とかコミュニケーション自体が取りにくい児童・生徒は脳の機能障害があるのだと言わざるを得ない。

その児童・生徒が原因で、授業をまともに実施できないようになるとか、他の児童・生徒を傷つけるような言動が治まらないなどのマイノリティだとしたら

障害を持つ生徒として特別学級に認定されない児童・生徒はどうするのか?

もう教室の外に出すしかないのかもしれない。フリースクールのような学校に転校させるしかないのかもしれない。

彼らのペースに合った勉学の時間軸で学べる場所を作る。

6・3・3と言わず、
10年でも20年でも学んで、働ける場所を国や県が予算を出して教育する。

ってか今もあるよね。
県立もあれば、NPO法人が運営している場合もある。

しかし保護者の気持ちがやはりネックになる。だって我が子が「少し変」に認定されちゃったら、「普通の子」と違う学校に行かされるのだとしたら?

やっぱり僕だったら「なんで?」って心を閉ざしてしまう。

それに究極、

児童・生徒を選別しクラス編成すると同じような性格、行動、趣味趣向、容姿などが単一化していく危険がある。

もうバランスとしか言いようがなくなっちゃう。

バランス感覚のことをいつも言っている。

マイノリティと一緒にうまく活動させながら混沌を演出しなければいけない。

なんの解決にもならない結論が出てしまう。

こうなりゃ、「容疑者のさみしさ」を動機に仮定して、

いくら不思議でも同じクラスのマイノリティとコミュニケーションを取り続けて行く事をファシリテーションする。

もうこれしか思いつかねぇ!

無視されるのが一番つらいんでしょ?
だからネット世界を拠り所にするんでしょ?

現実社会でのコミュニケーション、話し合いも喧嘩も議論も全部諦めずに突き詰める。

そんなところで許してくらはい。

セーフティネットをつくるなら、

同じクラスの話し合いの時間を尋常じゃない位使うこと、そして自分の意見や他人の話を聴き合える時間を大切にする。

ゆとり教育は辞めてもいいから、
プラスでコミュニケーションがキチンと取り合える時間を十分にとってほしい。

プシュー!