ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

こういう人になりたい。

2017-03-14 | 雑念
「カッコいい人」

誰しも憧れる理想のヒト

だと思うのだが、たまに「僕なんてどーせ」みたいな卑屈な人も居たりする。

そんな人は別にどーでもいい。
僕は素直に「カッコいい人」であるために色々考える。

逆に「これはカッコ悪」を辞めようと思うと至る所に落ちている"カッコ悪トラップ"にビクッと驚かされる。

最近思うのは、カッコ悪さは"時間"に比例するのではないかという仮説だ。

特に「お金を支払う瞬間」の時間に顕著に現れる。

カッコ悪い奴はレジ前でモゴモゴしている。

かっこいい人もレジ前でドンドンカッコ悪くなる。値段表の前で財布と睨めっこ。誰が出すのかまとめるのか1人づつ出すのか。

そして最後に結局万札を出す。

という事は反面教師とするならば、

決断力

ということになる。

直感力

とも言えよう。

「かっこいい」が主観的な面を持つと指摘する人もいるだろう。

しかし決断力のない、直感力もない、モゴモゴしている人をかっこいい、もしくは可愛い、と思う人がいるのだろうか?

「私が守ってあげたい」と思うというのか?

そして

別の論点に移る。

「かっこいい」が必要かどうか。の話

結論は「必要」だ。

教育の分野を例に出す。

指導者がモゴモゴしてどーする。

普遍的なかっこよさは教育者として、どう考えても必要不可欠である。

歴代、僕の学生時代の教師たちを見てもかっこいい人は少ない。

高校の野球部の顧問の先生1人だけ

僕がこれまで出会った人間でかっこよさを感じたのは、会社を辞めてから旅に出て出会った人たちなのだ。

その憧れの眼差しは、僕の価値観を作り出し、生きる希望や道筋を示してくれた。

出会えばわかる。

その教育者の佇まい。
「かっこいい指導者」が。

ファッションもさることながら、
醸し出す雰囲気
人間性や感性
「この人の話を聞きたい」と思わせる何か。

僕もそんな人になりたいなぁ。

そして探し求める。
「どうしたらそんな人になれるのか」を。

もう何を教えて、何を伝え、何を学ばせてくれるのかは関係なくなっちゃう。

ただこの人のそばにいたい。
ただ時間を共有したい。

そういう人になりたい。