ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

黒いススのように

2017-03-19 | 雑念
メモとるのも取られるのも好きじゃない。

結構昔からやけにメモを取る人が目の前に多かった。勉強中なのはわかる。本当にそのメモあとで読み返す?と思うのだ。僕自身は確実に読み返さないのを知っているから、ある時期からメモを取るのをやめた。

昔は大切な人の言葉や気になったらメモを取っていたように思う。

でもその全てが「メモを取ることが目的」になって心に残らない事に気付いた。もう逆に大切なはずのその言葉を「書き留めておいたから」忘れても大丈夫と無意識に思い込むんじゃないかと。

そしてその原因や結果を考えてみた。

学生時代、テストに出るかも知れない授業の内容をノートにつけていた。そう僕は結構優等生である(本当だヨ)。家ではほとんど勉強することもなく、テストの成績も中の上くらいを行ったり来たりする。

だから「メモを取る(ノートを取る)のは大切なことである」と自分に刷り込んだ。

しかし大人になってメモを取るべき大切なことが消えた。そして本当に大切なことは心に刻まれていた。

つまり学生時代の勉強法は僕には全く合っていなかった。何を学ばされていたのか、何をしてきたのか。もう成績も誰もつけてくれないし(汗

スケジュール管理やTo Doもスマホで管理し大切な約束もメールやFBなどでやり取り、大切な書類もスマホで入力できるほどの時代だ。

そして本当に大切な「気づきや言葉」に出会ったら、その全ては感動となって心に刻まれる。

逆に考えたら「心に刻み込まれるほどの感動があるから"大切なこと"である」のだ。

そのメモどう使うんですか?
自分のためですか?テストのためですか?
誰かに言うんですか?

いずれにしても心が動いていなけりゃ何の意味もないと思う。

昨日は登録講師講習会へ
そこにまた10数名の講師たち
そしてフリートークコーナーがあったのだが、学校の先生を目指す若者から定年を超えた愉快なオジ様まで様々いる。

僕は結局、「この人面白い人だなぁ」とか「若いなぁ」とかは思ったが、メモを取るほど心が動いていない自分に気づいた。

メモを取ることは決して悪いことではない。
しかし"本当に大切なこと"を聞き逃してしまう可能性がある覚悟もしておくべきだ。

"メモをとる行為"は自分の学びや気づきのスペースに限界線を引いている。

僕はやっぱり体験学習が好きだ。

体験から学びを得たい。
そしてそのことの方が身に染み入ってくる。
メモはやっぱり文字や言葉から学ぶ方法。
僕にはあまり合っていない。

もっと新しい体験や感動をして、色んなことや深い思慮を手にしたい。哲学も好きだけど職人も好きだ。

学びに限界線を引くようなことはしたくないし、参加者に対しても学びを限定するのも好きじゃない。

教師は聖職者ではなくなった。その本当の意味はこういうことだ。

学びの全てをコントロールできると勘違いしている教員が多すぎる。いや学生時代に自分自身を勘違いさせてしまう学び方をしている。

その僕の言っている言葉さえ理解できない教師の卵達の目を見た。いくら説明しても自分たちが学んだ心理学や教師像が全てらしい。心が何処か遠くへ行ってしまっているようだ。

メモを取っても脳に入り込む余地がないだろ?

確かに僕は言葉選びをワザと極論を用いて受け入れにくいかも知れない。

しかもその若者達の考え方を変えてやろうとも思わないから伝わらないのも分かる。

心を閉ざす教員ほど手の施しようがない。

僕は一定の礼節を持ってその考え方を披露した後、無力さに引き下がる。

僕は教育界の端っこに立って無力に打ちひしがれる。

「ホクトマンの影響力って大きいよ」

どこが?僕の無力感はごみ収集施設で黒い煙となって焼き尽くされる運命にある。その中にレアメタルのような存在であっても黒いススになって消える。

僕はもう黒いススになってアレルギーの人の鼻の粘膜に潜り込んでクシャミを出させることしか出来ない。