■金時計/ポール・アルテ 2020.5.4
「もうすぐ鏡を通り抜けるわ。どうしてわたしがアリスなのかですって? それはアリス(ALICE)がセリア(CELIA)のアナグラムだからよ。今まで気づかなかったの?」
「じゃあ、ぼくの名前はどうなんだ? なにもなしか」
「アンドレ(ANDRE)のこと? もちろんあるわよ。ダレン(DAREN)ね。確かに珍しい、北欧風の名前だけど、ちゃんと存在するわ。あらまあ頭がいいくせに、そんなことも考えつかなかったとは」
ポール・アルテのミステリは、『あやかしの裏通り』 に続いて2作目です。
『あやかしの裏通り』は、詩情豊かな幻想的雰囲気のミステリでしたが、『金時計』は、本格ミステリでありながら輪廻転生を絡め、80年の時を隔てふたつの物語が、金時計が刻む時のあゆみのごとく展開されていきます。
忘れてならないのは、郷愁には愛よりも強い力があるということです。言うなればそれは、失われた幸福のようなものなのです。もう二度と見つけられないと分かっている幸福のような。不可能な愛が達成されることも、ときにはありえるでしょう。しかしすぎ去った出来事は、決して戻ってはきません。だからそうした危険な郷愁には、大いに警戒しなければ。ひとはえてして郷愁にとらわれるあまり、こうあって欲しいという願望にもとづき、現実には存在しない細部を作りあげてしまうものなのです」
金時計を見つめ続けると。
「ところで《金時計》の件は、わたしの押しつけでなければいいのですが。なにしろ、とても象徴的な品ですから、金のまばゆい輝きは、それだけで欲望を掻き立てます。そして時計の針は、時の流れ、すぎゆく人生を見せつけるのです……」
「時がいかに貴重なものかを示すには、時計ほど、それも金時計ほどぴったりなものがあるでしょうか?」
「蜘蛛の巣に金時計と、次々にシンボルが登場しますね。あなたのように高名な劇作家なら、驚くにあたりません。想像力旺盛なのは、言うまでもありませんから。もちろん、らせん階段もです。あれは無限と狂気を実によくあらわしています……」
女は複雑なのよ、とシェリルは、輝く金時計を見つめたまま心のなかで混ぜ返した。
彼女は運命に導かれて行ったのです。申しあげられるのは、それだけです。なにがあったのか、どうしてそんなことになったのか、知っているのは運命だけ。星々はこの悲劇を、じっと注意深く見つめてきました。星こそが証人です。そしていつか、真実を明かしてくれるでしょう。わたしたちにか、あるいは別の誰かに」
「つまりあなたは、それが単なる詩的なイメージではないとご存じなわけですね。確かに、星のなかにはあらゆる物語が書きこまれています。星はすべてを知っている……星を見あげてごらんなさい。わたしたちを眺める夜の千の目を。星はいつでもわれわれの行いを、じっとうかがっているんです」
どこかで聞いたような、なつかしい言葉ですね。
『 金時計/ポール・アルテ/平岡敦訳/行舟文化 』
「もうすぐ鏡を通り抜けるわ。どうしてわたしがアリスなのかですって? それはアリス(ALICE)がセリア(CELIA)のアナグラムだからよ。今まで気づかなかったの?」
「じゃあ、ぼくの名前はどうなんだ? なにもなしか」
「アンドレ(ANDRE)のこと? もちろんあるわよ。ダレン(DAREN)ね。確かに珍しい、北欧風の名前だけど、ちゃんと存在するわ。あらまあ頭がいいくせに、そんなことも考えつかなかったとは」
ポール・アルテのミステリは、『あやかしの裏通り』 に続いて2作目です。
『あやかしの裏通り』は、詩情豊かな幻想的雰囲気のミステリでしたが、『金時計』は、本格ミステリでありながら輪廻転生を絡め、80年の時を隔てふたつの物語が、金時計が刻む時のあゆみのごとく展開されていきます。
忘れてならないのは、郷愁には愛よりも強い力があるということです。言うなればそれは、失われた幸福のようなものなのです。もう二度と見つけられないと分かっている幸福のような。不可能な愛が達成されることも、ときにはありえるでしょう。しかしすぎ去った出来事は、決して戻ってはきません。だからそうした危険な郷愁には、大いに警戒しなければ。ひとはえてして郷愁にとらわれるあまり、こうあって欲しいという願望にもとづき、現実には存在しない細部を作りあげてしまうものなのです」
金時計を見つめ続けると。
「ところで《金時計》の件は、わたしの押しつけでなければいいのですが。なにしろ、とても象徴的な品ですから、金のまばゆい輝きは、それだけで欲望を掻き立てます。そして時計の針は、時の流れ、すぎゆく人生を見せつけるのです……」
「時がいかに貴重なものかを示すには、時計ほど、それも金時計ほどぴったりなものがあるでしょうか?」
「蜘蛛の巣に金時計と、次々にシンボルが登場しますね。あなたのように高名な劇作家なら、驚くにあたりません。想像力旺盛なのは、言うまでもありませんから。もちろん、らせん階段もです。あれは無限と狂気を実によくあらわしています……」
女は複雑なのよ、とシェリルは、輝く金時計を見つめたまま心のなかで混ぜ返した。
彼女は運命に導かれて行ったのです。申しあげられるのは、それだけです。なにがあったのか、どうしてそんなことになったのか、知っているのは運命だけ。星々はこの悲劇を、じっと注意深く見つめてきました。星こそが証人です。そしていつか、真実を明かしてくれるでしょう。わたしたちにか、あるいは別の誰かに」
「つまりあなたは、それが単なる詩的なイメージではないとご存じなわけですね。確かに、星のなかにはあらゆる物語が書きこまれています。星はすべてを知っている……星を見あげてごらんなさい。わたしたちを眺める夜の千の目を。星はいつでもわれわれの行いを、じっとうかがっているんです」
どこかで聞いたような、なつかしい言葉ですね。
『 金時計/ポール・アルテ/平岡敦訳/行舟文化 』