■終焉の日/ビクトル・デル・アルボル 2020.5.11
ビクトル・デル・アルボルの 『終焉の日』 を読みました。
時の経つのを忘れて、読み耽りました。
それほど面白かった。
リアリティ溢れる登場人物。
連綿と続く罪の連鎖。
手をさしのべたくても出来ないもどかしさ。
物語の面白さを心いくまで満喫した一冊でした。
ときどき病院付きの司祭がやってくる。単に決まりごとだからであり......
その日訪問すべき、助かる見込みのない患者リストを持っているのか、あるいは先の短い患者の病室に小さな×印でも記してあるのかもしれない。死に向かって一歩一歩進んでいる患者は心がとても弱っていて、気持ちが揺れ、神や運命について敏感になっていると考えているのにちがいない。それはそれとして、悪い人ではない。マリアでさえ、彼の話には耳をかたむける気になる。じつは、そんなに若くして世俗を捨て幻想に人生を捧げようと思ったのはなぜか、尋ねてみたかった。
緑の布張りの肘掛け椅子に、ロラという名の手相読みの老女が座っている。客はめったに現れない。このご時世、誰も未来になど興味がないらしく、彼女がそこにいることにすら誰も気づかない。室内に彼女のおならが漂ってきたときを除いては。
「未来を占ってやろうか?」
マリアに未来などないが、とにかく老女の好きにさせた。老女は彼女の手相を調べた。
「あんたの運命は……悲劇だね……」口を歪めながら言う。過去にあらゆるものを目にしてきた彼女のような海千山千の老女でさえ、あまりの悲惨さに驚いたように。
マリアは気まずくなって手を引っ込めたが、そのあいだも老女は、みすぼらしい緑のオウムのように同じ言葉をぶつぶつとくり返した。
あなたは私を恨んでいるでしょう。私について、あれこれいやな話を聞くかもしれません。すべて真実だし、嘘をつく気もありません。私がなぜこんなことをしたのか今のあなたにはわからないでしょうし、ひょっとすると一生わからないかもしれません。いつかあなたが身を焦がすほど誰かを愛し、その愛に裏切られるようなことでもないかぎり。.......
あなたはもう大人だから、自分で道を選び、進んでいくことができる。もう私のことは必要ないでしょう。ただ、時が経ったあかつきに、私を許し、愛も最悪の愚行を引き起こすことがあるのだとわかってくれると嬉しい。いつの日か、あなたが充分な心の強さを手に入れたとき、真実が見つかるでしょう。
たとえ何があってもあなたを永遠に愛し続ける母、イザベル
世界をよりよいものにすると誓ったこの男の腕の中では、どんなことも可能だったし、タブーなど何もなかった。だが、過ちを嘆くことはもうできない。自分の前にも同じように不倫をして、結局愛を失い苦しんだ者もいれば、これからも夢破れて打ちのめされる者が大勢いるだろう。自分の身に起きたことは過去にも起きたし、未来永劫起き続ける。とはいえあまりにも大きな裏切りで、イザベルの心は張り裂け、なかなか真実を受け入れられなかった。
頑固が高じると、人はときに貝のように殻にこもり、その殻は恨みや裏切り、非難や対立関係によって無残に傷だらけとなる。そうなると、そこに生じた沈黙や分厚い壁は、死によっても、思い出の中でさえも、壊すことができない。
「過去を水に流すことなどできない。けっして消えはしないのだ……それは私がいちばんよく知っている」
ギリェルモがそんなことを言うのは耄碌したからではなく、理性をなくしているからだ。不合理には虫唾が走る。プブリオにははっきりわかっている。人の残酷さには際限がないが、誰かを愛するときその愛にもやはり際限がない。そしてギリェルモは今、残酷さと愛を同時に感じている。
何を尋ねても答えは出ない。父は死んでしまったのだ。子供の頃はこんな不幸はけっして乗り越えられないと思ったものだが、結局のところ世界は何食わぬ顔で巡り続けてきた。
ある種の理屈の前では気持ちなど何の意味もなくなるという馬鹿げた現実をわからせてやる必要がある。権力欲や復讐、憎悪はほかの何よりも強い動機になることや、野望をかなえるためなら人は愛する者を殺し、憎む者にキスできることを教えよう。
確かに汚いやり方だってことはわかっている。だが、世の中というのはそういうものだ
「環境がまったく違うんです」
「環境など関係ない」ププリオは、クラブハウスの庭に面した大窓に近づきながら、いらだたしげにさえぎった。「環境は絶対だとばかりに、甘んじて環境の奴隷となっているような人間には虫唾が走る」
それは経験から出た言葉だった。生まれたときから裕福だったわけではない。
マルチャンは皮肉屋だ。少なくとも、彼の知人と称する者はそう言うが、そもそもその知人自体わずかしかいない。物に動じず、あらゆるものから距離を置き、いつも歪んだ笑みを浮かべている男。
「君のデスクの上にあるファイルの中身は全部黒か白に塗り分けられているんだろう。だが、すべてを善悪のふたつに分けるマニ教的視点は、実際の人間には通用しない。人は灰色なんだ。俺も、そして君も」
マリアは言葉を失っていた。やり込められることなどめったになかったが、セサルに完敗した。言葉にしようとしても、それはすぐ頭の中で消えた。
あきらめない者に残されている唯一の手段は持つことです。憎しみを役立つ感情に生まれ変わらせるには辛抱が必要なんです。
自分自身から逃げられるわけがないんです。鏡を見るたび、個人のあるいは仕事上の失敗に気づくたび、またあの恐ろしい潮が満ちてきて、自分の弱さや臆病さ、あきらめを思い出させる。そしてわれわれは裸に剥かれ、何も言い訳ができなくなる。だから誰か救う相手が、あるいは責める相手が必要なんです。愛情や憎しみの対象となる誰か、本当の自分を忘れさせてくれる誰かが。
『 終焉の日/ビクトル・デル・アルボル/宮崎真紀訳/創元推理文庫 』
ビクトル・デル・アルボルの 『終焉の日』 を読みました。
時の経つのを忘れて、読み耽りました。
それほど面白かった。
リアリティ溢れる登場人物。
連綿と続く罪の連鎖。
手をさしのべたくても出来ないもどかしさ。
物語の面白さを心いくまで満喫した一冊でした。
ときどき病院付きの司祭がやってくる。単に決まりごとだからであり......
その日訪問すべき、助かる見込みのない患者リストを持っているのか、あるいは先の短い患者の病室に小さな×印でも記してあるのかもしれない。死に向かって一歩一歩進んでいる患者は心がとても弱っていて、気持ちが揺れ、神や運命について敏感になっていると考えているのにちがいない。それはそれとして、悪い人ではない。マリアでさえ、彼の話には耳をかたむける気になる。じつは、そんなに若くして世俗を捨て幻想に人生を捧げようと思ったのはなぜか、尋ねてみたかった。
緑の布張りの肘掛け椅子に、ロラという名の手相読みの老女が座っている。客はめったに現れない。このご時世、誰も未来になど興味がないらしく、彼女がそこにいることにすら誰も気づかない。室内に彼女のおならが漂ってきたときを除いては。
「未来を占ってやろうか?」
マリアに未来などないが、とにかく老女の好きにさせた。老女は彼女の手相を調べた。
「あんたの運命は……悲劇だね……」口を歪めながら言う。過去にあらゆるものを目にしてきた彼女のような海千山千の老女でさえ、あまりの悲惨さに驚いたように。
マリアは気まずくなって手を引っ込めたが、そのあいだも老女は、みすぼらしい緑のオウムのように同じ言葉をぶつぶつとくり返した。
あなたは私を恨んでいるでしょう。私について、あれこれいやな話を聞くかもしれません。すべて真実だし、嘘をつく気もありません。私がなぜこんなことをしたのか今のあなたにはわからないでしょうし、ひょっとすると一生わからないかもしれません。いつかあなたが身を焦がすほど誰かを愛し、その愛に裏切られるようなことでもないかぎり。.......
あなたはもう大人だから、自分で道を選び、進んでいくことができる。もう私のことは必要ないでしょう。ただ、時が経ったあかつきに、私を許し、愛も最悪の愚行を引き起こすことがあるのだとわかってくれると嬉しい。いつの日か、あなたが充分な心の強さを手に入れたとき、真実が見つかるでしょう。
たとえ何があってもあなたを永遠に愛し続ける母、イザベル
世界をよりよいものにすると誓ったこの男の腕の中では、どんなことも可能だったし、タブーなど何もなかった。だが、過ちを嘆くことはもうできない。自分の前にも同じように不倫をして、結局愛を失い苦しんだ者もいれば、これからも夢破れて打ちのめされる者が大勢いるだろう。自分の身に起きたことは過去にも起きたし、未来永劫起き続ける。とはいえあまりにも大きな裏切りで、イザベルの心は張り裂け、なかなか真実を受け入れられなかった。
頑固が高じると、人はときに貝のように殻にこもり、その殻は恨みや裏切り、非難や対立関係によって無残に傷だらけとなる。そうなると、そこに生じた沈黙や分厚い壁は、死によっても、思い出の中でさえも、壊すことができない。
「過去を水に流すことなどできない。けっして消えはしないのだ……それは私がいちばんよく知っている」
ギリェルモがそんなことを言うのは耄碌したからではなく、理性をなくしているからだ。不合理には虫唾が走る。プブリオにははっきりわかっている。人の残酷さには際限がないが、誰かを愛するときその愛にもやはり際限がない。そしてギリェルモは今、残酷さと愛を同時に感じている。
何を尋ねても答えは出ない。父は死んでしまったのだ。子供の頃はこんな不幸はけっして乗り越えられないと思ったものだが、結局のところ世界は何食わぬ顔で巡り続けてきた。
ある種の理屈の前では気持ちなど何の意味もなくなるという馬鹿げた現実をわからせてやる必要がある。権力欲や復讐、憎悪はほかの何よりも強い動機になることや、野望をかなえるためなら人は愛する者を殺し、憎む者にキスできることを教えよう。
確かに汚いやり方だってことはわかっている。だが、世の中というのはそういうものだ
「環境がまったく違うんです」
「環境など関係ない」ププリオは、クラブハウスの庭に面した大窓に近づきながら、いらだたしげにさえぎった。「環境は絶対だとばかりに、甘んじて環境の奴隷となっているような人間には虫唾が走る」
それは経験から出た言葉だった。生まれたときから裕福だったわけではない。
マルチャンは皮肉屋だ。少なくとも、彼の知人と称する者はそう言うが、そもそもその知人自体わずかしかいない。物に動じず、あらゆるものから距離を置き、いつも歪んだ笑みを浮かべている男。
「君のデスクの上にあるファイルの中身は全部黒か白に塗り分けられているんだろう。だが、すべてを善悪のふたつに分けるマニ教的視点は、実際の人間には通用しない。人は灰色なんだ。俺も、そして君も」
マリアは言葉を失っていた。やり込められることなどめったになかったが、セサルに完敗した。言葉にしようとしても、それはすぐ頭の中で消えた。
あきらめない者に残されている唯一の手段は持つことです。憎しみを役立つ感情に生まれ変わらせるには辛抱が必要なんです。
自分自身から逃げられるわけがないんです。鏡を見るたび、個人のあるいは仕事上の失敗に気づくたび、またあの恐ろしい潮が満ちてきて、自分の弱さや臆病さ、あきらめを思い出させる。そしてわれわれは裸に剥かれ、何も言い訳ができなくなる。だから誰か救う相手が、あるいは責める相手が必要なんです。愛情や憎しみの対象となる誰か、本当の自分を忘れさせてくれる誰かが。
『 終焉の日/ビクトル・デル・アルボル/宮崎真紀訳/創元推理文庫 』