10月21日(火)晴
今日は早く帰ってきてホームページの追加やらブログやらで暇つぶしです。忘れた頃にまた日本の原風景の続きです。
サクが二人の孫娘に聞かせた話の一つは自然に対する畏怖と崇拝でした。そして島の生き物との共生でした。鳥や獣は自然と言う偉大な神の使いとして常にやさしく接することでした。彼らの食糧は木の実や海草や魚貝類でしたので鳥や獣はこの過酷な自然の中でいっしょに生きていくパートナーでした。動物や鳥の異常な動きは気象の変化を教えてくれたし、彼らの食べる木の実は何が食糧となるかを教えてくれました。
もう一つの話は自然環境の厳しさによってこの島の人たちには特別の能力が植えつけられていったことでした。自然に対する観察力が研ぎ澄まされて雲の形、夕焼けや朝焼け、風の変化を敏感に感じ取る感性豊かな人たちができあがっていったのです。そしてこれらの知恵はサクがナギとナオに話して聞かせたように代々言い伝えられていきました。こうして自然を愛し森や沼の動物や鳥たちと共生し、感性ゆたかな島人が出来上がっていきました。ナギとナオも感性豊かでやさしい子でした。水や食糧が豊富なこの島では食べ物を奪い合う必要もなく、分け与えることが常であったため物を所有する欲がまったくありませんでした。ただ美しさと醜さが混在する自然の風景を素直に受け入れる人たちでした。
もう一つこの島の人たちは独特の死生観を持っていました。それは毎年多くの人が自然の猛威の犠牲となっていたことに対して素直に受け入れる感情でした。誰かが犠牲となることで自然と言う神の怒りを沈めてくれたのだと言う感謝の感情とも言えました。ナギとナオの父母も兄も自然の怒りを静めるために犠牲になったけど、魂はいつも家族の周りにいてナギとナオを見守っているとサクから聞いていたのでした。雨上がりの蒸し暑い晩にボーッと出て来る人魂も家族が見守っている証として恐がることもありませんでした。
こんな話を毎晩少しずつ聞きながらナギとナオもこの島の伝統とも言える文化を受け継いでいったのでした。
こうして長い冬も過ぎ、海辺の土手には水仙の花が咲き、小川のせせらぎにはフキノトウがつぼみを出す頃には、季節の変わる兆候や月の満ち欠けによる暦の概念、季節に応じた食べ物についてすっかり覚えてしまっていました。
きょうはここまでです。これから一つの異変が起こることによって、新しい知恵と新しい倭人の出現となるのですがこの話はまたあとのお楽しみと言うことにします。
それではまた気が向いたときに。
今日は早く帰ってきてホームページの追加やらブログやらで暇つぶしです。忘れた頃にまた日本の原風景の続きです。
サクが二人の孫娘に聞かせた話の一つは自然に対する畏怖と崇拝でした。そして島の生き物との共生でした。鳥や獣は自然と言う偉大な神の使いとして常にやさしく接することでした。彼らの食糧は木の実や海草や魚貝類でしたので鳥や獣はこの過酷な自然の中でいっしょに生きていくパートナーでした。動物や鳥の異常な動きは気象の変化を教えてくれたし、彼らの食べる木の実は何が食糧となるかを教えてくれました。
もう一つの話は自然環境の厳しさによってこの島の人たちには特別の能力が植えつけられていったことでした。自然に対する観察力が研ぎ澄まされて雲の形、夕焼けや朝焼け、風の変化を敏感に感じ取る感性豊かな人たちができあがっていったのです。そしてこれらの知恵はサクがナギとナオに話して聞かせたように代々言い伝えられていきました。こうして自然を愛し森や沼の動物や鳥たちと共生し、感性ゆたかな島人が出来上がっていきました。ナギとナオも感性豊かでやさしい子でした。水や食糧が豊富なこの島では食べ物を奪い合う必要もなく、分け与えることが常であったため物を所有する欲がまったくありませんでした。ただ美しさと醜さが混在する自然の風景を素直に受け入れる人たちでした。
もう一つこの島の人たちは独特の死生観を持っていました。それは毎年多くの人が自然の猛威の犠牲となっていたことに対して素直に受け入れる感情でした。誰かが犠牲となることで自然と言う神の怒りを沈めてくれたのだと言う感謝の感情とも言えました。ナギとナオの父母も兄も自然の怒りを静めるために犠牲になったけど、魂はいつも家族の周りにいてナギとナオを見守っているとサクから聞いていたのでした。雨上がりの蒸し暑い晩にボーッと出て来る人魂も家族が見守っている証として恐がることもありませんでした。
こんな話を毎晩少しずつ聞きながらナギとナオもこの島の伝統とも言える文化を受け継いでいったのでした。
こうして長い冬も過ぎ、海辺の土手には水仙の花が咲き、小川のせせらぎにはフキノトウがつぼみを出す頃には、季節の変わる兆候や月の満ち欠けによる暦の概念、季節に応じた食べ物についてすっかり覚えてしまっていました。
きょうはここまでです。これから一つの異変が起こることによって、新しい知恵と新しい倭人の出現となるのですがこの話はまたあとのお楽しみと言うことにします。
それではまた気が向いたときに。