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高校野球交流試合がさっぱり盛り上がらないワケ 視聴率は例年の3分の1

2020年08月20日 22時15分53秒 | 社会のことなど

夏の風物詩、高校野球の甲子園大会が幕を開けた。とはいえ、コロナ禍により中止となった春の選抜校による、各チーム1試合限りの交流試合である。しかも無観客での開催となった。その結果、視聴率は2~4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区:以下同)とさっぱり盛り上がっていないという。 

 ***
 民放プロデューサーは言う。 「8月10日、テレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』が12・1%と上昇し、翌11日には12・2%とさらに上げてきました。都内でのコロナ感染者数が連日400人を超え、また数字を上げたのかと思ったら違いました。

よくよく見ると、NHK総合の『あさイチ』が高校野球に差し替えられて放送されていなかったんです。今年は事前の盛り上がりもなかったので、開幕日を忘れていましたが、どうやら『あさイチ』の高齢視聴者が『モーニングショー』に流れたようですね」  

そのせいか、NHKの視聴率は2~4%台を彷徨っているという。

過去には視聴率48%も
「夏の甲子園といえば、例年10%近い視聴率を記録してきました。注目の一戦ともなれば、20%超えは当たり前。例えば、2006年の決勝、駒大苫小牧VS早稲田実業、いわゆるマー君(田中将大)VSハンカチ王子(斎藤佑樹)は、延長15回引き分けとなった初日は33・7%、翌日の再試合では29・3%でした。

1980年にアイドル的人気を誇った荒木大輔がエースの早稲田実業が横浜に敗れた決勝は39・9%。

83年、KKコンビ(清原和博、桑田真澄)のいたPL学園が横浜商業を破って優勝した時は44・4%。

さらに78年の決勝、PLVS高知商業でPLの逆転サヨナラ優勝まで遡ると48・0%という記録もあります」(同)  

今年の初日も鳥取城北高校に明徳義塾が、逆転サヨナラ勝ちしたが、 「視聴率は4・4%にとどまりました。翌11日も2・7~4・2%、12日は3・0~4・5%で、5%にも届かない状況です」(同)


夏の甲子園らしさとは

 やはり、今年は勝手が違う。新型コロナの感染拡大を防ぐため、春の選抜、夏の選手権大会のいずれも開催中止が決定した。日本高等学校野球連盟の八田英二会長の「選手たちには何らかの形で甲子園の土を踏ませてあげたい」との思いから、8月の開催を決定。もっとも、地方予選も行われないため、すでに決定していた春の選抜チーム32校による、交流試合という形になったのだ。 「勝っても負けても1試合で終わりですからね。

やはり、負けたら終わりのトーナメントの真剣勝負じゃないと、感動を呼べません。もちろん、選手たちは一生懸命やっています。だけどテレビ的には、投げて打って走ってだけでは画が持たない。夏の甲子園の醍醐味といえば、大歓声とアルプススタンドです。

美人の女子高生を見つけたり、『コンバットマーチ』に始まり『狙いうち』や『サウスポー』といった懐メロ的ブラスバンドは欠かせません。今年はいかにも暑くるしい学ラン姿の応援団や、かち割りを額に当てる観客もいない。

最終の打者に神頼みする女子高生もいなくては、夏の甲子園らしさがない。うるさいと注意された習志野高校のブラスバンドが懐かしいほどです。それに、甲子園が開催されている中、各都道府県では独自のトーナメント大会を行っていますからね。独自大会の優勝校が甲子園に行けないというのも、なんだか虚しいですし」(同) 

 13日現在、埼玉、千葉、神奈川、滋賀では独自大会の真っ最中だ。その4県を除くと、各都道府県の独自大会優勝校と、甲子園交流試合の招待校で重なるのは9校しかない(県立岐阜商[岐阜]は独自大会への出場を辞退)。  


甲子園の10日第1戦で大分商業(大分)を破った花咲徳栄(埼玉)は、埼玉に戻って12日に県独自大会の初戦を迎えた。甲子園で試合をして地元で再び試合とは、ちぐはぐである。  

また、15日に甲子園で倉敷商業(岡山)と当たる仙台育英(宮城)は、宮城の独自大会では優勝したものの、東北6県で争った東北大会の決勝(12日)では、聖光学院(福島)に8-0で敗れている。 


「選手たちも気持ちの切り替えは大変でしょうが、視聴者だって甲子園での試合に集中できませんよね。たとえ無観客でも、独自大会の優勝校を集めて、夏の選手権大会をトーナメントで開催したほうがよかったんじゃないですか」(同)  返す返すも高校球児たちが気の毒でならない。



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藤井棋聖、木村王位を4ー0で下し王位奪取! 史上最年少2冠・最年少八段に 第61期王位戦7番勝負第4局  [すらいむ

2020年08月20日 22時07分46秒 | 文化と芸能

藤井棋聖、木村王位を4ー0で下し王位奪取! 史上最年少2冠・最年少八段に 第61期王位戦7番勝負第4局  

【第61期王位戦七番勝負】
木村一基 王位 - 挑戦者 藤井聡太 棋聖   各日午前9時開始  持時間各8時間
第1局 7月01・02日(水・木)    木村王位 ●-○ 藤井七段 先 愛知県豊橋市   ホテルアークリッシュ豊橋
第2局 7月13・14日(月・火) 先 木村王位 ●-○ 藤井七段    北海道札幌市   ホテルエミシア札幌
第3局 8月04・05日(火・水)    木村王位 ●-○ 藤井棋聖 先 兵庫県神戸市   中の坊瑞苑
第4局 8月19・20日(水・木) 先 木村王位 ●-○ 藤井棋聖    福岡県福岡市   大濠公園能楽堂




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安倍政権が隠す新型コロナ「日本の奇跡」の原因 >緊急事態宣言?いえ、BCG仮説?

2020年08月20日 21時30分20秒 | 政治のこと
安倍政権が隠す新型コロナ「日本の奇跡」の原因


池田 信夫:経済学者、アゴラ研究所代表取締役所長)

 5月6日で終わる緊急事態宣言は、7日以降も延長される方向らしいが、その根拠は何だろうか。4月7日に安倍首相が記者会見で宣言を発表したとき「東京でこのペースで新型コロナの感染拡大が続けば、2週間後には1万人、1カ月後には8万人を超える」と述べた。

 しかし緊急事態宣言から2週間たった4月21日の東京の累計感染者数は累計3300人。これはニューヨーク州の約3万人の1割で、新規感染者数は減っている。当初は嘲笑していた海外メディアも、最近は「日本の奇跡」と呼ぶようになった。その原因は何だろうか。

■ 日本の新型コロナ死亡率は驚異的に低い

 安倍首相が緊急事態宣言を発令したとき、東京の累計感染者数は約1200人、死者は31人だった。当時はアメリカでは感染爆発が始まり、ニューヨーク州では毎日700人以上が新型コロナで死亡していた。

 「ニューヨークは2週間後の東京だ」と海外在住者がネットで騒ぎ、マスコミも野党も「安倍政権の対応は後手に回っている」と批判していた。もし感染爆発が起こったら、2400人、4800人、9600人・・・という指数関数的な増加で1万人を超えることは論理的にはありうる。

 しかし感染爆発は起こらなかった。4月29日の新規患者数は47人。ピーク時のほぼ2割に減った。感染はピークアウトしたように見える。これを「自粛のおかげだ」という人は、次の図を見てほしい。

  この図はG20諸国の新型コロナ死亡率(人口100万人当たり)の推移を示したものだが、大きく2つのグループにわかれている。対数グラフなので差が小さく見えるが、最上位のイタリアの452人に対して、日本は3人と150倍の差がある。 
 この大きな差を「自粛のおかげだ」とか「日本人はきれい好きだから」などという原因で説明することはできない。死亡率が最小なのは、きれい好きとは思えないインド(0.7人)である。この差は何らかの生物学的なものと考えるしかない。

■ やはり有力なのはBCG仮説

 この図からわかる特徴は、アジアの新型コロナ死亡率が低いということだ。局地的に感染爆発が起こった中国も韓国も今では約3人で、日本とほぼ同じ。インドネシアも(この図にはないが)タイもベトナムも、東アジア・東南アジアの国はほとんど3人以下である。

 これを「アジア人とヨーロッパ人の免疫の遺伝的な違い」とする説は、ほぼ反証されている。多様な民族の集まるアメリカでは、アジア系の死亡率は低くないからだ。

 原因として第1に考えられるのは、中国との交流が多いアジア諸国に新型コロナと似た種類のウイルスが拡散したことだ。2009年の新型インフルエンザのとき日本人の死亡率が低かった原因は、遺伝子配列の似たウイルスに対する免疫ができる交叉反応だったといわれるが、今回はまだ確認できない。

 第2の原因としては、ウイルスの変異が考えられる。新型コロナウイルスはRNA(リボ核酸)なので変異が速く、15日に一度、遺伝子配列が変わるといわれる。武漢で発生した初期の新型コロナウイルスは強毒性で、それが変異したものが周辺のアジア諸国に入ったという説もあるが、これもまだ確認されていない。

 こういう説では、メキシコ(12人)やロシア(6人)は説明できない。東欧や南米の死亡率も、西欧の1/10から1/100である。これを説明できるのは、4月3日のコラムでも紹介したBCG仮説だけである。

 これはそれほど荒唐無稽な説ではなく、今まで肺炎などではBCGの有効性が確認されている。BCGが人体の非特異的な自然免疫の機能を活性化させ、感染しても重症化しないという説もある。

  これについて世界中で、毎日のように論文が発表されている。そのほとんどは査読前の論文なので、今の段階で確たることはいえないが、BCG接種を義務づけている国の新型コロナ死亡率が低いという相関関係は統計的に有意だという結果が多い。

 安倍政権が「人工不況」からの回復の鍵を握っている

 今の段階で確実にいえるのは、日本の驚異的な死亡率の低さの原因は緊急事態宣言ではないということである。日本の自粛より厳格なロックダウン(都市封鎖)をやっている国はたくさんあるが、 死亡率は日本よりはるかに高い。スペインは519人、フランスは369人である。

 したがって死亡率3人の日本が「緊急事態宣言を解除すると感染爆発が起こってスペインやフランスのようになる」という説は、今から激増するメカニズムを説明しない限り、空想というしかない。

 この100倍以上の差は偶然ではありえないが、政府はこれについて今まで公式にコメントしたことがない。BCG仮説についても、菅義偉官房長官が一度「厚労省が検討している」とコメントしたきりである。

 もし日本の新型コロナ死亡率の低さの原因がBCGなどの免疫要因だとすると、クラスター追跡やPCR検査などの日本の対策は無駄だったことになる。緊急事態宣言を解除しても、それほど感染は拡大しない。それがBCGをタブーにしている理由だろう。

 だが防疫対策に莫大なコストが浪費され、緊急事態宣言で多くの企業が廃業に追い込まれて失業が増えると、数千人の自殺者が出るだろう。「金は後から取り戻せるが命は取り戻せない」というのは錯覚である。

  自粛で今回の大不況を作り出したのは安倍政権であり、これは史上初めての人工不況だが、それを回復させる力も政権にある。ここで緊急事態宣言を段階的に縮小し、死者が増えるかどうか注意しながら自粛を緩和すれば、経済は先進国で最初に回復し、日本は世界のトップランナーに復帰できるかもしれない。

5/01f/2020


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新型コロナ問題と東京五輪延期で見えた「保守ブームの終わり

2020年08月20日 20時15分48秒 | 政治のこと
新型コロナ問題と東京五輪延期で見えた「保守ブームの終わり
週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが「保守ブームの終わり」について語る。

* * *

新型コロナの感染拡大による安倍政権の対応、そして東京五輪の延期決定までの混乱ぶりを見ると、ここ数年の「保守ブーム」が終焉(しゅうえん)を迎えることになるような気がしています。

これまで安倍首相は"強いリーダー"を演出し続けてきましたが、実際にそこにあったのは強い意志ではなく、「なんとなく」さまざまな周囲のステークホルダーや"仲間"の都合を優先しつつ、「なんとなく」理想的な日本像とされるものに向けて共同幻想を形づくり、「なんとなく」進んでいただけだったのではないか。そのように感じられるのです。

本当は東京五輪を成功させたところで、日本が抱える諸課題が解決されることはない(一時的な盛り上がりや関連事業のバブルはあったとしても)。にもかかわらず、五輪成功の先には輝かしい憲法改正があり、それによってジャパン・アズ・ナンバーワンの時代を取り戻せる――安倍政権はそんなムードを醸成しようとしてきました。

トランプ米大統領にとって「MAGA(Make America Great Again)」というフレーズが"万能薬"だったのだとすれば、安倍首相にとってのそれは東京五輪の成功だったのでしょう。

安倍首相はトランプ大統領のように、明らかな差別発言やヘイトスピーチをリツイートしたり、本人が露骨に差別意識をにおわせたりはしません。

「日本人」が緩く連携し合うイメージ、心情的に「愛国」に傾くようなムードづくりをしつつ、平気で差別発言をするような"安倍応援団"的な右派論客らの存在を黙認することで利用してきたというのが実態に近いでしょう。

これが安倍政権がつくり出した「右派のエコシステム」だったのです。本来であれば安倍首相本人なり、自民党の気概ある議員なりが、「こんなことを言う人々は本当の保守とは言えない」「保守にパラサイト(寄生)している人たちの意見が大きくなると日本は衆愚化する」くらいのことを言うべき場面は何度もあったと思いますが、そんなことは一切ありませんでした。

その一方で、連立相手は数合わせの宗教政党。グローバリズムの規制緩和に乗り、見せかけの景気回復を実現させるも、実質賃金は上がらず格差は開くばかり。課題に対する本質的な議論は先送り......。そうした矛盾を全部解決してくれる"最後のおまじない"が五輪だったのです。

安倍政権周辺の五輪に対する執着が、どれほど新型コロナ問題に影響を与えたかはまだわかりません。ただ、当初から思い切った策を打ち出すことなく、学校休校やイベント自粛要請をいったん2週間程度で緩和するかのような様子をうかがわせたことが、その後の感染拡大に負の影響を与えたとの見方が強くなれば、逆風はますます強まるでしょう。

今思えば、東京五輪組織委員会の森喜朗会長の「私はマスクをしないで最後まで頑張ろうと思っている」というコメントは、日本の保守層の「なんとなくのロマン」を端的に表していたと思います。五輪に限らず、リニア、万博、カジノ......といったものも同じかもしれない。

それを実現することでさまざまな問題が解決するかのような"スピン"が止まったとき、何が起きるのか。コロナ問題がなければ東京五輪後に見るはずだったものを今、われわれは見ているのかもしれません。

●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)国際ジャーナリスト。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(関テレ)、『水曜日のニュース・ロバートソン』(BSスカパー!)、『Morley Robertson Show』(Block.FM)などレギュラー出演多数。2年半に及ぶ本連載を大幅加筆・再構成した書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)(集英社)が好評発売中!



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御巣鷹山、カメラマンが事故直後に見た忘れ得ぬ光景>35年前の8月12日午後7時過ぎ

2020年08月20日 19時15分15秒 | 事件と事故
35年前の8月12日午後7時ごろ、日本航空のボーイング747型機が長野県との県境にほど近い群馬県・上野村の山中に墜落。524人の乗客乗員のうち、実に520人が亡くなるという航空事故史上最悪の事態となった。翌13日、自衛隊、警察、消防などに加え、多くの取材陣が事故現場に向かった。そのうちの一人、フォトグラファーの橋本昇氏が、鎮魂の意を込めて、35年前に見た光景を、当時の写真とともに振り返った。(JBpress)


 【写真】谷底に落ちていた巨大なエンジンほか写真6点 

■ 慣れない山道に悪戦苦闘する報道陣  (フォトグラファー:橋本 昇)  
ペディキュアはきれいに残っていた。  毛布に包まれた遺体の先から、わずかに覗いた足の指の爪に濃いパールピンクのペディキュアが塗られているのが見えた。 

 乗客乗員合わせて524人を乗せた日航ジャンボ機は、群馬・長野の県境の奥深い山の尾根に激突。尾根筋をえぐり、木々をなぎ倒し、機体は四散して燃え尽きていた。  

1985年8月12日、19時頃、羽田空港を飛び立った大阪伊丹空港行き日本航空123便ジャンボ機が、消息を絶ったという大ニュースが日本中に駆け巡った。時間が経つにつれ、消息不明から墜落へと変わった。  

現場は長野県と群馬県の山境らしいという。未確認情報を頼りに中央高速を急いだ。 

 夜が明け、御巣鷹山へ続く峠から、山道を自衛隊員たちの後ろについて登っていった。  

ところが暫くすると息が荒くなり、一歩踏み出すごとに体中から倦怠感が波のように押し寄せた。一分でも早く現場へ行きたと焦る気持ちと疲労感が交互に体全体を駆け巡る。  

ようやく一つ目の山の尾根付近までやって来た時、前方に亡者のようにふらふらと歩いている、記者らしきスーツ姿の男が眼に入った。男は山道脇の繁みに倒れ込むように横たわり「水持ってませんか?」と聞いてきた。男は何も持っていなかった。汗と埃でよれよれになったシャツとスーツを片手に持ち、しかも革靴、まったくの都会スタイルだった。少し水を飲ませた。男の直ぐ側の木の梢で、美しい声の小鳥が我々の苦悶も知らずに、盛んにさえずる。  


その後も現場へ続く山道の先々で、知り合いのカメラマンや記者たちが喉の渇きと暑さで道に倒れていた。驚いたことに、放送局名のわかる業務用のビデオカメラまで棄てられていた。行き倒れの彼らはほんの裏山にでも登るような軽い気持ちで海抜2000メートル近い墜落現場を目指してきた。それが間違いだった。

現場が次第に近づくにつれ、複数のヘリがエンジン音をうならせながら山頂付近を旋回している。  もう目指す御巣鷹山は直ぐ眼の前にあるような気がする。だが、これから急峻な山道を谷へ向かってしばらく降りて行かなければならない。何回も足を踏み外し、転びながら下りていった。  

尾根へと続く深く切れ込んだ谷底にたどり着くと、突然、あのジャンボ機の翼の下についた4つの巨大なエンジンのうちの一つが落ちているのが目に入った。こんな谷底に場違いな巨大なジェットエンジンが・・・。何とも不可解で恐ろしい風景だ。  

触って見ると、冷たくささくれた軽合金の触感が、手のひらに伝わった。 


■ 突如開けた視界  さらに我々は、墜落現場へ通じる最後の道なき道を、藪を掻き分けるように登って行った。途中所々に乗客の体の一部が散乱している。 

 突然眼の前の視界が開けた。尾根の木々がほとんどなぎ倒されていたからだ。墜落現場はあらゆるルートから、蟻が這い上るよう登って来た自衛隊員、消防隊員やカメラマンたちの姿があった。 

 いたるところから油臭い煙、化学製品が燃える煙、そして髪の毛などタンパク質が燻る煙が立ち上っている。さまざまな種類の煙が放つ何とも表現しようもない異臭――。  

それは、まさにそれまでに見た事が無い凄惨な有様だった。言葉を失った。現実とは思えないほどの光景だったが、鼻を突く異臭がすぐ現実に引き戻す。

 機体重量の約半分を占める200トン近い航空燃料ケロシンが、尾根への衝突と同時に、爆発的に燃え上がり、周囲を炎が包んだことが想像できた。  

機体はバラバラに四散していた。巨体の面影と言えば、狭い尾根に横たわる大きな字でJALとペイントされた片方の主翼だけだった。 

■ 続々と収容される遺体の一部 

 周辺にはバラバラになった遺体や細かい肉片、木の枝にひっかかった一本の腕、高熱で炭化してしまった部分遺体、機体部品、乗客の荷物が散乱している。  

「あんな重い物が空を飛ぶのは信じられない」と飛行機嫌いはよく言うが、こんな場面を見せつけられると、まさにその言葉を実感させられた。  

不思議なことに一席の乗客シートだけは奇跡的に燃えずに残っていた。 


 頭上のヘリがまき散らす轟音の下で、手を合わせて毛布に遺体を包む警察官、ビニール袋を持ってバラバラになった手足を拾い集める自衛隊員、立ち昇る炎にスコップで土をかける地元消防団――それぞれが割り当てられた仕事を黙々とこなしていた。  

そんな彼らの中にも、初めて凄惨な現場を目にしたのだろうか、その場にへたり込んで必死に吐き気をこらえる一人の警察官が、捜索を続ける仲間たちを見つめる姿があった。



■ 沈む太陽  遙か彼方に、ぼんやりと連なる山々が見わたせた。尾根の向う側に真っ赤な太陽が沈んでいく。夕日は、疲労で座り込んだ、我々ひとりひとりの顔を赤く染めた。目線の先には茜色の空に黒々とした山のシルエットが浮かんだ。やがて山々の間に太陽は姿を隠し、御巣鷹山の尾根も深い闇に包まれていった。闇は凄惨な墜落現場を包みこんで隠し、何事もなかったかのような山の静寂と冷気を呼び寄せた。  

そのまま現場に残り一夜を過ごすことに決めた隊員たちや仲間の報道陣は、狭い尾根の上で、毛布に包まれた遺体にすり寄るように座り込んでいた。皆、汗と泥にまみれ、汚れ果て、疲労困憊で尾羽打ち枯らし、寡黙になっていた。暗闇に小さな炎がまるで鬼火のようにちらちら燃え上がるのを誰もが見つめていた。高い尾根にはすでに秋が訪れていた。  


今日一日長かった。倦怠感と同時に空腹感を覚えた。リュックの中から弁当を取り出した。近くに座るカメラマンに「もう一つ弁当がありますからどうぞ」と声をかけた。するとカメラマンは「食欲があるんですね・・・」と笑いながら、差し出した弁当を手刀を切って受け取った。  

いざ飯を摘んで食べようとした時、足元近くに、ちぎれた人間の足が落ちていることに気がついた。懐中電灯で照らしてよく見ると、足は踝から膝上にかけて無理矢理引っぱられたように骨が剥き出しなっていた。血の気を失った足首は泥にもまみれずに、ふやけたような妙な生々しさがあった。 

 昼間の悪夢のような暑さが嘘のように、山頂へ吹きあげて来る風に思わず体を震わせた。遺体を包むために用意された毛布を借りて、横になった。直ぐ側には、明日ヘリで運ばれる予定の遺体が置かれていた。


■ 墜落のフライト  巨大なジャンボジェットは尾根付近の木々をなぎ倒し、ばらばらに四散して、群馬県の名も無い山の頂を、卒塔婆に変えてしまった。 


 多くの人々の胸を躍らせるフライト――だが、ひとつ間違えば、大勢の命がいとも簡単に奪われてしまうという、大きなリスクが常に潜んでいるという現実をまざまざと見せつけていた。  燻り続ける御巣鷹山の狭い山頂の片隅で、毛布に包まれていた部分遺体。暗がりのモノトーンの世界の中で、毛布の結び目から覗く指先の爪に塗られたペディキュアの鮮やかな色はあたかも日航の瑕疵を告発しているようだった。  


日航は利益を優先するあまり、安全運航を怠っていたのだ。その結果一瞬にして命を奪われてしまった人々の無念の想いが墜落現場には立ち込めていた。「なぜ私たちが犠牲にならなければならなかったのか?」。ペディキュアの指は「死にたくなかった。いま直ぐ、命をかえしてください!」と私に悲しく訴えかけてきた。  

あれから35年。今も事故原因を巡り、もっともらしい説が書店の棚を飾り、SNSを賑わせる。だが、事故で失った520名の遺族や友人たちの想いは、今も変わらない。その後、どんなに墜落の原因が解明され、安全運航がなされようが、「なぜ死ななければならなかったのか」という苦悶が心の奥に深く刻まれたまま、35年歳の歳月が過ぎていったのだ。  


日航はこの事故以来、大きな事故は起こしていない。やればできるのである。それをあの事故が起こるまで怠っていた事実は許されない。 

 隆起した入道雲空の遥か上を、旅客機が南へ飛んでいく。それを目で追いながら、今年もあの“暑かった夏”を思い出すだろう。




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