不妊治療2年、流産3回…42歳の母がダウン症でも迷わず産んだ「根拠」
ジャーナリストの河合蘭さんによる連載「出生前診断と母たち」では日本における出産前診断の実例をお伝えしている。親たちも、医療従事者も、様々な思いを抱えているが、大切なのは親たちが「自分たちの意志」で決断し、行動することではないだろうか。
【写真】満面の笑顔が物語る! 松原さん一家の「迷いのなさ」
ただ、「決断し、行動する」ためには「理由」が必要だ。今回河合さんがお話を伺ったのは、妊娠前から障害者雇用の仕事を続けてきたという松原未知さん。ブログも話題となり、講演会も多く行っている松原さんは、不妊治療の末の妊娠で、2分の1の確率でダウン症と言われた際に産まない選択肢がなかったという。そこには明確な「根拠」があった。
生後1週間ごろの佑哉君。より安全に産むために出生前診断を受けた 写真提供/松原未知
5/24sun/2020
ふとしたきっかけで障害者雇用の担当に
「どうして障害者を雇用しないで、年間3千万円も納付金を収めているんですか?」
15年前、当時、人材サービス会社にいた松原未知さんは、上司に疑問をぶつけた。
日本では、日本では、障害者雇用促進法によって、企業は雇用者全体の2.2%は障害者を雇用することを義務付けられている(令和2年3月現在)。これを達成している会社は調整金、報奨金などの名目で一定の金額を受け取れるが、出来ない会社は納付金を徴収される。
「わかりました。では、松原さんが担当してください」
そう言われて、松原さんの人生は突然に変わった。障害者と深いかかわりを持つことになったのだ。30代前半のことだった。
手探りで障害のある人たちを面接した採用した。それまで障害のある人とのかかわりは特になかったが、大学では福祉を学んでいた松原さんは社会福祉士、精神保健福祉士の資格も取得した。その頃に結婚もし、夫の転勤について転居したため、次は自治体に就職して、障害を持つ方も多い生活困窮者の支援員をつとめる。そうこうするうち、2011年末、妊娠した子どもがダウン症候群だという確定診断がついた。
今、その息子である佑哉くんは小学一年生となり、元気に育っている。
「私は雇用者になったかと思ったら支援者になり、保護者にもなってしまったんです。次は、私自身が高齢になって障害者本人になるのかな?」
松原さんは妊娠ブログ「お腹の中の子はダウン症」も注目され、わかって産む妊婦であることをネット上にカミングアウトしたパイオニアでもある。
「ほとんどの人がダウン症がわかると産まないと聞いていたたまれなくなり、どこかで産む人に巡り会いたいと思ったんです。障害をもって生まれ、生きていく人生もあることを社会に知って欲しいという気持ちもありました。ネット中を駆け巡りましたが、当時、英語サイトまで探しても、ダウン症児を産もうとしている妊婦のブログはありませんでした」
ブログは世間の注目を引いただけに中傷、2ちゃんねるでのなりすましといった行為にも遭ったが、同じ立場の女性と巡り合うこともでき、励まし合える仲間もたくさんできた。
松原さんほど、さまざまな角度から障害と向き合ってきた人はいないだろう。
2年間の不妊治療、3回の流産
松原さんの妊娠は、41歳。その前に2年間に及ぶ不妊治療と3回もの流産があるという大変な妊娠だった。不妊治療の経過で出会った医師が偶然にも初期の胎児超音波検査の国際ライセンス取得者を持つ専門家でもあったことから、松原さんは妊娠13週でその検査を受けた。流産の原因は、大半が胎児の染色体異常だから、見通しが欲しくて受けた検査だった。すると「ダウン症である可能性は2分の1」と判定されるという衝撃的な結果が出た。
ダウン症も染色体異常のひとつなので、染色体が正常な子より今後流産してしまう可能性は高い。しかし、すでに妊娠13週となっているので、出産できる可能性も十分にあった。
「ともかく生きて生まれて欲しい!」というのがその時の気持ちだった、と松原さんは言う。羊水検査に行った大学病院の診察室でも、「私、ダウン症でも別に産みますから」と医師にはっきりと言った。妊娠18週、羊水検査でダウン症が確定し、その3日後、松原さんは本連載3回に登場するクリフム夫律子マタニティクリニックを受診し、幸い合併症はなかった。
「産むという選択については、1ミリもぶれたことがなかったんです」という松原さんは、ただ、胎児の情報がすべて欲しかった。「私はどんな子でも受け容れるので、検査は受けない」という声に、松原さんは賛同できなかった。子どもを、万全の準備を整えて産むためには、情報が基本ではないだろうか?
「『産むことを選ぶなんて、偉いわね』とよく言われましたが、私は選ぶことさえしていなかったような気がします。そういうものだと思っていました」
出産前日の松原さん夫婦 写真提供/松原未知
障害について知っているからこそ
理由は、もちろん自身の職業もそのひとつだった。障害がない人もある人もいるのがこの世界だという信念で頑張ってきたし、現場経験から、松原さんは、日本の障害者福祉は整っているという安心感を持っていた。あまり知られていないが、制度をちゃんと使えば、子どもにダウン症があるために生活が困窮するようなことはなく、子どもを保育園に入れて親が働き続けることもできる、と。
そして、もうひとつ深いところにも、松原さんの理由はあった。
「私には、宗教的背景があると思います。プロテスタントの学校に通っていた家族が多く、私自身もそういう学校で学んでいて聖書の授業もありました。『人はみんな神様の子どもであり、誰もが平等な存在』と小さいころから教えられてきたので、障害者を排除しようという考え方は生まれようがない。自分の基本的な価値観と人生観が、そうなっているんですね」
松原さんは、仕事でもこの考え方に励まされてきたという。
「日本は宗教を語りたがらない傾向がありますが、私はこの考えから『生きやすさ』をもらってきたと思います。なにしろ40年も生きてきたあとでの高齢妊娠ですから、人生観も固まってきていたのでしょうね」
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