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「コレラ時代の愛」

 ガルシア・マルケスの「コレラ時代の愛」を読んだ。この本が発行されたのは06年の10月30日であり、私が書店で見つけたのはその後すぐのことだったから、2年半以上も前に買って、そのまま1ページも読まずに書棚で眠っていたことになる。その間にこの小説をもとにした映画が公開された。見に行こうかな、とも思ったが、原作を持っていながら読んでいない自分では見る資格がない、と強く思って断念した。だからと言って、それをきっかけに読み始めたわけではない。映画の公開もとうの昔に終わってしまった今から一カ月ほど前、たまたま書棚を整理していた時に、そう言えばこの本読んでいなかったな、と思って取り上げたのが、きっかけだった。映画の公開時にそのセンセーショナルなあらすじを読んだ覚えがあったので、本当にそんな物語なのか、俄かに興味が湧いてきて読み始めた。だが、何と言っても500ページに及ぶ大作であり、しかも久しぶりに翻訳された外国文学を読むので、翻訳文独特のリズムに慣れるまで時間がかかってしまい、本書の内容と同じく悠揚たるペースで読みすすめることになってしまった・・。

 主な登場人物は3人しかいない。フェルミーナ・ダーサとその夫、フベナル・ウルビーノ博士、それにフロレンティーノ・アリーサ。フェルミーナが13歳だったときにフロレンティーノが彼女を見初め、熱情溢れる手紙のやり取りを長く続けた後、終には結婚の約束までする。だが、それを知った父親が横槍を入れ、彼女を連れて町を出てしまう。二人はその間も文通を続けていたが、何年か経って町に戻ったフェルミーナは、長い別離の果てに出会ったフロレンティーノに幻滅し《かわいそうな人》と見限ってしまう。その後彼女は、名声も富も持ったその地方の名士、ウルビーノ博士と紆余曲折を経ながらも結婚する。それに衝撃を受けたフロレンティーノは懊悩の極みに達するものの、彼女のことを忘れることができず、彼女をもう一度我が物とできる日を待ち望みながら、博士の早い死を願う日々を過ごす。その間に彼は600人余の女性と関係を持つが、心に思い続けるフェルミーナへの愛の炎は消えることがない。果てしない時が過ぎた後、ひょんなことで博士が突然の死を迎える。その夜、フロレンティーノは51年9ヶ月と4日の間、待ち続けていた愛の告白をフェルミーナにする・・。

 ざっとまとめればこんな物語だ。もちろんこれは物語の骨格に過ぎず、この小説の血肉たる様々なアネクドートを味わってこそ、壮大な物語の全貌を掴むことができる。「物語るために、私は生まれてきた」とマルケスは語っているが、豊穣として尽きることのない物語を滔々と語るマルケスは、まさに天から降ってきた物語を代筆しているようにさえ思える。50年以上も一人の女性に恋焦がれ、彼女に己の気持ちを伝えることのできる時をただひたすら待ち続ける、そんな現実にはありえない話を私たちの眼前に繰り広げてくれるその熟練した技に魅了されてしまうと、架空の夢物語などではなく、現実にあった事件のように思えてしまう。読み終えるまでに1ヶ月以上かかってしまったが、その長い間、私は内戦とコレラの蔓延で疲弊しきった1世紀前の南米の地で、フェルミーナとフロレンティーノの愛の行方を我慢強く追っていたように思う。その意味では、私は彼らの愛の証人になったようなものであり、70歳も半ば近くなった彼ら二人がその愛を成就させたときには、長い旅が終わったような気がして深いため息をついた・・。
 小説とは一個の完結した世界を築き上げたものであろうが、入り口と出口があやふやなものは私にはどうにも読めない。入り口はいくつかあってもいいが、出口は1つであって欲しいと思う。出口を曖昧にしてしまうと、その小説世界から日常の世界へ戻ってきにくく、日常と同時に小説世界をも台無しにしてしまう。いくら荒唐無稽なものであっても、完結した形をとってくれさえすれば私は受け入れることができる。この小説は長い時間をかけて読んだので、小説と日常を何度も往復せねばならなかったが、その距離は意外と短かったため、思いの外楽に行き来できた。しかし、見事に完結したこの小説を読み終えた今、出口は閉じられてしまい、慣れ親しんだ小説世界は徐々に私から遠ざかりつつある。25年近くも前に読んだマルケスの「百年の孤独」は遥かかなたにその世界の影が仄見えるくらいだが、それでも私の中では確固たる地位を占めている。この「コレラ時代の愛」もやがて私の心の中天で星のように輝くようになるのだろうか・・。
 
 7月に映画がDVD化されて発売されるそうだ。果たして見るべきか否か、少しばかり躊躇ってしまう・・。
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