毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
著作権
2005年09月10日 / 塾
先日自宅の居間に、真新しい赤本が置いてあった。息子はまだ高2で、基礎力を充実させるべき時期なのに、何を焦って赤本などを買うのか、と少々不満に思った。そこで、その夜、塾へ来たときに理由を問いただしたところ、『著作権の問題で、赤本が出版されなくなるおそれがあるから、買えるなら買っといたほうがいいと、学校の先生に言われたから』と答えた。ああ、著作権か、と思わず私はため息をついてしまった。というのは、問題集を製作している出版社の営業担当者が、来塾する度に『国語の問題集が著作権の関係で作りにくくて』とぼやいているからだ。
言われてみると、ここ数年来、国語の問題集で教科書の本文を引用していない問題が多くなっている。そういう問題には、「この作品におきましては、著作者の掲載許可が得られませんでした。申し訳ございませんが、ご了承のうえ教科書を併用していただけますようお願いいたします」という丁寧な但し書きが付いている。そして、「教科書何ページから何ページまでを読んで、次の問いに答えなさい」などと設問が並べられている。これが学校で解かせる問題集やプリントなら、生徒が教科書を持って来ているから、まだ対応できるだろう。しかし、塾となるとなかなかそうはいかない。学校のカバンから教科書を取り出して塾のカバンに移し換え、塾の授業を受けてまた家に持ち帰って、学校のカバンに戻す。そういった作業を毎回忘れずにやってくれる生徒が、果たしてどれだけいるのだろうか。私にはとても自信がない。
現場のこうした意向を熟知している出版社は、著作者と何回も交渉を重ねているようだが、なかなか話がまとまらないらしい。勿論、会社によっては全文を掲載する許可を取ったところもあるようだが、私の取引会社は難航しているらしい。もしこのまま、本文掲載が少ない問題集となってしまったら、他社のものを使用しなくてはならず、洗練された問題が多く質の高い今までの問題集と別れなければならなくなるのは辛い。
私は、法律とは全く無縁な人生を送ってきた男であり、著作権について真正面から論じる知識も能力も持ち合わせていないので、口を閉ざすべきかもしれないが、敢えて言わせてほしい。確かに、自らの作品を問題集に掲載され、作者自身さえも正解が答えられないような設問を付けられたのでは、自らの文章に己の命を注ぎ込んだ作者としては、我慢できないのも当然だ。しかし、問題集に本文が載せられ、少しでも多くの文章を読む機会が子供達に与えられるなら、間違いなくその分だけ彼らの国語力は上がるはずだ。たとえ、設問がいくら愚問であったとしても、本文を繰り返し読む作業によって、彼らの読解力が少しでも深まり、物の見方に好ましい影響を与えるに違いない。
塾といえば、教育界の末端組織であり、そこでの便宜など一顧だに値しないかもしれないが、逆に言えば、子供達が直に問題文と触れる教育の最前線でもあるわけなので、何とかよい結果が得られるのを願うのは、塾の勝手な論理だとばかりは言えないと思う。
言われてみると、ここ数年来、国語の問題集で教科書の本文を引用していない問題が多くなっている。そういう問題には、「この作品におきましては、著作者の掲載許可が得られませんでした。申し訳ございませんが、ご了承のうえ教科書を併用していただけますようお願いいたします」という丁寧な但し書きが付いている。そして、「教科書何ページから何ページまでを読んで、次の問いに答えなさい」などと設問が並べられている。これが学校で解かせる問題集やプリントなら、生徒が教科書を持って来ているから、まだ対応できるだろう。しかし、塾となるとなかなかそうはいかない。学校のカバンから教科書を取り出して塾のカバンに移し換え、塾の授業を受けてまた家に持ち帰って、学校のカバンに戻す。そういった作業を毎回忘れずにやってくれる生徒が、果たしてどれだけいるのだろうか。私にはとても自信がない。
現場のこうした意向を熟知している出版社は、著作者と何回も交渉を重ねているようだが、なかなか話がまとまらないらしい。勿論、会社によっては全文を掲載する許可を取ったところもあるようだが、私の取引会社は難航しているらしい。もしこのまま、本文掲載が少ない問題集となってしまったら、他社のものを使用しなくてはならず、洗練された問題が多く質の高い今までの問題集と別れなければならなくなるのは辛い。
私は、法律とは全く無縁な人生を送ってきた男であり、著作権について真正面から論じる知識も能力も持ち合わせていないので、口を閉ざすべきかもしれないが、敢えて言わせてほしい。確かに、自らの作品を問題集に掲載され、作者自身さえも正解が答えられないような設問を付けられたのでは、自らの文章に己の命を注ぎ込んだ作者としては、我慢できないのも当然だ。しかし、問題集に本文が載せられ、少しでも多くの文章を読む機会が子供達に与えられるなら、間違いなくその分だけ彼らの国語力は上がるはずだ。たとえ、設問がいくら愚問であったとしても、本文を繰り返し読む作業によって、彼らの読解力が少しでも深まり、物の見方に好ましい影響を与えるに違いない。
塾といえば、教育界の末端組織であり、そこでの便宜など一顧だに値しないかもしれないが、逆に言えば、子供達が直に問題文と触れる教育の最前線でもあるわけなので、何とかよい結果が得られるのを願うのは、塾の勝手な論理だとばかりは言えないと思う。
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ケイト・ブッシュ

私がケイト・ブッシュを知るきっかけを与えたのは、妻の妹だ。彼女は、高校時代に2度イギリスへ短期留学したほどのイギリス好きで、よく聴いていたのが当時イギリス音楽界の注目を集めていたケイトだった。ケイトは私と同じ1958年生まれであり、その感性あふれる楽曲、透明感と重層感のあるヴォーカル、さらにはたぐい稀な美貌で、20才そこそこの私を瞬時に魅了してしまった。(余談だが、マイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナなど、1958年生まれの海外ミュージシャンは、ビッグな存在が多い)
デビューアルバム”Kick Inside ”(日本版タイトル「嵐が丘」)、”Lion Heart””Never For Ever ”は、みな妹から借りてダビングし、車の中などで、いつも聞いていた。彼女の曲はどれも心に深く残るものばかりだが、一番のお気に入りを教えろと言われたら、私は "The man with the child in his eyes" 「少年の瞳を持った男」をためらいなくあげる。ピアノと共に、静かに切々と歌い上げられるこの曲には、ケイトの魅力が見事に凝縮されている。その歌詞の一部、
I hear him, before I go to sleep
And focus on the day that's been.
I realise he's there,
When I turn the light off and turn over.
Nobody knows about my man.
They think he's lost on some horizon.
And suddenly I find myself
Listening to a man I've never known before,
Telling me about the sea,
All his love, 'til eternity.
Ooh, he's here again,
The man with the child in his eyes.
Ooh, he's here again,
The man with the child in his eyes.
歌詞の内容は、恋に悩む女性が自らの鬱屈を鎮めるために、心の中に生み出した男、少年の瞳を持った男が、彼女にやさしく話しかける、といったものだが、私は、 ”man with the child in his eyse ”という表現がこの上なく好きだ。決して、childish ではない、精神的に独立した一個の大人でありながらも、決して少年のように輝く瞳を失っていない男、そんな男になりたいと願って、私は生きてきたのだが、果たしてどうだろう。大人っぽい大きな子供、子供っぽい大人にはなったかもしれないが、恥ずかしながら、まだまだ、「少年の瞳を持った男」にはなりきれていないようだ。この年になって何を今さら、という気もするが、輝く瞳を持てるよう、まだまだ自分を磨いていかなければならない。
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卑下と従属
メジャーリーグでは、各チームとも残り25試合ほどになり、各地区で激しいせめぎ合いが繰り広げられているが、マイナーリーグでは1足早く、今シーズンが終了した。日本人選手も何名かマイナーリーグでプレイしており、その中で最も注目されたのが、野茂英雄投手と中村紀洋内野手である。野茂は、日米通算200勝を達成した後デビルレイズを解雇され、ヤンキーズのマイナーチームと契約を交わしたものの、昇格することなくシーズンを終えた。一方の中村は、春先一度はドジャーズに昇格したものの、ほとんどをマイナーチームで過ごし、今シーズンの成績は、101試合、打率 .249、打点 67、HR. 22 に終わった。これは昨年の日本での成績、105試合、打率 .274、打点 66、HR. 19 と比べて大差がないことから、日本のプロ野球がマイナーリーグ程度の力しかない証拠だと揶揄されても仕方がないような成績だ。
その中村が、シーズンを終えた感想を求められ、『長かった。やっと罰ゲームが終わった』と答えた記事を読んだ時、私は驚き呆れてしまった。これがどういう状況下で出てきた発言で、またその前後の関係が不明であるため、断定的なことは言えないが、私には彼の真意が全くつかめない。もし彼が、『罰ゲーム』という言葉を、自らの実力を見極めもせずに、メジャー挑戦した己の愚かさに対する『罰』という意味で使ったとしたなら、いったい彼は自分を何だと思っているのだろう。いやしくも日本1ではないかもしれないが(日本1は松井秀喜に決まっている)、日本を代表するスラッガーの1人だ。その彼が、己を卑下してこの発言をしたのなら、彼の今まで日本で築き上げてきた実績を、自ら否定することになってしまう。さらには、己を卑下した結果、マイナーリーグという組織に甘んじて従属していたと言うのなら、何たる惰弱な男だろうか。自らの意志で選択した道ならば、志半ばといえども、決して自己を否定する発言をしてはならない。この発言からは、全く気概が感じられない。
そもそも私には、中村という男が理解できない。3年前にFA宣言をして、日本の数球団やニューヨークメッツと入団交渉をする過程で、『中村紀洋というブランドの価値を知りたい』などと訳の分からぬ発言を繰り返していた。自らをブランドと名乗るだけの自負心が本当に彼にあったのなら、理不尽とも思える理由で、メッツ移籍を土壇場で拒絶したりしただろうか。フルスィング男などと言われ、一見豪放磊落に見えても、その実は因循姑息な男に過ぎず、ただ現実の重みに耐えかねて逃げ出しただけだと、当時の私は思ったものだが、今回のこの発言を見ると、私の推測もあながち的外れではなかったように思われる。
男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くば復還らず
骨を埋むるに何ぞ期せん墳墓の地を
人間到る処に青山あり 月性
松井秀喜は、メジャー挑戦を発表する記者会見で、『命を賭けて』と言った。(☆さんからのご指摘で訂正)果たして中村にそれほどの覚悟があったのだろうか。男が、命を賭ける覚悟で決めたことを成し遂げずに、故郷へ帰ることなどできるはずがない。中村にはその覚悟がなかったのは、『罰ゲーム』などという言葉を平気で使う鈍感さを見るだけで分かる。来季は日本でプレイする意向があるようだが、こんな男ではどのみち大した活躍は望めはしないだろう。
その中村が、シーズンを終えた感想を求められ、『長かった。やっと罰ゲームが終わった』と答えた記事を読んだ時、私は驚き呆れてしまった。これがどういう状況下で出てきた発言で、またその前後の関係が不明であるため、断定的なことは言えないが、私には彼の真意が全くつかめない。もし彼が、『罰ゲーム』という言葉を、自らの実力を見極めもせずに、メジャー挑戦した己の愚かさに対する『罰』という意味で使ったとしたなら、いったい彼は自分を何だと思っているのだろう。いやしくも日本1ではないかもしれないが(日本1は松井秀喜に決まっている)、日本を代表するスラッガーの1人だ。その彼が、己を卑下してこの発言をしたのなら、彼の今まで日本で築き上げてきた実績を、自ら否定することになってしまう。さらには、己を卑下した結果、マイナーリーグという組織に甘んじて従属していたと言うのなら、何たる惰弱な男だろうか。自らの意志で選択した道ならば、志半ばといえども、決して自己を否定する発言をしてはならない。この発言からは、全く気概が感じられない。
そもそも私には、中村という男が理解できない。3年前にFA宣言をして、日本の数球団やニューヨークメッツと入団交渉をする過程で、『中村紀洋というブランドの価値を知りたい』などと訳の分からぬ発言を繰り返していた。自らをブランドと名乗るだけの自負心が本当に彼にあったのなら、理不尽とも思える理由で、メッツ移籍を土壇場で拒絶したりしただろうか。フルスィング男などと言われ、一見豪放磊落に見えても、その実は因循姑息な男に過ぎず、ただ現実の重みに耐えかねて逃げ出しただけだと、当時の私は思ったものだが、今回のこの発言を見ると、私の推測もあながち的外れではなかったように思われる。
男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くば復還らず
骨を埋むるに何ぞ期せん墳墓の地を
人間到る処に青山あり 月性
松井秀喜は、メジャー挑戦を発表する記者会見で、『命を賭けて』と言った。(☆さんからのご指摘で訂正)果たして中村にそれほどの覚悟があったのだろうか。男が、命を賭ける覚悟で決めたことを成し遂げずに、故郷へ帰ることなどできるはずがない。中村にはその覚悟がなかったのは、『罰ゲーム』などという言葉を平気で使う鈍感さを見るだけで分かる。来季は日本でプレイする意向があるようだが、こんな男ではどのみち大した活躍は望めはしないだろう。
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SEVENTEEN
2005年09月07日 / 塾
先日、中学生の女の子のカバンから、「SEVENTEEN」という雑誌がはみ出ていたのを何気なく見つけて、まだこの本はあったんだ、と懐かしくなって見せてもらった。表紙からパラパラと見ていくうちに、中に写っているモデルの女の娘たちが、みんな同じに見えて、全く区別が付かないことに気が付いた。栗色のセミロングの髪をして、目元がパッチリした小顔で微笑んでいる姿は、全員文句なく可愛らしい。しかし、特徴がなく、みんな同じに見えてしまう。私が思わず、『みんな同じ顔をしてるね、区別が付かないや』と言ったところ、『えーっ、何でえ、みんな違うじゃん』と女子中学生に大笑いされてしまった。まあ、女子中学生というのは、やたらキャッキャと笑う存在だから、慣れっこになってはいるが、ちょっとムキになって、『この娘とこの娘なんか、よく似てるだろ、そっくりだ』と反論したところ、『当たり前じゃん、同じ娘だもん』と、さらに大爆笑されてしまった。くそっ、と思ったが、子供相手にムキになった自分が悪いと、反省して雑誌を返した。
TVを見ていても、若い女の子はまるで区別が付かない。みな同じ髪型をし、同じメイクで、同じようなしゃべり方をする。私が年をとったせいなのかもしれないが、それだけではないようだ。雑誌やTVの中だけでなく、街を歩いている女子高生たちの何と同じような格好をしていることか。よくもまあ、あんなステレオタイプな格好が平気でできるものだと、その鈍感さには感心してしまうほどだ。
そんな女子高生の典型とでも言うべき女の子が、一人塾生にいる。髪の毛は栗色というより金色に近く、一見したところでは、その辺にたむろしているバカ女子高生だが、県内でも上位にランクされる公立校に通っている、まあ優秀なお嬢さんだ。塾には中学から通っているが、高校合格とともに、一気にはじけてしまい、今風の女子高生に変身してしまった。私の県内の公立高校は、私立高校よりも校則がゆるく、さらに偏差値の高い学校ほど、自由度(自主性という名の放任)が高くなっている。従って、彼女が時々学校の制服のまま塾に来たりすると、本当にぎょっとする。目の周りはアイラインで黒くしてしまい、まるで炭団を塗ったようだし、何もこれほどまでにしなくてもと思うほどスカートは短く、ブラウスのボタンは2つも3つも開けたままで、正直目のやり場に困ってしまうほどだ。
『なんだい、その顔は。可愛い顔が台無しだよ』と諭しても、『みんなこんな感じですよ』と、少しも臆さない。『先生は何も言わないの』『言いませんよ』『じゃあ、親は?怒られないの』『特に怒りませんよ』とすらすら答える。さすがに受け答えはしっかりしているが、外見がそれではなあ、と私がいくら嘆息しても馬耳東風、平気な顔をしている。
少し前なら、みんなと違うことをしたいと思って髪に色をつけたり化粧をしてみたりしたのが、今の高校生を見ていると、みんなと同じじゃなければ取り残されるとばかりに必死になって流行を追っているような気がしてならない。個性的になろうとして、かえって没個性になってしまう愚を彼女たちはいつになったら気付くのだろうか。
まあ、『そんなこと知っててやってるからいいじゃん』、などと言われるならば、『ご自由に』と言うしかないのだろうが。
TVを見ていても、若い女の子はまるで区別が付かない。みな同じ髪型をし、同じメイクで、同じようなしゃべり方をする。私が年をとったせいなのかもしれないが、それだけではないようだ。雑誌やTVの中だけでなく、街を歩いている女子高生たちの何と同じような格好をしていることか。よくもまあ、あんなステレオタイプな格好が平気でできるものだと、その鈍感さには感心してしまうほどだ。
そんな女子高生の典型とでも言うべき女の子が、一人塾生にいる。髪の毛は栗色というより金色に近く、一見したところでは、その辺にたむろしているバカ女子高生だが、県内でも上位にランクされる公立校に通っている、まあ優秀なお嬢さんだ。塾には中学から通っているが、高校合格とともに、一気にはじけてしまい、今風の女子高生に変身してしまった。私の県内の公立高校は、私立高校よりも校則がゆるく、さらに偏差値の高い学校ほど、自由度(自主性という名の放任)が高くなっている。従って、彼女が時々学校の制服のまま塾に来たりすると、本当にぎょっとする。目の周りはアイラインで黒くしてしまい、まるで炭団を塗ったようだし、何もこれほどまでにしなくてもと思うほどスカートは短く、ブラウスのボタンは2つも3つも開けたままで、正直目のやり場に困ってしまうほどだ。
『なんだい、その顔は。可愛い顔が台無しだよ』と諭しても、『みんなこんな感じですよ』と、少しも臆さない。『先生は何も言わないの』『言いませんよ』『じゃあ、親は?怒られないの』『特に怒りませんよ』とすらすら答える。さすがに受け答えはしっかりしているが、外見がそれではなあ、と私がいくら嘆息しても馬耳東風、平気な顔をしている。
少し前なら、みんなと違うことをしたいと思って髪に色をつけたり化粧をしてみたりしたのが、今の高校生を見ていると、みんなと同じじゃなければ取り残されるとばかりに必死になって流行を追っているような気がしてならない。個性的になろうとして、かえって没個性になってしまう愚を彼女たちはいつになったら気付くのだろうか。
まあ、『そんなこと知っててやってるからいいじゃん』、などと言われるならば、『ご自由に』と言うしかないのだろうが。
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えっ、恋愛論?(2)
私の友人の新聞記者は、妻子持ちの男であるが、現在京都で単身赴任生活をしている。というよりも、妻子と別居していると言った方が正確であろう。それはもう10年以上も続いているが、その原因はプライバシーにかかわることなので、ここでは詳細を記さない。とりあえずは、友人の女性問題がもとで、とだけ言っておく。ただし、現在はそんな女性とは縁が切れたようで、独身生活(?)を謳歌している。傍目から見れば、自由気ままで羨ましい生活のようにも見えるが、不規則な生活と不摂生がたたってか、彼の体は、大学時代の面影などまるで無いほど膨れ上がってしまい、ある意味痛々しい。私などにはそんな生活はとてもできないだろうと思うが、彼自身は飄々と毎日を過ごしているようだ。
先日の同窓会で雑談するうちに、彼の別居生活に話が及び、1人の先輩が彼にその理由を訊ねられた。彼ら夫妻は、『野草を食べる会』で知り合った仲であり、二人の熱愛ぶりは、会員なら誰も知らない者はないほどだったので、先輩が彼らの現状を意外に思われるのも当然であろう。その問いに、彼は『愛は冷めますから』と、きっぱり答えた。横にいた私は『へーっ、愛って冷めるのかあ』と思わず叫んでしまった。『そりゃあ、冷めるさ。当たり前だろ』と彼は平然と言ってのけた。『冷めちゃ、しょうがないわな』と先輩は納得されたが、私には釈然としないものが残った。『愛は冷めないよな、冷めるのは愛じゃないよな』と、まるで愛を叫ぶ男のようにぶつぶつ繰り返していた。
京都から家に戻り、友人の話を妻にして、『愛は冷めるらしいよ』と言ったところ、『当たり前じゃん、そんなもん冷めるに決まってる』『えっ、冷めるの?』と驚く私に、『バカじゃない。若い頃と同じじゃないわよ、熱は冷めるものだし』と遠慮しない。『なるほどね。だけど、形は変わっても深まる愛ってのがあってもいいだろ、俺達みたいにさ』とさりげなく私が言うと、『う~~ん、そうかもね』と不承不承同意した。常々私に悪態をつくことだけが喜びのような彼女にしては、まあ上出来なほうの答えだろう。
「愛は形を変えながらも深化する」、彼女との会話で1つの結論が見えたような気がする。18のときから付き合い始めてかれこれ30年近くなる私達が、ずっと変わらぬ愛情を持ち続けてきたと言えば嘘になる。若い頃の熱情が互いにあるはずもなく、かといって涸れ尽くしてしまったとも言えないだろう。互いの心の間をふわふわと漂いながら、付かず離れず泳ぎ続けているような、不思議な浮遊感覚、私達二人をつなぐ思いは、そんなものだろう。
互いをじっと見詰め合うのはもう照れくさくてとてもできない。かと言って、同じ方向を向いて、手を取り合って生きていくには我が強すぎる。2つのベクトルの和が、平行四辺形の対角線となるように、互いに別々の方向を向いていながら、結局は同じ方向に向かって生きていく、そんな関係になってきた。これが成熟した男女関係と呼べるかどうか分からないが、私達が30年近く掛かって築き上げてきたこの関係が、今の私にとっては妙に心地がよく、気に入っている。まあ、妻がどう思っているかは分からないが。
先日の同窓会で雑談するうちに、彼の別居生活に話が及び、1人の先輩が彼にその理由を訊ねられた。彼ら夫妻は、『野草を食べる会』で知り合った仲であり、二人の熱愛ぶりは、会員なら誰も知らない者はないほどだったので、先輩が彼らの現状を意外に思われるのも当然であろう。その問いに、彼は『愛は冷めますから』と、きっぱり答えた。横にいた私は『へーっ、愛って冷めるのかあ』と思わず叫んでしまった。『そりゃあ、冷めるさ。当たり前だろ』と彼は平然と言ってのけた。『冷めちゃ、しょうがないわな』と先輩は納得されたが、私には釈然としないものが残った。『愛は冷めないよな、冷めるのは愛じゃないよな』と、まるで愛を叫ぶ男のようにぶつぶつ繰り返していた。
京都から家に戻り、友人の話を妻にして、『愛は冷めるらしいよ』と言ったところ、『当たり前じゃん、そんなもん冷めるに決まってる』『えっ、冷めるの?』と驚く私に、『バカじゃない。若い頃と同じじゃないわよ、熱は冷めるものだし』と遠慮しない。『なるほどね。だけど、形は変わっても深まる愛ってのがあってもいいだろ、俺達みたいにさ』とさりげなく私が言うと、『う~~ん、そうかもね』と不承不承同意した。常々私に悪態をつくことだけが喜びのような彼女にしては、まあ上出来なほうの答えだろう。
「愛は形を変えながらも深化する」、彼女との会話で1つの結論が見えたような気がする。18のときから付き合い始めてかれこれ30年近くなる私達が、ずっと変わらぬ愛情を持ち続けてきたと言えば嘘になる。若い頃の熱情が互いにあるはずもなく、かといって涸れ尽くしてしまったとも言えないだろう。互いの心の間をふわふわと漂いながら、付かず離れず泳ぎ続けているような、不思議な浮遊感覚、私達二人をつなぐ思いは、そんなものだろう。
互いをじっと見詰め合うのはもう照れくさくてとてもできない。かと言って、同じ方向を向いて、手を取り合って生きていくには我が強すぎる。2つのベクトルの和が、平行四辺形の対角線となるように、互いに別々の方向を向いていながら、結局は同じ方向に向かって生きていく、そんな関係になってきた。これが成熟した男女関係と呼べるかどうか分からないが、私達が30年近く掛かって築き上げてきたこの関係が、今の私にとっては妙に心地がよく、気に入っている。まあ、妻がどう思っているかは分からないが。
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えっ、恋愛論?
先週の日曜日、酔いに任せて、『星の王子さま』を仏語の原書、日本語訳(岩波版)、英訳、独訳、さらにはスペイン語訳までネットで注文した。日本語訳は勿論のこと、仏語、英語では読んだことがあるが、独語・スペイン語では読んだことがない(どころか、独語・スペイン語は読めない)私が何故そんな気になったかと言えば、倉橋由美子訳の『星の王子さま』を書店で見つけて、岩波版の訳と比べてみたいと思うようになったからである。たしか、内藤濯訳の本は持っていたはずなのに探しても見つからないため、買うしかないなとネットで検索するうちに、この際、買える物はみんな買っちゃえという気になって、一気に5冊注文した。これが巷でウワサの大人買いかな、と思わず自分を笑ったが、本に糸目はつけたくない習性がまた出た結果だと自分では納得している。が、一週間たっても、配達されてこない。1週間もすれば、いろんな言葉で『星の王子さま』が楽しめると思っていた目論見が外れて、今日の日曜は退屈をした。
サンテグジュベリと言えば、大学の卒論のテーマにしようかと思ったぐらいで、かなりの作品を読んでいるが、戦地へ赴く前に書き留めていたと言われる次の言葉がどうしても真っ先に頭に浮かぶ。
『愛する、それは向き合うことではなく同じ方向を見つめることである』
男女が知り合い、お互いを好ましいと感じた瞬間から、見つめ合い、互いを知ろうとするのは当然のことである。互いを認め合い、この人なら自分を任せられるかもと恋に落ちて行く。そこまでのプロセスは、甘美な、何度味わっても味わいつくせない甘く切ない恋の期間であろう。多くの場合、その段階で終わり、愛にまで発展しないのだが、それを愛と誤認することで様々なトラブルが生じる。「彼は私のこと分かってくれない」だとか、「彼女は自分のことしか考えない」とか言って、別れる男女のなんと多いことか。そんなのは愛でもなんでもない、ただの錯覚だから、早く別れたほうがいい。互いに見詰め合っているだけなら、どうしたって、相手の欠点が見えてくる。その意味で、SMAPのこの曲はなかなか示唆に富む。
♪育ってきた環境が違うから、すれ違いはしょうがない♪
山崎まさよし「セロリ」
当たり前のことなのに、これが分からずに恋のまま終わるカップルが実に多い。まあ、下手に結婚してすぐに別れるバカップルよりもまだましかもしれないが。
お互いの、自分とは違う点を認め合い、その違う点も含めた一個の存在として相手を尊重し合うことができれば、その瞬間に恋は愛へと昇華する。さらに、サンテグジュベリの言葉のように、二人で同じ方向を見つめ合うことができたとき、愛はたとえ一瞬であったとしても、成就されるのではないだろうか。それが、家を建てるとか、子供をどこそこの学校に入れるとか、どんなに日常的なものであったとしても、男女2人が力を合わせて1つの目標に向かって生きるとき、愛が達成されていると感じるのは、まだまだ私が青いからだろうか。
愛を信じて生きなきゃ、この先、生きていけないや、私は。
サンテグジュベリと言えば、大学の卒論のテーマにしようかと思ったぐらいで、かなりの作品を読んでいるが、戦地へ赴く前に書き留めていたと言われる次の言葉がどうしても真っ先に頭に浮かぶ。
『愛する、それは向き合うことではなく同じ方向を見つめることである』
男女が知り合い、お互いを好ましいと感じた瞬間から、見つめ合い、互いを知ろうとするのは当然のことである。互いを認め合い、この人なら自分を任せられるかもと恋に落ちて行く。そこまでのプロセスは、甘美な、何度味わっても味わいつくせない甘く切ない恋の期間であろう。多くの場合、その段階で終わり、愛にまで発展しないのだが、それを愛と誤認することで様々なトラブルが生じる。「彼は私のこと分かってくれない」だとか、「彼女は自分のことしか考えない」とか言って、別れる男女のなんと多いことか。そんなのは愛でもなんでもない、ただの錯覚だから、早く別れたほうがいい。互いに見詰め合っているだけなら、どうしたって、相手の欠点が見えてくる。その意味で、SMAPのこの曲はなかなか示唆に富む。
♪育ってきた環境が違うから、すれ違いはしょうがない♪
山崎まさよし「セロリ」
当たり前のことなのに、これが分からずに恋のまま終わるカップルが実に多い。まあ、下手に結婚してすぐに別れるバカップルよりもまだましかもしれないが。
お互いの、自分とは違う点を認め合い、その違う点も含めた一個の存在として相手を尊重し合うことができれば、その瞬間に恋は愛へと昇華する。さらに、サンテグジュベリの言葉のように、二人で同じ方向を見つめ合うことができたとき、愛はたとえ一瞬であったとしても、成就されるのではないだろうか。それが、家を建てるとか、子供をどこそこの学校に入れるとか、どんなに日常的なものであったとしても、男女2人が力を合わせて1つの目標に向かって生きるとき、愛が達成されていると感じるのは、まだまだ私が青いからだろうか。
愛を信じて生きなきゃ、この先、生きていけないや、私は。
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論争
私は、心から松井秀喜を応援する純粋な思いを抱いた人々と共に、松井を応援するため、日々ゴジトピに通っている。私としては何も堅苦しい気持ちからではなく、多くの仲間とワイワイできたらいいな、と半ば遊び感覚でお邪魔させてもらっているのだが、中には、松井の打撃についてやヤンキーズのチーム状態などについて、自らの私見を述べるために、長文を投稿される方も何人かみえる。こうした論文が、時々論争を巻き起こすきっかけになることもあるが、終盤戦に差し掛かって、松井も不調に陥り、ヤンキーズも苦しんでいる現状では、厳しい言葉の飛び交う論争もあちこちで増えてきた。
私としては、他人の喧嘩ほど面白いものはないと傍観を決め込んでいるのだが、そこで気付いたことがあるので、以下に記してみたい。
論争と言っても、掲示板の性質上、1対1の言い争いでありながら、それぞれの投稿を読む多くの人たちがいるわけで、その際、読む者にどれだけ説得力のある投稿となるかは、次の2つの要素が基本となる。
1つは、観察力・分析力・判断力という、頭の中での総合的な能力(すなわち、今の松井を見て、あれこれ考えて、こうだと判断する力)を、ひとまとめにして洞察力と呼ぶことにする。これに対して、もう1つの能力は、そうして導き出した結論を表現する能力、ここでは文章化する能力のことを言うので文章力と呼ぶ。(この文章力というのは、自らの考えを明晰に、論理的に伝える能力のことであり、視覚に訴えたり、文体を工夫することではない。)この2つの要素が互いに作用しあって1つの論文が完成するのだが、この要素の優劣によって、掲示板上での論文を次のように4つのクラスに分けることができる。
A.洞察力○ 文章力○ B.洞察力○ 文章力×
C.洞察力× 文章力○ D.洞察力× 文章力×
この中で、最も説得力があり読む者を納得させるだけの力を持っているのがAであり、その主旨が理解できず、誰もが首を傾げてしまうのがDとなる。問題なのは、BとCのうち、どちらがより説得力を持った論文かということである。ここで忘れてならないのは、これらの論文がすべて掲示板上、すなわち、文字を介してのみ論者の考えが発表される点である。対面して論を交わすなら、身振りや表情などによって、言外の意図を伝えることもできようが、掲示板ではそうした副次的な要素は全く含まれず、文字で全てを伝えなくてはならない。従って、いくら洞察力に優れた論文でも、文章力が劣っていれば、読む者に論者の真意を伝えられなくなる。逆に、洞察力が少々欠けていても、文章力に長けていれば、読む者の共感は得やすいだろう。そういう意味で、私は、C>B だと考える。
つい先日も、論争が湧き起こった。上のランク付けに従えば、Aランクの論者に、BもしくはDの論者が噛み付いたが、結果は火を見るより明らかだった。ただし、松井を応援する気持ちは両人とも共有しているはずだから、論理のすれ違いだけで優劣をつけることは避けたい。ただ、惜しむらくは、文章の不明瞭さ、これは如何ともし難い。私には何度読んでも何が言いたいのかが伝わってこないのだから仕方がない。それとも、ただ私の理解力が足らないだけなんだろうか・・・
私としては、他人の喧嘩ほど面白いものはないと傍観を決め込んでいるのだが、そこで気付いたことがあるので、以下に記してみたい。
論争と言っても、掲示板の性質上、1対1の言い争いでありながら、それぞれの投稿を読む多くの人たちがいるわけで、その際、読む者にどれだけ説得力のある投稿となるかは、次の2つの要素が基本となる。
1つは、観察力・分析力・判断力という、頭の中での総合的な能力(すなわち、今の松井を見て、あれこれ考えて、こうだと判断する力)を、ひとまとめにして洞察力と呼ぶことにする。これに対して、もう1つの能力は、そうして導き出した結論を表現する能力、ここでは文章化する能力のことを言うので文章力と呼ぶ。(この文章力というのは、自らの考えを明晰に、論理的に伝える能力のことであり、視覚に訴えたり、文体を工夫することではない。)この2つの要素が互いに作用しあって1つの論文が完成するのだが、この要素の優劣によって、掲示板上での論文を次のように4つのクラスに分けることができる。
A.洞察力○ 文章力○ B.洞察力○ 文章力×
C.洞察力× 文章力○ D.洞察力× 文章力×
この中で、最も説得力があり読む者を納得させるだけの力を持っているのがAであり、その主旨が理解できず、誰もが首を傾げてしまうのがDとなる。問題なのは、BとCのうち、どちらがより説得力を持った論文かということである。ここで忘れてならないのは、これらの論文がすべて掲示板上、すなわち、文字を介してのみ論者の考えが発表される点である。対面して論を交わすなら、身振りや表情などによって、言外の意図を伝えることもできようが、掲示板ではそうした副次的な要素は全く含まれず、文字で全てを伝えなくてはならない。従って、いくら洞察力に優れた論文でも、文章力が劣っていれば、読む者に論者の真意を伝えられなくなる。逆に、洞察力が少々欠けていても、文章力に長けていれば、読む者の共感は得やすいだろう。そういう意味で、私は、C>B だと考える。
つい先日も、論争が湧き起こった。上のランク付けに従えば、Aランクの論者に、BもしくはDの論者が噛み付いたが、結果は火を見るより明らかだった。ただし、松井を応援する気持ちは両人とも共有しているはずだから、論理のすれ違いだけで優劣をつけることは避けたい。ただ、惜しむらくは、文章の不明瞭さ、これは如何ともし難い。私には何度読んでも何が言いたいのかが伝わってこないのだから仕方がない。それとも、ただ私の理解力が足らないだけなんだろうか・・・
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あ~、いやだ!
2005年09月03日 / 塾
以前、『デジタルデバイド』というタイトルで、何も知らない高校2年生について紹介したが、彼にまた新たな伝説がいくつか生まれたので、報告する。
半月ほど前、彼(S)が突然私に質問した。『「シャイ」って、どういう意味?』『えっ、お前は「シャイ」の意味を知らないのか』『うん、みんながよく使うから気になってたんだけど、どういう意味なの?』今時の高校生にとって「シャイ」という言葉は必需品であり、ほぼ日本語化していると思っていた私は唖然としてしまった。『そんな当たり前の言葉の意味を知らずに、今までどうやってきたんだ』とたずねる私に、『まあ、適当に』と答えて、恥ずかしがる素振りを少しも見せない。『そんなバカな質問がとてもできない恥ずかしい気持ちを、「シャイ」って言うんだ』と私が嫌味を言っても、『なんだ、そういう意味だったのか』と、ちっともへこたれない。まるで、暖簾に腕押しだ。
さらに、1週間前のことだ。休み時間を終えた高校生たちと授業を始めようとしたら、1人の生徒が、Sを指差して、『塾長、こいつ、9・11(セプテンバーイレブン)を知らないんですよ』『えっ』としばし絶句する私のことなどお構いなしに、Sは『だから、教えてよ、何の日なの?』と隣の席の友人にたずねる。友人が、『セプテンバーって何月か分かる?』と聞くと、『10月』。『何だって?』余りの無知ぶりに私が息も継げないでいると、『ああ、9月か、間違えた。う~ん、9月11日・・・何の日だったけ』『本当に知らないのか』と私は嘆息するばかりであったが、『選挙の日だろ』と茶々を入れる者がいた。『なんだ、選挙の日か。で、何の選挙?』・・・・彼の頭の中には、9・11のアメリカ同時テロも、衆議院総選挙も存在しないらしい。ここまで来るとさすがに一同シラーッとしてしまい、『さあ、こんなバカほっといて、勉強するぞ』と言う私の声に、みんな素直に従って勉強し始めた。これほど、現代の高校生として、超が付くほど社会的常識が無い人間も珍しい。意識が低いのは勿論だが、精神的にもものすごく幼い彼を見ていると悲しくなるが、さらに追い打ちをかける事件を昨日引き起こしてくれた。
彼が、火・水と2日続けて塾にやって来なかった。夏休み中は、日曜日を除いて週に6日間通って来ることになっている。それまでは、旅行やら、家の用事やらで欠席することはあったが、この2日間は連絡がなかった。変だなと思って、彼の携帯に連絡したのだが、留守電になっていてつながらない。仕方がないから、まあいいかとほかっておいた。すると、木曜日の朝、私の大切な水分補給源であるペットボトルのお茶を買いに妻と出かけたら、スーパーで彼の母親にばったり出会った。何度も面談で話したことがある人なので、挨拶もそこそこに、2日続けて彼が欠席した理由を尋ねたところ、『えーっ、行ってないんですか。2日とも私が車で送って行ったんですよ。』と絶叫してしまった。彼女がちょっと落ち着いてからあれこれたずねたが、どうも塾まで来たはいいが、中には入らず、どこかへ遊びに行ってしまったようなのだ。ある大学の付属高校の生徒として、内部推薦での進学を狙っている彼にとって、夏休み明けのテストはかなり重要なものだ。それを何度も言い聞かせて、夏休み中コツコツ勉強してきたのに、直前になって塾をサボって遊びに出かけるとは・・・私はしばし開いた口がふさがらなかったが、母親の味わった衝撃は、私などとは比べ物にならないだろう。それを思うと、申し訳なさで一杯になったが、余りに精神的に幼すぎる子供を持った親の苦労が思いやられて、気の毒な気持ちにさえなった。
その夜は、父親にひどく叱られたらしく、また私にも当然厳しく怒られるのも分かっているので、恐れをなして塾を欠席してしまった。どんな風に怒ってやろうかと楽しみにしていた私は、拍子抜けしてしまった。しかし、この一夜の冷却期間が彼にとっては奏効したようで、今夜登場した彼の顔を見ても、私はさほど怒る気にもなれず、頭を一発叩いただけで、許してやった。
だけど、本当にいやになる。こんな何も知らず、自分の置かれた立場さえ理解できない男が、このまま大学に入り、のほほんと4年間過ごして社会に出たところで果たしてまともな仕事ができるのだろうか。あー、いやだいやだ。
半月ほど前、彼(S)が突然私に質問した。『「シャイ」って、どういう意味?』『えっ、お前は「シャイ」の意味を知らないのか』『うん、みんながよく使うから気になってたんだけど、どういう意味なの?』今時の高校生にとって「シャイ」という言葉は必需品であり、ほぼ日本語化していると思っていた私は唖然としてしまった。『そんな当たり前の言葉の意味を知らずに、今までどうやってきたんだ』とたずねる私に、『まあ、適当に』と答えて、恥ずかしがる素振りを少しも見せない。『そんなバカな質問がとてもできない恥ずかしい気持ちを、「シャイ」って言うんだ』と私が嫌味を言っても、『なんだ、そういう意味だったのか』と、ちっともへこたれない。まるで、暖簾に腕押しだ。
さらに、1週間前のことだ。休み時間を終えた高校生たちと授業を始めようとしたら、1人の生徒が、Sを指差して、『塾長、こいつ、9・11(セプテンバーイレブン)を知らないんですよ』『えっ』としばし絶句する私のことなどお構いなしに、Sは『だから、教えてよ、何の日なの?』と隣の席の友人にたずねる。友人が、『セプテンバーって何月か分かる?』と聞くと、『10月』。『何だって?』余りの無知ぶりに私が息も継げないでいると、『ああ、9月か、間違えた。う~ん、9月11日・・・何の日だったけ』『本当に知らないのか』と私は嘆息するばかりであったが、『選挙の日だろ』と茶々を入れる者がいた。『なんだ、選挙の日か。で、何の選挙?』・・・・彼の頭の中には、9・11のアメリカ同時テロも、衆議院総選挙も存在しないらしい。ここまで来るとさすがに一同シラーッとしてしまい、『さあ、こんなバカほっといて、勉強するぞ』と言う私の声に、みんな素直に従って勉強し始めた。これほど、現代の高校生として、超が付くほど社会的常識が無い人間も珍しい。意識が低いのは勿論だが、精神的にもものすごく幼い彼を見ていると悲しくなるが、さらに追い打ちをかける事件を昨日引き起こしてくれた。
彼が、火・水と2日続けて塾にやって来なかった。夏休み中は、日曜日を除いて週に6日間通って来ることになっている。それまでは、旅行やら、家の用事やらで欠席することはあったが、この2日間は連絡がなかった。変だなと思って、彼の携帯に連絡したのだが、留守電になっていてつながらない。仕方がないから、まあいいかとほかっておいた。すると、木曜日の朝、私の大切な水分補給源であるペットボトルのお茶を買いに妻と出かけたら、スーパーで彼の母親にばったり出会った。何度も面談で話したことがある人なので、挨拶もそこそこに、2日続けて彼が欠席した理由を尋ねたところ、『えーっ、行ってないんですか。2日とも私が車で送って行ったんですよ。』と絶叫してしまった。彼女がちょっと落ち着いてからあれこれたずねたが、どうも塾まで来たはいいが、中には入らず、どこかへ遊びに行ってしまったようなのだ。ある大学の付属高校の生徒として、内部推薦での進学を狙っている彼にとって、夏休み明けのテストはかなり重要なものだ。それを何度も言い聞かせて、夏休み中コツコツ勉強してきたのに、直前になって塾をサボって遊びに出かけるとは・・・私はしばし開いた口がふさがらなかったが、母親の味わった衝撃は、私などとは比べ物にならないだろう。それを思うと、申し訳なさで一杯になったが、余りに精神的に幼すぎる子供を持った親の苦労が思いやられて、気の毒な気持ちにさえなった。
その夜は、父親にひどく叱られたらしく、また私にも当然厳しく怒られるのも分かっているので、恐れをなして塾を欠席してしまった。どんな風に怒ってやろうかと楽しみにしていた私は、拍子抜けしてしまった。しかし、この一夜の冷却期間が彼にとっては奏効したようで、今夜登場した彼の顔を見ても、私はさほど怒る気にもなれず、頭を一発叩いただけで、許してやった。
だけど、本当にいやになる。こんな何も知らず、自分の置かれた立場さえ理解できない男が、このまま大学に入り、のほほんと4年間過ごして社会に出たところで果たしてまともな仕事ができるのだろうか。あー、いやだいやだ。
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スマコン

その夜、食事に自宅に戻ったときには、妻はチケット片手に座席の確認をPCの画面上でしていた。う~んとか、きゃあとか声を上げながら確認している姿を横から見ていて何だか笑えてきたので、ニヤニヤしていたら、それを見つけた彼女が『本当に嫌だ、あなたは本当に嫌な人だ。私が何か一生懸命やってると、すぐにそうやってバカにするから、ああ、本当に嫌だ!』とまたまた、悪口雑言を浴びせかけて来る。ふ~ん、なるほど、と思った私は考えてみた。「そう言えば、今年はまだスマコンに1回しか行ってないじゃないか。横浜に行っただけで、札幌はパスしたし、福岡も止めた。大阪ドームにも何故か行かなかった。今週末の国立競技場は広すぎるから行かないと前々から言っていたから、う~ん、もうそろそろ限界に来てるのかな。」それなら、ガス抜きでもしてやるかと提案してみた。『国立に行ってくればいいじゃん。』『えっ、でも、あそこは・・』『広すぎるんだろ』『うん、横浜スタジアムでも7万人ですごいなと思ったけど、国立は8万人だよ。』『へー、すごいな』『それにチケットがもうない』と、それからは今年のチケット事情を滔々と説明し始めた。
彼女が言うには、今年はファンクラブの古い会員が外されて、会員番号が大きい新しい会員達にチケットが優先的に回されているらしい。彼女の仲間で、古くからの会員の人たちが、色々な会場のチケットを取れずに困っているらしいのだ。『新しい会員を優遇するのはファン層を開拓したいからじゃないの?』と私がたずねると、『そのお陰で困ったことが色々起こっている』と畳み掛けてきた。1つは、コンサート会場に新参のファンが多くなってしまい、従来からあるお約束ごとが通じないことがよくあるそうだ。例えば、団扇は顔より上に挙げてはいけないとか、この曲ではこう踊るとか。こうした決まりごとを分かっていない人々のため、どこかしっくりこない、というヲタさんたちの声がふつふつと沸きあがっているらしい。もう1つはそういう素人さんたちにチケットが多く回るものだから、余ったたくさんのチケットがオークションなどに出品されているのだ。素人ダフ屋と彼女は呼んでいるが、値のつけ方が無茶苦茶で、ナゴヤドームのアリーナ席が20万円で出されていると言っていた。『とてもいい席だけど、誰も買わないよ。』と言っているが、世の中には怪物みたいな人もいるので、買う人もいるかもなしれないと私は思っている。
結局、妻は私の勧めを殊勝にも断ったが、少しは胸のつかえが取れたようだ。現在の彼女の最大の関心事は、ナゴヤドーム4日間のうち、取れなかった20日のチケットを何とかして手に入れることだ。先ほど、チラッと見たところ、ヤフーオークションのページを開いていたので、『20万の席を買うつもりか』と冗談を言ってやったら、『そんなお金はないよ』とニコニコしていたので、まあ、来週末の大阪でのコンサートまでは、何とか気持ちがもちそうだなと、思った。
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9月だ!
2005年09月01日 / 塾
やっと9月だ。私にとっては、長い長い夏休みが終わった。1日15時間労働の日々とサヨナラできる。あ~あ、しんどかった、疲れた・・。今までは気が張っていたから何とか持ちこたえてきたけれど、9月になって気が緩むとドッと疲れが出るのかもしれない。いやいや、とても気を緩めるわけにはいかない。すぐにやらなければいけないことが山積しているのだ。
まず、塾舎内を一度きれいに清掃しなければならない。夏休み中は、息子が学校などの用事がないときは必ず掃除をしてくれた。息子の前には娘が何年か担当してくれたし、その前は塾生の中で有志を募って掃除をしてもらっていたが、歴代何人かの内で、息子の掃除が一番丁寧できれいだ。自分で言うのもなんだが、私はきれい好きな性質で、掃除をし始めると隅々まできちんとしなければ気が済まない。私の寝室がグチャグチャなのは、掃除を始める気がなかなか起こらないだけで、決して汚れているのが平気なわけではない。ただ、このやるぞという気合いは年に数回しか起こらないのが玉に瑕だが、一旦その気さえ起これば鬼神の如く働き、部屋中をぴかぴかに磨き上げる。私のこの性質がうまく遺伝したのか、息子の掃除っぷりは実に見事だ。ゴミ1つない状態になるまできちんと掃除機をかけてくれるので、気持ちがいい。こんなにいい仕事をしてくれたのだから、バイト代をはずまなければいけない。
しかし、階段の隅とか天井までには、さすがの息子も注意が行かないようで、所々にクモの巣が張っていたりする。私は、クモの巣が廃屋のイメージを連想させるため、塾舎にかかるのを忌み嫌って、見つけると必ず払い落とすのだが、夏休み中は忙しさに紛れて、なかなかそこまで注意が回らない。きっと、そこここにクモの巣があるはずだ。クモの巣を払うことから始めよう。次には、エアコンの掃除、トイレの掃除など、きれいにしなければならないものばかりだ。
それと2学期用のテキストを印刷して塾生に配布しなければならない。英語と数学は学期ごとに分冊した自作のテキストを使っているので、早急に印刷しなければ授業に間に合わない。印刷機にかけ、刷り上ったものを仕分けし製本する、その工程は簡単そうだが、一人でするとかなりの時間がかかってなかなか面倒くさい。しかし、もうそんなことは言っていられない、すぐに取り掛からなければならない。塾長と言っても、ふんぞり返っていられるような身分ではなく、自分で何でもやらなけりゃならないので、毎日大変だ。
掃除にしても、印刷にしても、時間的に追い詰められないと、なかなか重い腰が上げられないのは困ったものだ。もっと前から、計画立てて1つ1つ済ませていればさほど苦しまずにすむのに・・・と同じ失敗を何度繰り返しても、この悪癖からはなかなか抜け出せない。
そうは言っても、もう9月。受験生にとっては正念場の秋だ。決して気を緩めることなく、あれこれ考え、少しでも彼らの役に立てるよう頑張っていくのが、塾長としての務めだ。さあ、気合入れて頑張るぞ!
まず、塾舎内を一度きれいに清掃しなければならない。夏休み中は、息子が学校などの用事がないときは必ず掃除をしてくれた。息子の前には娘が何年か担当してくれたし、その前は塾生の中で有志を募って掃除をしてもらっていたが、歴代何人かの内で、息子の掃除が一番丁寧できれいだ。自分で言うのもなんだが、私はきれい好きな性質で、掃除をし始めると隅々まできちんとしなければ気が済まない。私の寝室がグチャグチャなのは、掃除を始める気がなかなか起こらないだけで、決して汚れているのが平気なわけではない。ただ、このやるぞという気合いは年に数回しか起こらないのが玉に瑕だが、一旦その気さえ起これば鬼神の如く働き、部屋中をぴかぴかに磨き上げる。私のこの性質がうまく遺伝したのか、息子の掃除っぷりは実に見事だ。ゴミ1つない状態になるまできちんと掃除機をかけてくれるので、気持ちがいい。こんなにいい仕事をしてくれたのだから、バイト代をはずまなければいけない。
しかし、階段の隅とか天井までには、さすがの息子も注意が行かないようで、所々にクモの巣が張っていたりする。私は、クモの巣が廃屋のイメージを連想させるため、塾舎にかかるのを忌み嫌って、見つけると必ず払い落とすのだが、夏休み中は忙しさに紛れて、なかなかそこまで注意が回らない。きっと、そこここにクモの巣があるはずだ。クモの巣を払うことから始めよう。次には、エアコンの掃除、トイレの掃除など、きれいにしなければならないものばかりだ。
それと2学期用のテキストを印刷して塾生に配布しなければならない。英語と数学は学期ごとに分冊した自作のテキストを使っているので、早急に印刷しなければ授業に間に合わない。印刷機にかけ、刷り上ったものを仕分けし製本する、その工程は簡単そうだが、一人でするとかなりの時間がかかってなかなか面倒くさい。しかし、もうそんなことは言っていられない、すぐに取り掛からなければならない。塾長と言っても、ふんぞり返っていられるような身分ではなく、自分で何でもやらなけりゃならないので、毎日大変だ。
掃除にしても、印刷にしても、時間的に追い詰められないと、なかなか重い腰が上げられないのは困ったものだ。もっと前から、計画立てて1つ1つ済ませていればさほど苦しまずにすむのに・・・と同じ失敗を何度繰り返しても、この悪癖からはなかなか抜け出せない。
そうは言っても、もう9月。受験生にとっては正念場の秋だ。決して気を緩めることなく、あれこれ考え、少しでも彼らの役に立てるよう頑張っていくのが、塾長としての務めだ。さあ、気合入れて頑張るぞ!
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