1分で読める小さなお寺の法話集

子育て、人材育成に関する法話を実話と歴史から紐解いて書いております。

【住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】 一休宗純(室町時代の禅僧)さんが「今、死んだ。どこにも行かん。ここにおる。尋ねはするなよ。物は言わんぞ」と。それだけで十分有難い。

2022-01-10 14:52:10 | 法話
1月といえば思い出すは、20年前、父他界の翌年、わが寺の女性僧侶(現在92歳)の夢に父が出てきて「息子(拙僧)が疲れとる」と。この僧侶が心配してお寺へ。「確かに、疲れてはいるが、そこまでいう程には」と。その直後から1ヶ月の間に14人連続葬式が。「これか」と。夢とはいえ、死んでまで子の心配を。

【追伸】
20年前の1月は、葬式、火葬、収骨、初七日の取り上げ法事を済ませ、お寺に帰宅途中で「檀家他界」の知らせが。その足でそちらの家へ。これが3家連続、2度繰り返した。あとは2家連続が2度、単発が4家。後にも先にもこんな事はなかった。1人(家)、1人(家)、満中陰(49日、納骨)まで7日ごとに、その家に追善供養(14人×7日=98回)へ。大変な1ヶ月だった。1月に3回忌、7回忌、13回忌と、この14家の法事が連続である年がくる度に、この時の事を思い出し、父親の顔が脳裏に浮かぶ。他界した人間が本当に子孫の側にいるかどうかなど、確認も出来ねば、確証もないが、例え夢とはいえ、偶然とはいえ、こんな事が起こると「見守ってくれているのかな」と、親の有難さを感じる。