【1月20日投稿分】
読者で若い男性から「住職は年末年始には、太宰府天満宮さんには、必ず参詣されていると聞きましたが、でも菅原道真公といえば、日本三大怨霊(他2人は、平将門、崇徳上皇)の1人というじゃないですか」と。「さて、どこから話をしていこうかね。右大臣まで上りつめた菅原道真公だったが、左大臣の藤原時平公の圧力によって、醍醐天皇が命を下し、太宰府に左遷を。その左遷の日が、901年の1月25日だったそうだ。その左遷の道中で詠まれたが、あの有名な『東風(こち)吹かば、にほひをこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ』で、解釈は『東の風が吹いたなら、梅の匂いを私のところまで届けておくれ。主人がいないからとて、春を忘れちゃいけないよ』とその様な思いで。左遷後、失意のうちに903年、道真公は太宰府の地でご他界を」と。
続けて拙僧「ところが、そこから不可解な出来事が連発したんだと。道真公の左遷に関わった人物の相次ぐ死。日照りによる作物の不作。加えて、流行病や天災で京都は大混乱を。これが道真公怨霊伝説の始まりになったんだが、いやいや、人は寿命がくれば死ぬし、流行病も天災も、来る時は来るさ。が、その様々な被害を、道真公が京都にいた時に住んでおられた、桑原地区だけが偶然にも逃れられた事が、怨霊伝説に拍車をかける事になったんだろうね。今でも雷が鳴ったら、被害がない様にと呪文の様に『おお、くわばら、くわばら』というは、この『桑原』地区の事なんだよね。当時、この道真公の怒りを抑える為に設けられたが、北野天満宮さん。よって、世に『天神さん』というは、菅原道真公の事にて。その天神さんをお祀りした神社は、全国に12000社ほどあると言われるが、思えば、人間の都合で、悪い事が起こった時には、怨霊にされたり、願い事が出来た時には、神さんにされたり、と。なんともはや、失礼な話だよ。道真公も忙しいこって」と。「そういう事か、怨霊は人間の作為だったのか。じゃ、学問の神様にされたは、どういう経緯からですか」と。「江戸時代の時、読み書き算盤を教える『寺小屋』というが普及されてね。その教室に道真公のお姿を描いた『御神影』を掲げ、学業上達を願ったが『学問の神様』として人々(世間)に広く知られる様になったが、始まりらしいよ」「そうなんですね。何か、何もかんも、人間の都合だった、という事か」「そういう事だね。道真公を怨霊にするも、神様にするも、人間の心持ち次第という事。責任転嫁が得意な人間のやりそうなこった」と。
加えて拙僧、この若い男性に「この話は余談だけどね、60歳を超えるまで、大きい病気は何1つ患った事のない男性がいてさ、その男性が『神や、仏や、先祖など、眼中にないわ。自分の事は自分で何とかするわい』と豪語していたんだが、いざ、自分が癌と宣告された時、それも初期の初期の癌で、命に関わりのない癌だったんだが、オロオロしながら『住職さん、神様、仏様、ご先祖様に、病気全快をご祈願してくれませんか」と、それはそれは丁寧に頼んできた。呼び捨てだった『神、仏、先祖』にも、ご丁寧に『様』が付き、拙僧の住職にも『さん』が付きおった。いやいや、祈願するが悪い事ではないんだよ。人間は皆、大なり小なり、弱い生き物だからね。こんな人、これまでに何人いたかな。それも全て男性。まあ、宣告されてすぐというは、誰しも不安でオロオロしますわな。初めて経験する事(死)だからね。ところが、死が迫ってくると大半の人は落ち着いて、腹が座り、旅立ちの準備(家族に残す物の整理)を始め出す。1000人以上の葬儀、その数倍の人の『生き死に』に携わってきた拙僧の経験範疇(檀家、知人)での所感だけどね」と。
最後にこの若い男性読者が「ところで、住職さん。こんな法話を投稿して『悪霊が祟った。先祖が祟った』等の話が好きな拝み屋(僧侶)さん達から、文句のメールは来ないんですか」と。「殆ど来ないよね。が、偶に来た時には『この意見は拙僧の意見を書いただけで、あなたの意見を書いた訳じゃないから、気にされないで下さい』と言ってるけどね」と答えると「その回答、もらった。結構来るんだ、私にも文句メールが。それ、使わせてもらいます」と。
投稿写真は、本文中の桑原地区です。現在は、京都御所南側、丸太町通り内にあります。次回の投稿法話は、1月25日になります。