母は明治30年の生まれですから、生きていれば齢108歳です。亡くなって
19年になります。大腿骨骨折により5ヶ月入院、手術も受けましたが、90才
とあってはリハビリーもままならず、だんだんと痴呆も出、家へ帰ることなく逝
ってしまいました。
私はまだ仕事をもっていましたから、付き添うことも出来ませんでした。当時
は、家政婦さんを付けてもいいことになっていましたから、24時間頼み、姉と
で付いてくれました。最後は眠るがごとく大往生でした。
母については、私は末っ子ですからずいぶん年の差があります。18歳で嫁ぎ
父の仕事の関係で、韓国京城(今のソウル)に住み、長男出生は郷里へ一人で帰
ったそうです。玄界灘をわたるときは大変だったと、・・・4,5年後日本へ、
その後、伊勢にて終戦前まで生活。昭和18年郷里の田舎へ帰ったのです。
戦中はしたことのない田畑の仕事もやらねばならず(父は勤め)
兄2人は出征、姉と私を育ててくれました。気丈な人でしたが、兄2人の戦死
の公報を受け取ったときは表(外)に出ようとしませんでした。
姉に養子を迎え孫たちに囲まれてからは、お婆ちゃんとして幸せな日々を送れ
たようです。3人の孫が東京での大学生暮らしの際は、東京までも行きました。
父はのんびりやで何事もゆっくり屋でしたから、気強い母とはあまり仲が良か
ったようには見えませんでした。(けんかもよくしていました)
明治生まれにしては背が高く5尺3寸(160cm)、細身で足が長く、わた
したち姉妹が足が短いのは、父親のせいにしていました。本をよく読み「文芸春秋」
「婦人公論」等の雑誌、わたしが買ってくる本も好んで読んでいました。
末っ子の私は若い頃から病気がちで一番心配をかけたのではと思います。
ゴルフやスイミングをしていると知ったら、天国でびっくりしていることでしょ
うね。義兄も姉もすでに父母の許へ、一番弱かった私一人が残って、済まないよ
うな気がします。もうしばらくこの世で頑張ります。
出揃った早苗

芍薬 やっと咲き出す

19年になります。大腿骨骨折により5ヶ月入院、手術も受けましたが、90才
とあってはリハビリーもままならず、だんだんと痴呆も出、家へ帰ることなく逝
ってしまいました。
私はまだ仕事をもっていましたから、付き添うことも出来ませんでした。当時
は、家政婦さんを付けてもいいことになっていましたから、24時間頼み、姉と
で付いてくれました。最後は眠るがごとく大往生でした。
母については、私は末っ子ですからずいぶん年の差があります。18歳で嫁ぎ
父の仕事の関係で、韓国京城(今のソウル)に住み、長男出生は郷里へ一人で帰
ったそうです。玄界灘をわたるときは大変だったと、・・・4,5年後日本へ、
その後、伊勢にて終戦前まで生活。昭和18年郷里の田舎へ帰ったのです。
戦中はしたことのない田畑の仕事もやらねばならず(父は勤め)
兄2人は出征、姉と私を育ててくれました。気丈な人でしたが、兄2人の戦死
の公報を受け取ったときは表(外)に出ようとしませんでした。
姉に養子を迎え孫たちに囲まれてからは、お婆ちゃんとして幸せな日々を送れ
たようです。3人の孫が東京での大学生暮らしの際は、東京までも行きました。
父はのんびりやで何事もゆっくり屋でしたから、気強い母とはあまり仲が良か
ったようには見えませんでした。(けんかもよくしていました)
明治生まれにしては背が高く5尺3寸(160cm)、細身で足が長く、わた
したち姉妹が足が短いのは、父親のせいにしていました。本をよく読み「文芸春秋」
「婦人公論」等の雑誌、わたしが買ってくる本も好んで読んでいました。
末っ子の私は若い頃から病気がちで一番心配をかけたのではと思います。
ゴルフやスイミングをしていると知ったら、天国でびっくりしていることでしょ
うね。義兄も姉もすでに父母の許へ、一番弱かった私一人が残って、済まないよ
うな気がします。もうしばらくこの世で頑張ります。
出揃った早苗

芍薬 やっと咲き出す
