城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

日本の戦争指導者 22.1.16

2022-01-16 19:39:59 | 面白い本はないか
 それぞれの組織、グループにおいて指導者(リーダー)の果たす役割が大きいことは言うまでもない。例えば山行でのリーダーが優秀であれば、難しい山でも安全に登ることができる。もっと大きな組織、例えば会社であればいくら従業員が優秀であっても経営陣がぼんくらであれば経営はじり貧となる。まして、戦争指導者がぼんくらであれば多くの兵士が命を失い、戦いには負けてしまう。この傾向は、アジア太平洋戦争において顕著であり、ムダに多くの兵士が命をなくし、国民も塗炭の苦しみを味わった。

 年末に読んでいた「東条英機」などはその最たる例である。天皇に仕える優秀な官僚的軍人であったかもしれないが、「死して虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)」「高射砲でB29を落とせないのは落とそうという気合いが足りないからだ(実は弾が届かない、合理性よりも精神性を強調)」などは最悪の実例だ。最近読んだ佐高信著「石原莞爾 その虚飾」では、石原は東条を無能と呼ぶくらい異才の軍人だが満州事変(彼は満州を得ることによって日米の戦いに備えるという計画だった)を引き起こし(彼は満州以外の中国とは戦わないという考えだったが、満州での彼の真似をする武藤章などの軍人を生むことになった)日本が泥沼の戦争に至る端緒となった。しかし、今日の主人公はこの二人ではない。鴻上尚史著「不死身の特攻兵ー軍神はなぜ上官に反抗したのか」に登場する一兵士だ。


 特攻作戦を少し説明しておくと、その作戦が大々的に行われるようになったのは、もう敗色濃厚な44年(昭和19年)10月から海軍、半月後に陸軍が始めた。海軍の第一回の特攻隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」でゼロ戦に250kg爆弾を装備してアメリカ軍の艦艇に体当たりした。陸軍のは「万朶隊」で主人公の佐々木友次伍長は、この隊の名で9回も出撃し、そのたびに無事に帰還してきた。特攻機は、機銃装置が外され、さらに爆弾が機体に固定されていた。このため爆弾だけを落として、帰還することはできなかった。さらに見落としてならないのは、最初フィリピンにおける作戦では比較的優秀なパイロットが選ばれた。ところが沖縄戦ともなると数少なくなった優秀なパイロットではなく、飛行時間の短い学徒兵を中心に行われた。もともと艦艇に体当たりする作戦の効果に疑問があったうえに、飛行技術の未熟なこともあって、特攻作戦への対策を行うようになったアメリカ軍に対して、有効な攻撃とならなかった。最後は通称赤とんぼと言われる二葉の練習機まで動員された。

 では、佐々木伍長はなぜ帰還することができたのであろうか。これは万朶隊の岩本隊長が工夫して爆弾を投下できるようにしたからであった。ところがこの岩本隊長等の将校は、第一回目の作戦に出撃することはできなかった。その理由は愚かな司令官がいたからである。その名を冨永恭次(前職は陸軍次官、この時東条は首相で陸軍大臣を兼ねていた。陸戦の経験もほとんどなく、航空機に関して全く無知)といい反東条派がフィリピン第4航空軍司令官に彼を送り込んだ(その主役は小磯国昭内閣の杉山元陸軍大臣で、厄介払いできたという意味で「うまい人事だろう」と語ったとか)。戦争では何が必要かを考えたら、適材適所と信賞必罰しかない。これが日本の軍隊で最も欠けていて、そのくせ精神論ばかりを振り回す。これでは命がいくつあっても足りないと思うだろう。冨永司令官は無類の儀式好きで万朶隊のいた基地から400kmも離れたマニラに来い(目的は出撃前の宴会を開くこと)という命令を出した。そこに行く途中岩本隊長等を乗せた九九式双軽(4人乗り、特攻機のため機銃は外されていた。代わりに特攻の際には800kgの爆弾を付けていた。)はアメリカのグラマンに撃墜された。

 隊長等を失いながら、11月12日5人の佐々木伍長を含む5人の万朶隊は出撃した。佐々木ともう一人が基地に戻ってきた。万朶隊の戦果は大本営から戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈と発表された。このうち戦艦は佐々木の戦果であるとされたが、実際は揚陸船艇であった。このあとも生き残った者たちは何回も出撃させられた。生きて帰るたびに、司令部の猿渡参謀長から出頭の命令が来た。参謀長はこう言い放った。「この臆病者!よく、のめのめと帰ってきたな。」「レイテ湾には、敵戦艦はたくさんいたんだ。弾を落としたら、すぐに体当たりしろ。出発前に言ったはずだ。貴様は名誉ある特攻隊だ。弾を落として帰るだけなら、特攻隊でなくてもいいんだ。貴様は特攻隊なのに、ふらふら帰ってくる。貴様は、なぜ死なんのだ。」。彼の廻りの特攻隊の隊員はこうした叱責、冷たい目に耐えきれず特攻死を選んでいくのだが、彼は父親の残した言葉「絶対に死んではいけない」を固く守り、生き残った。

 特攻作戦の生みの親と言われる大西瀧治郎中将(実際は軍令部が考えた作戦のようだが)は戦後自刃した。あとから続くと言っていた多くの指導者は死ななかった。生き残った指導者たちは、特攻作戦を希望者によるものと強弁したのだが、指名ないしは拒めない雰囲気のなかでの申し出であったことは明白だ。佐々木伍長は、フィリピンで終戦を迎え、捕虜収容者に入った後、日本に帰ってきた。復員部隊の一員となって行進を続けていると、その軍人たちに向かって石を投げ始めた。そして叫んだ。「日本が負けたのは貴様らのせいだぞ!」「いくさに負けて、よく帰ってきたな。恥知らず!」「捕虜になるなら、なぜ死なないのか!」。彼は92歳まで生きて、その死の間際に本の著者はインタビューすることができた。特攻兵で終戦を迎えた人たちは、他人に自分の経験を語ることは稀だった。特攻についてもっぱら語るのは、特攻兵ではなくその廻りにいた人々であった。この人たちによって特攻兵は英雄視され、美化されてきたのである。

 こうした指導者に率いられた日本は、300万人という尊い命を犠牲にした。そして、戦没者のかなりの部分が病没によるものであり、余計に愚かな指導者による作戦の犠牲となったことは明白だった。そのことを日本人は忘れてはいけないと思う。

☆おまけー今日の城ヶ峰
 金曜日のブログで予告したが、残念ながら誰とも出会うことはなかった(8時40分~10時30分)。日曜日でしかも天気が良いにもかかわらずである。しかし、一つ収穫があった。天狗山(1149m)の東半分が山頂から見えることを発見した。これで見えたのは、小津権現山、飯盛山、西津汲に続いて天狗山となった。

 今日の城ヶ峰

 新たに見つけた天狗山

 飯盛山(右)、西津汲(左)

 小津権現山

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする