城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

ドイツの過去と今 21.2.13

2021-02-13 11:56:11 | 面白い本はないか
 今日は、予定通りであれば、石徹白の小白山(おじろやま)に行くはずだった。ところが、昨日昼頃から急に膝痛となり、断念せざるをえなかった。小白山は野伏ヶ岳の南にあり、おじさんにはもう生涯登ることはないと思っていたが、先週の土蔵岳のメンバーを中心に行くことになっていた。山の話は未練がましいから止めて、その膝痛なるものについて脱線するが少し話す。40代を過ぎる頃から、その症状はまず眼から始まった。何回も炎症を繰り返すうち、片方の視力は失われた。50代では残りの眼にも炎症が出るようになり、失明を覚悟した。幸い、失明には至ることもなく、今では車にも乗っている。眼以外の症状では、足の関節付近にときたま炎症が起こる。炎症を抑える薬を飲むほかは、症状が治まるのを待つほかはない。この症状が出ると一週間程度は山に行けなくなる。無病息災は理想だが、かえって健康のありがたみが分からなくなる。一病息災か二病息災でいるのが丁度良いのかもしれない。

 さて、今日はタイトルにもあるとおりドイツの話を3冊の本を紹介しながらすることにしたい。高野弦「愛国とナチの間」のあとがきにもあるとおり、「日本人とドイツ人は似ている。几帳面で勤勉。そして秩序や社会の一体性を好む傾向。(中略)歩んできた道のりも似ている。ともに近代国家の建設が遅れ、世界に台頭する過程で先行する国々とぶつかった。第二次大戦で敗れたあとは、経済大国として再び存在感を高めながらも、敗戦国故に国際政治の舞台では常に遠慮がちに振る舞い、国内にあっては愛国的なものは長らく忌避されてきた。」。この本ではキリスト教民主同盟(CDU)のかつての党首で22年に首相を退任するアンゲラ・メルケルを襲う数々の難題を彼女が苦悩しながらも対応していく様を描いている。現在、ドイツを襲う最大の問題は、ドイツのための選択肢(AFD)の急進、CDUに代表される保守及びドイツ社会民主党(SPD)の低調にある。(この国は比例選挙制をひいており、単独で過半数を超える政党が存在しないため、必ず他党と連立を組まなければならない。)AFDの急進は、難民の急増によってもたらされたほか、置き去りにされた旧東ドイツ出身の国民の不満、タブーとされた「愛国」精神(うらを返すとイスラム教徒などの排斥に容易につながりかねない。そしてそれはナチの時代を想起させる。)難民の受け入れをめぐっては、メルケルは苦悩しながらも大幅な難民受け入れ政策をとった。これに対しては自党の中からも反対論が続出していた。ギリシャ問題では国内的には多くの反対論がある中で大きな支援策に乗り出した。メルケル自身は、プラグマティストである一方で、キリスト教に基づく信念から時に保守から外れる判断もする(難民受け入れ=人道的措置)。ナチ時代への反省という点において、ドイツは徹底しているが故に、民族主義や移民排斥を訴えるような政策には同意するわけにはいかないのがドイツの主流なのである。こうして、日本と比較すると「過去の反省」という点において、両国には相当な違いがあると思う。


 次に、「荒れ野の40年ーヴァイツゼッカー大統領演説」を紹介する。とても有名な演説で、「言葉の力」ということを教えてくれる。1985年5月8日にヴァイツゼッカー大統領が行った演説で、5月8日はドイツ敗戦の日から40年後にあたる。演説中最も有名なところは「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」。印象的なところを引用する。「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。」「われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は誠実さであります。心に刻み続けるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人々が理解出来るように手助けせねばならないのです。」「若い人にお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティブを唱える人々や保守主義者、黒人や白人」。

 ※この演説でも、悪いのは国民全部ではなくナチという少数のしたことであり、大部分の国民は知らなかったという箇所が出てくる。しかし、ナチの時代のことが明らかになればなるほど、そうではないことが明らかになってきている。

 最後に紹介するのは、田野大輔「ファシズムの教室ーなぜ集団は暴走するのか」。この授業の様は最後に紹介する。いかに人間は集団の中にいることに魅力を感じ、容易に集団外の個人、考えなどを異分子扱いして排斥するのかということを深く納得させてくれる。歴史的現象としてのファシズムを第一次大戦や世界恐慌による混乱を背景に、ドイツやイタリアなどで台頭した独裁的、全体主義的な政治運動、体制を指し、議会制民主主義の否定、偏狭な民族主義や排外主義、暴力による市民的自由の抑圧といった特徴をもつものと定義することが、ファシズムの根本的な本質をぼやけさせていると説く。究明する鍵は、集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見いだす「魅力』にある(小学校の運動会やサッカーの試合の応援の中にいると「一体感」という魅力を感じるのではないか)。大勢の人々が強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる。ここで重要なのは、その熱狂が思想やイデオロギーにかかわりなく、集団的動物としての人間の本能に直接訴える力を持っている。複雑化した現代社会の中で生きる人々の精神的飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。アメリカのトランプ現象、ドイツの排外主義、日本のヘイトデモなど世界中でファシズムが再来していると言ってよい。ナチス時代のイメージとして、ヒトラーが絶対的な権力を握り、国民を無理やり従わせていたというイメージが強いが実態は違う。戦後の聞き取り調査では戦争が始まるまでは、「良い時代」だっとと回想した人が多かった。ナチズムは大衆運動であり、この運動に関わった人たちは多かれ少なかれ積極的にヒトラーを支持した。戦中と戦後で態度を豹変させた人は、日本と同様ドイツにも多くいた。見方を変えれば、かれの言動は戦中と戦後で矛盾していない。時代ごとの正義、誰もが逆らえない権威を笠に着て、これに従わない人々を抑圧しようとしている点では彼の姿勢は一致している。

 最後にファシズムの体験学習の内容を同書により紹介する。 これは2010年から2020年まで甲南大学で行われた。授業の趣旨は、権威に服従することで、人々は他人の意思を代行する「道具的状態」に陥る。彼らは自分の行動に対する責任から解放され、敵や異分子を思うままに攻撃する。このことを学ぶ。
 ◯授業の概要 90分×2回の特別授業 受講者250名
  <1時限目>
  ・教師が指導者=「田野総統」になることを宣言 拍手喝采で受講者が賛同
  ・指導者への忠誠を誓わせる敬礼「ハイル、タノ!」をあらゆる機会に言わせる
  ・教室内で敬礼と行進の練習を何回も行い、集団の力の大きさを感じさせる球団
  ・「田野帝国」の象徴として、制服(白シャツ、ジーパン)とワッペンを着用
  <2時限目>
  ・大学構内でリア充のカップルを3組見つける(実はサクラ)
  ・屋外の実習でその3組のカップルを取り囲み、拡声器の号令に合わせて「リア充爆発しろ」と叫んで糾弾する
  ・カップルを退散させ、拍手で目標達成を宣言
  ・教室に戻ってレポート提出
  ※この授業がネット、新聞等で評判になり、一方で批判も多く出て、受講者には好評であったが、継続できなくなった。批判のなかには「寝た子を起すな」とか「臭い物のはふたをする」というようなものがあった。しかし、こうした   考えでは、容易に「いつか来た道」に来てしまう可能性を著者は訴えている。

 この「ファシズムの教室」は揖斐川図書館の新刊で見つけた。「愛国とナチの間」は県図書館の新刊で見つけた。この2冊に「荒れ野の40年」を加えてみた。3冊も紹介したので、前の2冊の本が少ししか紹介できなかった(いつものことかもしれないが)。そして今、田野大輔「愛と欲望のナチズム」という本を読んでいる。ドイツ版「産めよ殖やせよ」で優秀なドイツ国民を育てるため、軍の中ではびこる同性愛者を排除し、優秀な子どもを体制維持そして軍隊維持のために産んでもらう。このためポルノと見間違うばかりのヌードの写真をヒムラー等ナチの幹部が音頭をとって使った。ナチの言う健全なヌードとわいせつで卑猥なヌードの区別(日本の軍隊とは随分違う)などとても面白い。一読の価値ありと思います。

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