誰にも生まれた地、あるいは育った地というものがあり、そこに対する愛着は程度の差こそあれあるだろう。おじさんの孫は今タイに住んでいる、生まれたのは大垣とタイ、彼らにとって故郷はどこになるのであろうか。まさかタイとならないようには祈りたい。さて、9月5日と6日にわたり、ホハレ峠から門入を訪問してきた。迎えてくれるのはI氏、今回名前を出しても良いとI氏の代理人(?)Eさんから了解いただいたので、泉さん。その山荘におじさんも含め6人が泊まらせていただいて、大いに飲み、かつ語ろうとするのが今回の目的であった。今年は山荘の主、コロナの影響もあって、泉さんも2回目の滞在となる。泉さんを始め門入の住人は徳山ダムにより故郷を離れなければならなかった。こうした事情が余計に故郷への愛を強くするのかもしれない。仮に徳山ダムがなくて、ただ生活の不便さから住民が次第に生まれた土地を離れたとしたら愛着は少し異なるのかもしれない。おじさんのように生まれた地からほとんど離れたことがない者にとっては、愛着は少し薄くなる。
現在85歳のIさん、実は3年前の訪問時にはホハレ峠に帰る時には、道々案内をしていただけたほどの健脚だった。もちろん現在もお元気で門入に入る手前の林道を今回われわれを迎えるために草刈り機で刈ってくださったほどである。そのIさんの語る門入の歴史、生い立ちなどはEさんが「奥揖斐山荘」のホハレ峠などですでに紹介しているので、興味ある人はご覧いただきたい。それとダブルかもしれないが、6日の朝におじさんが聞いたIさんの生まれた頃、小学生・中学生の頃の話をしたい。Iさんは3代目で、屋号は「すえじろ」。門入(旧徳山も?)の家はすべて屋号を持っている。おじさんの質問はなぜそれぞれの家が屋号を持っているのか。そうした疑問を持つのは、私の住むところでは商家かお金持ちでもなければ屋号を持つことはない。この質問はあとから考えればIさんには少し無理な質問であった。他の地域の事情を知らないことには疑問自体を持つことはできないからである。
Iさんの両親は、父親が半反の田、母親が親からもらった半反の田で出発し、父親の頑張りにより6反くらいまで田を増やした。少ない田を補うため、焼き畑を行い、稗、粟、小豆などを7年ほど作った。焼き畑に関する技術は高く、田を多く所有する家には真似できないくらい(焼き畑をつくる必要が小さかったのが理由だが)だった。それでも家は貧しく、女が続いた後、最後に生まれたIさんは、母親の配慮もあり、当時稗粟混じりのご飯も少しお米を多く食べることができ、姉たちの嫉妬をかったほどだった。小学校の入学時にはよその子どもが金ボタンの服を着ていたが、Iさんは絣の着物に帯びという服装だった。けれどもそれについて少しも恥ずかしいと思ったことはなく、きっといつかは豊になってやるという気持ちを持っていた。戸入(門入の倍の戸数があった)にあった小学校・中学校分校までの道7kmを朝6時に起き通った。これで随分足が強くなった。Iさんの父親は銘板となる木を見分けることができ、それを加工し、ホハレ峠を越えて搬出していた。その加工は田んぼ仕事が終わった後から始め、Iさんも随分手伝った。そのおかげで田を増やし、ホハレ峠を越えて売りに来る肉屋からは他の人が驚くような肉を買うことができた。
以上が短い間にIさんから聞き取った話である。耳が遠く、目の前で話さないと会話にならない。しかし、その口から出てくる言葉はまさしく珠玉のようであった。昔の話をする時のIさんの顔、目は輝いていた。いつまでもお元気でこの山荘の主であることを願うばかりである。帰り際、われわれにいつまでも手を振る姿は、ひょっとしたら多くの人々を送ってきた人の姿であるだろうと思った。
以下写真で今回の山行を報告する。
ホハレ峠 9時出発
峠から15分ほど下ったところから草刈り開始 順番に下りながら草を刈っていった 作業時間約一時間
人数が多いとはかどるわというのがいつも一人で草刈りをすることが多いEさん
地味な花アキチョウジ(ヤマハッカ属)
門入入口沈下橋から見る
三角点「牛尾」に至る尾根のブナ林 取付きのヤブが酷い
宴会最後の地獄うどん この前に焼き肉 重いコンロ、肉を背負ってくれたダブルOさんに感謝、感謝
昭和31年頃の門入 30軒以上の家と田んぼが結構ある この頃は自家発で夜だけ、電灯がついた
その後、中電が入り、そこから急速な電化が始まった
移転の碑 Iさんは十二番目
西谷上流方面
沈下橋と黒谷方面
当時田んぼと住家がたくさんあった
最後の休憩 キジヤ平にて
現在85歳のIさん、実は3年前の訪問時にはホハレ峠に帰る時には、道々案内をしていただけたほどの健脚だった。もちろん現在もお元気で門入に入る手前の林道を今回われわれを迎えるために草刈り機で刈ってくださったほどである。そのIさんの語る門入の歴史、生い立ちなどはEさんが「奥揖斐山荘」のホハレ峠などですでに紹介しているので、興味ある人はご覧いただきたい。それとダブルかもしれないが、6日の朝におじさんが聞いたIさんの生まれた頃、小学生・中学生の頃の話をしたい。Iさんは3代目で、屋号は「すえじろ」。門入(旧徳山も?)の家はすべて屋号を持っている。おじさんの質問はなぜそれぞれの家が屋号を持っているのか。そうした疑問を持つのは、私の住むところでは商家かお金持ちでもなければ屋号を持つことはない。この質問はあとから考えればIさんには少し無理な質問であった。他の地域の事情を知らないことには疑問自体を持つことはできないからである。
Iさんの両親は、父親が半反の田、母親が親からもらった半反の田で出発し、父親の頑張りにより6反くらいまで田を増やした。少ない田を補うため、焼き畑を行い、稗、粟、小豆などを7年ほど作った。焼き畑に関する技術は高く、田を多く所有する家には真似できないくらい(焼き畑をつくる必要が小さかったのが理由だが)だった。それでも家は貧しく、女が続いた後、最後に生まれたIさんは、母親の配慮もあり、当時稗粟混じりのご飯も少しお米を多く食べることができ、姉たちの嫉妬をかったほどだった。小学校の入学時にはよその子どもが金ボタンの服を着ていたが、Iさんは絣の着物に帯びという服装だった。けれどもそれについて少しも恥ずかしいと思ったことはなく、きっといつかは豊になってやるという気持ちを持っていた。戸入(門入の倍の戸数があった)にあった小学校・中学校分校までの道7kmを朝6時に起き通った。これで随分足が強くなった。Iさんの父親は銘板となる木を見分けることができ、それを加工し、ホハレ峠を越えて搬出していた。その加工は田んぼ仕事が終わった後から始め、Iさんも随分手伝った。そのおかげで田を増やし、ホハレ峠を越えて売りに来る肉屋からは他の人が驚くような肉を買うことができた。
以上が短い間にIさんから聞き取った話である。耳が遠く、目の前で話さないと会話にならない。しかし、その口から出てくる言葉はまさしく珠玉のようであった。昔の話をする時のIさんの顔、目は輝いていた。いつまでもお元気でこの山荘の主であることを願うばかりである。帰り際、われわれにいつまでも手を振る姿は、ひょっとしたら多くの人々を送ってきた人の姿であるだろうと思った。
以下写真で今回の山行を報告する。
ホハレ峠 9時出発
峠から15分ほど下ったところから草刈り開始 順番に下りながら草を刈っていった 作業時間約一時間
人数が多いとはかどるわというのがいつも一人で草刈りをすることが多いEさん
地味な花アキチョウジ(ヤマハッカ属)
門入入口沈下橋から見る
三角点「牛尾」に至る尾根のブナ林 取付きのヤブが酷い
宴会最後の地獄うどん この前に焼き肉 重いコンロ、肉を背負ってくれたダブルOさんに感謝、感謝
昭和31年頃の門入 30軒以上の家と田んぼが結構ある この頃は自家発で夜だけ、電灯がついた
その後、中電が入り、そこから急速な電化が始まった
移転の碑 Iさんは十二番目
西谷上流方面
沈下橋と黒谷方面
当時田んぼと住家がたくさんあった
最後の休憩 キジヤ平にて
楽しい二日間でした。m(_ _)m
5日の山行にも、お付き合いくださり
ありがとうございました。m(_ _)m
蛭に献血はしましたが、、久しぶりに藪漕ぎました。
久々に面白かったです。
ありがとうございました。