城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

自然信仰・修験道 20.9.10

2020-09-10 17:56:06 | 面白い本はないか
 毎朝、仏壇にお仏飯をお供えし、さらに神棚にお水(1日、15日は洗った米と塩)を供える。お袋がやらなくなった後、おじさんの役割となった。お袋は仏壇で朝晩正信偈を読んでいたが、おじさんは「南無阿弥陀仏」なんまいだと唱えるのみである。だから、信仰心は厚くないといって良いだろう。お袋も仏壇に参ることができなくなり、その後は念仏すら唱えることもなくなった。実は地域で「先祖供養」なるものが開催されるようになった。その時は、少し違和感があった。先祖というのは各家庭の先祖、あるいは親類縁者毎にあるものだから、地域でやるのは少しおかしいのではないかと。第一、各家庭で宗派が違う。まさか、全ての宗派を網羅することなどできはしない。

 ところが、柳田国男が言うには、死後の霊=魂は自分が暮らしていた場所からそう遠くない山に還るとされてきた。山に還った霊は、自然の力を借りて生きていた間についた垢を取り除いていく。こうして清浄となった霊は自然と一体となって神=仏となり、子孫たちの世界を守っていく。この霊を人々は祖霊とかご先祖様と呼んだ。この祖霊は集合霊であり、自然と一体化した霊でもある。どれくらいで清浄になるのかというと、33年説と少数だが50年説がある。ここで法事のことを思った方がみえるとはずだが、家族がなくなり、33年経つとその人への供養=法事は区切りが付けられる。つまり、この33年は仏教から来るのではなくて、土着的な死生観がその基盤となっている。日本の葬儀には、仏教とは違う儀礼が多くある。

 今から40年以上前の9月、大峰山に2泊3日で出かけた。コースは天ヶ瀬から一ノ峠を経由し、弥山、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳から前鬼に至る、大峰山の南半分を縦走した。ここは、大峯奥駈道となっているところだ。初日、天ヶ瀬への到着が遅れ、途中で日没となり、避難小屋に駆け込んだ。ところがそこには水がない。たまり水でなんとかその夜の食事を作り、翌朝は水なしで弥山でようやく水と食事ができた。奥駈道は吉野の金峯山寺を出発し、まず女人禁制の山上ヶ岳に登り、弥山から熊野本宮大社に至る道で、ここを6日間でめぐるものである。もちろん修行なので場所場所で祈祷などをする。

 奥駈道 「修験道という生き方」から転載

 上 釈迦ヶ岳山頂にて  下 前鬼宿坊にて

 この奥駈の歴史は古く、遠く600年代に遡る。当時役行者(えんのぎょうじゃ)あるいは役小角(えんのおつね)が吉野山中で修行し、過去救済の仏として釈迦如来、現世救済の仏として千手観音、未来救済の仏として弥勒菩薩を念じだし、この三体が融合した蔵王権現を感得したと言われる。この役行者が昔からあった自然信仰と渡来した仏教をまとめた修験道を始めたと言われる。第2節及びこれからは、宮城泰年・田中利典・内山節「修験道という生き方」によって書いていく。この修験道、鎌倉時代に各地の霊山が独自の組織を作り、江戸時代には村々や町々の人々の幅広い支持のもと、里修験や講を軸としたより大衆化された修験道を展開させた。しかし、明治の修験道廃止によって大きな打撃を受けた。修験道は権現思想という神仏混淆の世界であったため、この時に修験道関係の寺はお寺か神社に強制的に分けられた。日本の霊山はほとんどが権現信仰によるもので、吉野の蔵王権現、白山権現、羽黒山権現、富士山(浅間大菩薩という権現)、神でもあり仏でもあり、自然でもある祈りの対象が明治の神仏分離とともに廃止されていった。


 大衆が山に登るようになったのは、江戸時代の講から始まる。江戸中期になると庶民の暮らしにも余裕ができ、プロの修験者(山での修行を重ねながら、行った先の村々で人々の願いに応え、時に雨乞いをし、時に漢方薬や祈祷をとおして、病気を治し、時に各地の情報を伝えた)だけでなく、民衆自身も霊山に登って修行するようになった。修行に行く山と結んだ講という組織を作り、霊山には講の人たちが泊まる宿坊(その経営者が山伏で講の人を先導する役割)が整備されていった。講のメンバーは全員が揃って行く余裕はないので、お金を出し合い、その代表者が順番で山に行った。富士山に行く場合、講から一両、自前で一両(これは講の人へのお土産)を調達し、江戸からまず高尾山等々の霊山に登り、2日かけて富士山に登り、帰りには再び同じ霊山に登り、最後は丹沢の大山に登り、全行程一週間程度だった。今から考えると昔の人は大変な健脚だったことがわかる(おじさんなどは、あやかりたいと切に願うが)。

 現在奥駈は結構人気があるそうであるが、単なる登山でないことは頭に置いていく必要がある。普段山に登っても、ヤブ山が多いせいか、自然のすごさは感じても、信仰心を揺さぶられることはない。しかし、高野山を訪れたときなどは、その霊山に充ち満ちている霊力を少しは感じたものだった。日本の自然は変化が激しい(和辻哲郎「風土」)、四季の変化だけでなく、洪水、津波、噴火などが人々の生活基盤に大きな影響を与える。変化は受け入れるしかないものであり、受け入れてこそ再び立ち上がることができる。こうした精神があるからこそ修験道が生き続けている理由がある。

 以上、内山節の説くところにより長々と書いてきた。本職は哲学者であるけれども、様々な事柄について発言し続けているおじさんの大好きな思想家である。また、中日新聞にときどきコラムも書いている。是非、どれでも良いので読んで欲しい。 



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